6 キャンベル辺境伯家の混乱
それからネモフィラは一週間ほど寝込んだ。
ベッドに横になり、時折浮上する意識の中で、「ああこれって本当に、転生悪役令嬢あるあるですわ」と呟き、「乙女ゲーム」「攻略対象」「ヒロイン」「ルート」「断罪」といった、謎の言葉と同様、側に仕える侍女やメイド、見舞いに訪れる親兄弟達を困惑させた。
時折魘されたネモフィラが、「やっぱり溺愛キャラのハロルドが一番萌えますわ!」だの「ハロルド×ヒロインスチルで白米5杯はイケますわ!」だとか叫び出すので、そこに遭遇したハロルドはネモフィラに縋り付き、「お姉さま!しっかりしてください!」と泣き叫んだ。
その間、婚約者であるユーフラテスがネモフィラに見舞いに訪ねてきたのだが、ネモフィラの口から飛び出す奇天烈な言葉を第二王子に聞かせるわけにはいかない――これ以上、ネモフィラの失態を重ね、王家からの断罪理由を増やすわけにはいかない、と、辺境伯はユーフラテスがネモフィラの部屋へ見舞に入らないよう遠慮願った。
王子教育で忙しいユーフラテスがなんとか時間を作り出して、わざわざ足を運んでくれていることは、辺境伯も十分承知していたのだが、ユーフラテスとネモフィラとの婚約が解消されるだけでなく、ネモフィラの貴族令嬢としての今後の将来までかかっていた上、キャンベル辺境伯家に対する王家の断罪の可能性もあり、辺境伯としては、どうしても慎重にならざるをえなかった。
これは長男ヒューバートの助言であり、辺境伯は、ユーフラテスから見舞いの先触れを受けた当初、「お忙しいユーフラテス殿下がわざわざ娘のためにお越しくださるなんて!」と単純に感動していた。
それを見たヒューバートが、父辺境伯に懸念を進言したのである。
◇
「父上。ネモフィラは王宮で、ネモフィラの知るはずのない秘匿すべき王家と辺境伯家の歴史を口にしたのでしょう」
常に穏やかに微笑むヒューバートが、珍しく眉間を寄せ、深刻な表情で問いかけてくるので、辺境伯は浮かれていた気持ちを引き締め、ヒューバートに向き合った。
「うむ。とはいえネモフィラも我が辺境伯家の娘。また第二王子殿下の婚約者でもある。我が家で教え伝えてはおらんが、王宮の教育係からでも伝え聞いたのであろう」
能天気な父辺境伯に、ヒューバートは頭を抱えたくなった。
剣ダコで固くなった手を額に置き、眉間を揉む。
「…お言葉を返すようですが、父上。秘匿すべき王家と辺境伯家の歴史なのですよ」
ヒューバートがチラリと父辺境伯の表情を覗くも、そこにはキョトン、とした純粋無垢な中年男の顔しかなかった。
「うむ。して?」
ヒューバートは小さく唸った。
「キャンベル辺境伯家でも、当主とまたそれを継ぐ者にしか知らされぬことです」
「うむ。そうだな」
――そうだな、ではないですよ!父上!
どうしてこうまで察しが悪いのか。
確かにキャンベル辺境伯家は武勇に優れることに重きを置き、隣国への防衛や有事における戦力となることを担い、王宮での政からは一線を引いている。とはいえ、旧くより王家に信を任されている名家であり、歴史的事情を把握している数少ない旧家なのである。
そして今回の事情に関しては、おそらく王家と我が辺境伯家以外に事情に通じている者はいなかった筈だ。とある公爵家も噛んではいるが。
ネモフィラが王宮での茶会でぶちまけたせいで、王宮に仕える者達によって噂話が駆け巡っているだろうし、また詳細については高級官僚達に伝わり、連日対策会議を開かれているのだろうが…。
「王家でも同様のことだったでしょう。おそらくユーフラテス殿下にも知らされていなかったはずです」
「…なんだと」
辺境伯がようやく異常を察したらしく、表情を険しくさせた。
「私は王太子殿下より、謹慎を仰せつかりました」
「なんと!」
ネモフィラが王宮で倒れたその日のうちに、王太子の使者が、しばらく登城を控えるようヒューバートに急ぎ伝えに来た。
そのことは辺境伯家の危機として、すぐさま父辺境伯に報告したし、父辺境伯も了承していたはずだ。
しかし父辺境伯はヒューバートの優秀さに過度の信頼を置いてるため、次期辺境伯たらんとするヒューバートの自主性に任せるという姿勢をとるその実、面倒なアレコレ――主に国の政に対する関心、対策、また領地経営、財務管理、辺境伯夫人が統括する屋敷管理に関与すること以外での、使用人の統率など――を長男に全力で放り投げていた。
慌てて焦り出す父辺境伯の姿を、ヒューバートは諦念の体で眺めた。
仕方がない。
もともと父辺境伯はこういう人なのである。
義理人情に厚く、理屈より感情を頼り、その人柄でもって信を集め、またその信頼に応えることで、さらなる忠義が集い、熱狂的で盲目的な忠臣を従え、その先頭で快活に笑う。頭脳戦における政治的戦略は、忠義に厚い腹心の部下が補う。
そういう人なのだ。
「父上。殿下の目的が、我が辺境伯家やネモフィラを探ることにあるのかは、わかりません。しかし殿下に今のネモフィラを会わせてはなりません。殿下のご厚情にまず感謝の意を述べ、また非礼の謝罪をした上で、ネモフィラの体調が未だ優れぬこと、医師から面会謝絶を申し渡されていると、お越しいただいても面会の叶わないだろうことを手紙にしたためましょう」
「うむ。そのように書いてくれ」
「…かしこまりました」
ヒューバートは父辺境伯の命の元、ユーフラテスへ辺境伯当主代筆であることをまず最初に侘び、それから父辺境伯に進言した通りの内容を綴った。
急いで王宮へと使いを出し、ユーフラテスの元へと届けさせる。
これで多少の時間稼ぎは出来るだろうと、ヒューバートはホッと一息ついた。
しかし翌日、ユーフラテスからすぐにまた手紙が届いた。
美しい文字で綴られたことには、ヒューバートへの手紙の礼、それからネモフィラの体調を案じていること、そちらの家には迷惑をかけるかもしれないが、もし今は会えないのだとしても、当日、もしかしたら体調が改善しているかもしれないこと、一目でもネモフィラの顔が見らるかもしれない可能性に賭けたい、といったことであった。
ヒューバートは頭を抱えた。
――これはご無理を通されたい、ということだろうか。
王子の意思とあらば、例えこちらが面会の拒否を申し出ようと、医師から面会謝絶の診断があると言おうと、防ぎようがない。
ユーフラテスは婚約者であることを名目に、こちらを探るよう国王から命を受けているのだろうか。そうなると、キャンベル辺境伯家としてどう対応すべきか。
しかし…。
「殿下はネモフィラを大事にしてくださっていますし、やはりどうにも体調が優れず、医師からも面会謝絶を伝えられているままであるとお伝えすれば、了承してくださるはずです」
眉間を寄せ、目に力を込め、一言一言ゆっくりと噛み締めるように、ヒューバートは父辺境伯に訴えた。
父辺境伯は、そんなヒューバートの様子に釣られるように、深刻そうな表情を作って同意した。
「ですから殿下がお越しになられた際は、父上が殿下のお相手をなさってください」
「なんと!」
ヒューバートが父辺境伯に申し渡すと、父辺境伯はまるで予想もしていなかった、というように目を丸くし、大きな体を仰け反った。
――当主に代わって私が出しゃばったらおかしいでしょう…。
驚き、慌てふためく父辺境伯に、ヒューバートは落ち着くようにと、ひとまず茶を飲むよう勧めた。
それから、父辺境伯に王子と相対するときの注意事項をクドクドと言い含める。
キャンベル辺境伯家は王家に逆らう意思がないこと。
ネモフィラに例の話を教えたことはないこと。
ネモフィラがどこからその話を耳にしたのか、検討もつかないこと。
とはいえ、王宮における王子妃教育で聞き齧っただろうなどと匂わせてはならない――そんなことをすれば、ますます反逆の意ありと思われる――こと。
キャンベル辺境伯家としても大変困惑していること。
ネモフィラ、また辺境伯家も、王家から下される沙汰に異を唱えず従うつもりであること。
今後も王家に変わらぬ忠誠を誓うこと。
これらを漏らすことなく伝えよ、とヒューバートは父辺境伯に連日説いた。
父辺境伯はヒューバートの連日の説教に日に日に窶れていく。
事実、キャンベル辺境伯家としては、ネモフィラにそのような話を伝えたことはなく、反逆の意もなく、王家に忠誠を誓っており、王家がどれほど探ろうとも、後ろ暗いことは何一つない。ネモフィラの奇行以外は、ということにはなるが。
しかしこれにしたって、辺境伯家としては真実、全く身に覚えがない。
だから自信を持って臨んでほしい、とヒューバートは最後に父辺境伯に伝えたのだが、父辺境伯はすっかり参ってしまったようだった。
そしてユーフラテスの来訪当日、父辺境伯は王家への不信感を顔一面に表した様子でユーフラテスを待ち構えていた。
ヒューバートは胃がキリキリと傷んだ。
元来無骨で恐ろしげな顔をしている父辺境伯の、険しく顰めた表情、気負い過ぎて上がった肩、警戒心丸出しの威圧感。
――これで王家に反逆の意がないと言ったところで、信じてもらえるのだろうか…。
歴史ある由緒正しいキャンベル辺境伯家の没落が見えるようだ、とヒューバートは項垂れた。
あとはユーフラテスがキャンベル辺境伯家へ温情を施されることを祈ろう、とヒューバートは目を瞑った。