7 ヒューバート・キャンベルという少年
先触れ通り、辺境伯家のタウンハウスにやって来たユーフラテスを、当主であるキャンベル辺境伯、辺境伯夫人、長男ヒューバート、次男ハロルド、そして使用人一同と総出で迎え入れた。
皆、最敬礼である。
幼いハロルドも必死の形相でボウアンドスクレープをしている。
今日この日のために、普段表に出ることのない洗濯女等、最も位の低い使用人にまで、徹底して礼の仕方を叩き込んだ。必死である。
既に洗濯女の子の礼の方が、未だ片足がぷるぷる震えてしまうネモフィラより美しいはずだ。ネモフィラがするのは淑女の礼で、使用人の女達がするのとはまた異なるが。
ネモフィラのカーテシーのマズさはこの際脇に置いておくとして、キャンベル辺境伯家、渾身の礼に、ユーフラテスは表情を変えなかった。が、少し後ずさったのをヒューバートは見逃さなかった。
――よし。この勢いのまま、こちらのペースに持ち込もう。
父辺境伯が当主としてまずユーフラテスに挨拶を述べたあと、ヒューバートは穏やかに微笑み、ネモフィラの体調が未だ優れぬことを侘びた。
応接室へと案内されたユーフラテスは、深紅の天鵞絨の張られたソファに腰掛けた。
ユーフラテスの重みで、軽く沈む天鵞絨が、天井から注がれるシャンデリアの、温かみのある橙色の光で艶めく。
杢目の美しい重厚なウォルナットのテーブルは一点の曇りなく磨かれ、ユーフラテスの前に音もなく置かれた繊細なカップソーサーの縁取りを、鏡のように写し出していた。
「辺境伯。だいぶお疲れのようだ」
ユーフラテスが切り出すと、父辺境伯は苦笑した。
ヒューバートは父辺境伯に請われ、ユーフラテスと父辺境伯が向かい合う間、一人掛け椅子に腰掛け同席している。
ヒューバートは父辺境伯の様子を一瞥した。
ユーフラテスから開口早々問い詰められるかと警戒していただろう父辺境伯。
幼い少年から気遣わしげに労りの声をかけられて、安堵したようだ。単純な父辺境伯は、既にユーフラテスに絆されている。
険しく寄せられていた眉根は解かれ、無言の威圧感は抜け、ヒューバートの連日の小言でどうにも窶れているが、それが却って、今回の件で心労が募っていった風情を醸し出す。
おかげでユーフラテスが父辺境伯を眉を顰めて労しげに気遣ってくれている。
「全く情けないことです。殿下にはこうしてお御足を運んでいただきながら、父娘ともに誠不甲斐ない」
それは父辺境伯の本心だろう。
情に弱い父辺境伯のこと。忙しい第二王子が時間を作り、ネモフィラを婚約者として尊重し、わざわざ出向いてくれる。情勢の危うくなった辺境伯家にも関わらず。そういった類の感謝と、またネモフィラを隠す罪悪感があるのだろう。
しかしまだユーフラテスの狙いは不明のままだ。
父辺境伯が疲れたように額に手を当てると――実際は次に何を口にすべきか逡巡したがわからなかったので、ヒューバートにこっそり視線を向け助けを求めていたのだが――、ユーフラテスは決意に満ちた強い目で父辺境伯を見た。
「キャンベル辺境伯。私はあなたを疑っていない」
思わず、といった具合に父辺境伯が顔を上げる。そして心から安堵し、その口元が綻び笑みが漏れ出た。
あまりに単純な父辺境伯が、十歳の少年にやり込められているのを目の当たりにし、ヒューバートは内心ため息をついた。
――疑っていないなど、王家が我が家を疑っているからこそ出る言葉でしょうに。
容易に父辺境伯を手の内にへ転がりこませることに成功したユーフラテスが、どのような反応をするのか、とヒューバートは視線を向けた。
すると驚くことに、ユーフラテスは当邸宅に足を踏み入れたときより、更に眉間を寄せている。よく見るとテーブルの下、隠すように拳まで握りしめている。
どういうことだろう、とヒューバートは内心首をかしげる。
キャンベル辺境伯家当主を懐柔したと喜色満面になるのならばともかく、ユーフラテスが屈辱を滲ませ憤怒に耐えることなどあっただろうか。
「そろそろ失礼する」
眉根は深く寄せられ、固く引き結ばれた口。
ヒューバートはユーフラテスの様子に不可解なものを抱きながら、ユーフラテスの来訪に改めて礼をし見送った。
◇
ネモフィラの意識が戻り、床上げしてすぐ、王家から通達があった。
第二王子ユーフラテス・フランクベルトとキャンベル辺境伯長女ネモフィラ・キャンベルの婚約関係を継続すること。
辺境伯領地の上納金を一部王家に貢納すること。
これに加えて、例の秘事は依然として口外を許さず、当主から次期当主への口承でもって秘密を守ることや、緘口令が敷かれているものの、王家の弱みを握りたい大貴族や、興味本位の者達による接触があるだろうが干渉を受けぬこと、変わらず王家へ忠誠を誓うことなどが読み取れた。
ヒューバートが予測していたより、ずっと軽微な沙汰であった。
秘事を漏らすという、王家の威厳に関わる失態を犯したキャンベル辺境伯家に、これほどまでの温情を与えたのは何故か。
ヒューバートは考えを巡らすも、少なくとも国王陛下ご自身がお考えになられたことではないな、ということだけだ。
その後王太子からヒューバートの元に手紙が届き、ヒューバートもまた登城が許された。
そして登城し王太子との謁見が叶い、ヒューバートが膝を折ると、王太子からヒューバートへ一つ、託されたことがあった。
ヒューバートは微笑み、王太子に了承を伝えた。
王太子と立ち上がったヒューバートが肩を並べるマホガニーの繊細なテーブルから少し離れ、未処理書類が山程積まれた執務デスクの近くでは、モールパ公爵令息が生気のない顔を力なく項垂れている。
「バートが戻ってきたのだ。お前の失態はこれで許そう」
王太子は快活に笑い、モールパ公爵令息に温情を与えた。
「…寛大なご厚情に感謝いたします」
モールパ公爵令息が震える声を振り絞ると、ヒューバートがモールパ公爵令息の肩を叩いた。
「貴卿は嫡男ではありませんでした。王太子殿下への失態ではありますが、不忠ではない。またお父上の公爵閣下は国王陛下に忠誠を誓っているのだから、また仕方のないことでしょう」
ヒューバートはモールパ公爵令息を慰めるように眉を下げ、微笑みかける。
公爵令息は頷きながらも、その顔は一層青褪めた。
公爵令息にとって、王太子以上にヒューバートが恐ろしかった。
ヒューバートは城から戻るなり、父キャンベル辺境伯の弟である叔父ジョンソン卿への取り次ぎを父辺境伯に求めた。
父辺境伯はすぐさま己の弟へと使者を使わせ、その翌日、ジョンソン卿は夫人と共に、真っ青に血の気の引いた顔でキャンベル辺境伯の門を叩いた。
何かを覚悟したかのような、沈痛な面持ちのジョンソン夫妻をヒューバートは笑顔で出迎えた。