9 少年ユーフラテスの想い
ユーフラテスは揺れる馬車の中、高鳴る胸を抑えていた。
どれほどこの日を待っていたことか。
ベッドの上での生活から、通常通りの生活に戻ったと聞く。
王城で見かけたヒューバートに、ネモフィラの様子を尋ねると、まだ病後食で胃に負担のかからないものに限定しているが、食欲も戻りつつあると言う。
それを聞いて、ユーフラテスは心から安堵した。
ユーフラテスの目の前で崩れ落ちたネモフィラの姿は、今でも鮮明に焼き付いている。
――早く顔が見たい。
馬車の窓の外、流れ行く景色を横目に、気が逸るのを拳を作ることで治めた。
王都にあるキャンベル辺境伯のタウンハウスへと、花を手にユーフラテスが見舞いに足を運んだ、あの日。
ネモフィラの顔を見ることは叶わなかった。
邸宅に仕える者に花を渡すと、ユーフラテスは応接間に通された。
そこに現れたのは、すっかり憔悴しきったキャンベル辺境伯。
何しろ娘のネモフィラが突如、人目のある婚約者との茶会において、最重要国家機密を暴露したのだ。
キャンベル辺境伯は、ほうぼうから批難と疑惑の目を向けられていた。肝心の娘は未だベッドの上で目を覚まさない。
「辺境伯。だいぶお疲れのようだ」
大人のように眉を寄せる少年ユーフラテス王子に、キャンベル辺境伯は苦笑した。
「全く情けないことです。殿下にはこうしてお御足を運んでいただきながら、父娘ともに誠不甲斐ない」
ネモフィラと同じブルネットの髪をきっちり後ろに撫でつけたキャンベル辺境伯。その頭をゆるゆると力なく左右に振る。
「全くわからんのです。なぜ娘があのような話を知っていたのか……」
ネモフィラが倒れた直後、ユーフラテスは父である王からすぐさま、国王執務室へ来るようにと呼び出された。
そして向かった先、ネモフィラの語ったことが真実であると告げられたのである。
そのときのユーフラテスの驚きは、とても言葉に表せない。
何しろあのネモフィラの言うことである!
おっとりノンビリ。まるで貴族令嬢らしくない、頭足らずのネモフィラ。
それがこれまでのネモフィラへの総意であった。
王はユーフラテスは勿論、この話を耳にした全ての者達に緘口令を敷いた。
第十一代国王レオンハルトとキャンベル辺境伯令嬢ナタリー・キャンベルとの間に婚約関係の結ばれていた事実すら、歴史書からは抹殺されていたことだ。
王家の威信に関わる。
特に大貴族と密かな対立関係にある中で、青い血に纏わる問題は、慎重を期すべき話題であった。
本来、キャンベル辺境伯家にも厳しく口止めされていたはずであり、当主から次期当主へと秘密裏に口承してきた。紙面に残したこともない。
それについて、疑いはないのだと、ユーフラテスは自身の立場を辺境伯に示そうとした。
「キャンベル辺境伯。私はあなたを疑っていない」
ユーフラテスが断言すると、キャンベル辺境伯は顔を上げた。
その口元には諦めと、微かな嘲笑が浮かんでいた。
ユーフラテスはテーブルの下で、拳を握りしめた。
――子供の俺が何を言おうと、信用に値しないというわけだな。
ユーフラテスは第二王子だ。
正妃の子ではあるが、王太子には兄の第一王子が既に立太子しているし、何よりまだ十歳。幼すぎる。
王子としての執務もまだほとんどなく、有する力はたかが知れている。
王がキャンベル辺境伯に反逆の意志ありと見なせば、ユーフラテスの執り成しなど、何の役にも立たない。
それをキャンベル辺境伯はユーフラテスに隠すことなく表情に出した。
不敬であるし、貴族として迂闊である。
だがそれが、今のユーフラテスに対する、キャンベル辺境伯からの評価なのだ。
ユーフラテスは甘んじて現状を受け入れることにした。
――これからだ。
今に見ておけ、辺境伯よ。
俺は必ず力をつける。お前が守れなかった娘を、俺が必ず守ってやる!
重大な国家秘密を有してしまったネモフィラを、王家が逃すことはない。
ネモフィラのこれまでの令嬢として不足する素行、迂闊さが危ぶまれ、領地に療養させることも提案された。
しかし、これにはユーフラテスが断固反対した。
隣国への牽制、防壁としての役割を担うキャンベル辺境伯の心象を損ねるより、失態を犯したネモフィラを王家が保護することにより、キャンベル辺境伯の王家への忠誠心を高めるべきだと熱弁を奮ったのである。
またキャンベル辺境伯の有する武力は国内最大である。
万が一、これを機に反旗を翻され、辺境伯騎士団の全力でもって王都に向かってきた場合、どれほどの被害・損失となるか。
国として許容を越えるだろうと訴えた。
ユーフラテスの指摘について、宰相を始めとした高級官僚達は検討した。
キャンベル辺境伯は穏やかな人柄で知られているが、貴族らしからぬ子煩悩としても有名だ。
かつ武官であることから、緻密な政治的戦略を練るよりも、親子の情に流され武力に訴え出る可能性は低くない、と判断される。
最終的に、王がユーフラテスとネモフィラの婚約続行を認めた。
ついては、キャンベル辺境伯に対し、辺境伯領地の上納金を一部王家に貢納させることで手打ちとした。
◇
これが、事のあらましだった。
今ユーフラテスの向かいの席には、ネモフィラへの手土産が積まれ、またその隣に侍従が生菓子の詰められた箱を膝の上に載せた状態で腰掛けている。
さほど繊細というわけでもない菓子だが、転倒すれば確実に崩れてしまう。
馬車の揺れから守るよう、侍従に厳命し、自らは花束を横に置いていた。
咲き乱れるネモフィラの花をイメージした、ブルースターと白薔薇とかすみ草の花束。
花束に込めた花言葉の意味もそれなりにあるが、それよりユーフラテスにとっての花とはネモフィラの花で、それ以外の花はさほど重要ではない。
ネモフィラは花に興味はないし、花言葉など知らない。
知らない者へ、隠れた意味を含めて渡したところで何になろう。
家人は読み取るだろうが、そんなものは今更だ。
ネモフィラに向けてというより、キャンベル辺境伯家へ体裁を取り繕うための、お決まりの花束。
ネモフィラの好物を詰め込んだ焼き菓子の詰め合わせ。
病後食として、フルーツたっぷりのジェリー。
近頃ネモフィラが贔屓にしている王都のブティックのお抱えデザイナーによる、最新少年用デザインが描かれたスケッチブック。
澄んた水色と琥珀色の宝石が小さな花を型取り、それらがブーケのように丸く寄せられ、繊細な金細工が垂れて揺れる、髪飾り。
ユーフラテスがこの日のために揃えた、ネモフィラへの贈り物。
形を取り繕った花束以外は、全てネモフィラが喜ぶだろうとユーフラテスは確信している。
――まあ殿下。ありがとうございます。
いつもボンヤリと反応の薄いネモフィラが、ユーフラテスからのプレゼントを手にしたら、どんな顔をするだろう。
淡い水色の瞳がきらめき、口元はゆっくりと綻ぶ。大仰ではなく、野に咲く花のように愛らしく微笑むネモフィラ。
なぜユーフラテスがここまでネモフィラにこだわるのか。
王子妃教育や茶会に携わる者達は、ユーフラテスの様子を微笑ましく見ているものの、首を傾げてもいる。
容姿も劣り、教養や礼儀作法も身につかず、身につける意欲も薄く、貴族としての矜持もなく、心根が特別美しいわけでもなく、怠惰で視野も狭い。
美点の乏しいネモフィラが、それを補う愛情でもって、ユーフラテスへの献身を捧げているのかといえば、おそらく苦手意識を持って、出来ることなら忌避したいと思っている。
無い無い尽くしのネモフィラ。
定められた婚約者を好きになるための理由はない。
呆れて恋心を失っていくための理由は山程ある。
知ったことか、とユーフラテスは思う。
他人の納得する理由など、必要ない。
ただ心に決めているだけだ。