5 学んだ覚えのない歴史裏話
ネモフィラがタルトを食べ終えるのを待って、ユーフラテスが口を開く。
ネモフィラの口の端にはビスケットのカスがついていた。いつものことである。
「……これで口元を拭け」
ユーフラテスがネモフィラに白いナプキンを差し出し、目をそらした。今日は珍しく、はしたないと言われない。
フォークを銜えたことについて、既に注意したので、今日はもう小言を控えるということだろうか。それだと有難い、とネモフィラは大人しく口元をナプキンで拭い、使用したナプキンはグシャリとテーブルに置いた。
ユーフラテスは丸められたナプキンに眉を顰めたが、何も言わなかった。
――まあ。殿下が何もおっしゃらないわ。
ユーフラテスを怒らせたいわけではなく、ネモフィラはいつもついうっかり、貴族令嬢らしからぬ雑な振る舞いをしてしまうのだが、家庭教師や王宮の指導係、ユーフラテスに指摘され続けているので、「やらかした」あとに気が付く程度には成長している。
そのため、今ナプキンを汚く丸めてテーブルに置いたことは、注意されてしかるべきだったこと気が付いていた。
使用したナプキンをせっせと畳むのは、まるで使用人のようでそれもまた貴族令嬢として相応しくないが、ぐしゃっと丸め、どん、とテーブルに置く仕草が正しいわけがない。スマートにそっと美しくテーブルに置くか、後ろに控える侍女に渡すべきだ。
ネモフィラがが首をかしげていると、ユーフラテスはカップを手に取り、紅茶を一口飲んだ。
ユーフラテスが何か話題を変えるときの、いつもの合図だ。
ネモフィラはユーフラテスの言葉を待った。
「ネモフィラ。お前の家は純血主義ではないな」
「ええ。そのように聞いておりますわ」
また何を言い出すのか、と怪訝に思いながらも、特に反論するでもなく、うすぼんやり、いつものように何の考えもなく同意した。
ユーフラテスはなぜか一拍置いてから、わざとらしくゴホン、と空咳をした。
なぜかまた、ユーフラテスの耳が赤いような気がする。
今の話のどこに赤くなる要素があるのか。ネモフィラは今日のユーフラテスは挙動不審だと思った。
――やはりお風邪なのかしら。
体調を崩しているときまで、お茶会をしなくてもいいのに。
ネモフィラがユーフラテスの立場だったら、これ幸いと喜んで茶会を欠席する。地味で頭も悪く、マナーもなっていない、不快な婚約者と会わなくてよいのだ。
厳しい王子教育に、最近課せられ始めた執務とで忙しいユーフラテス。そこに加えて意に沿わない婚約者(しかも規格外の落ちこぼれ)との茶会まで義務づけられて、休む暇もない。
風邪を引いた時くらい、意地を張らずに休めばいいのに。
ネモフィラはユーフラテスの意固地さに呆れた。
「キャンベル辺境伯は王家に忠誠を誓っているな?」
「勿論ですわ」
ネモフィラが応えると、ユーフラテスは満足そうに口角をあげ、鷹揚に頷いた。偉そうだ。
「だが他貴族のように、青い血でもって忠を為すわけではない」
青い血。
それは建国の暁に、王家へ忠誠の誓いをたてた貴族達が脈々と受け継いできた、古の契約と、その証である。
同時にこの国の王侯貴族の体を脈々と流れる、魔力の元となるものであった。
保守的な大貴族は純血主義を掲げ、今世でも青い血をその身に宿すが、しかしながら元を辿れば王家への忠誠を誓うためのもの。
そのためか青い血は未だ色濃く大貴族達の身に流れているものの、魔法に魔術を操ることのできる者は最早いない。
王侯貴族に属さず命を受けない魔術師や魔導師が、いくらかいるのみである。
――また殿下お得意の小難しいお話が始まりましたわ。
ネモフィラは微かに眉を寄せた。おそらくユーフラテスには、ただぼんやりしているだけのように見えていることだろう。
屋敷での家庭教師による歴史のお勉強。
王子妃教育での歴史のお勉強。
そこにまた現在の内政問題が加わってスクランブルなんでしようものなら、ネモフィラの頭の中もスクランブルされる。
どうして婚約者同士のお茶会でまでお勉強をしなくてはならないのか。
ネモフィラは、王子として意欲溢れるユーフラテスに、王族たらんとする姿勢を尊敬するとか、そういった高尚な気持ちは持ち合わせていない。
ただただ面倒くさかった。
それなのに。
「あら。だって当然ですわ。第十一代国王陛下であられたレオンハルト元国王陛下と我が祖先、当時のキャンベル辺境伯家長女で唯一の嫡子ナタリー・キャンベルは百五十年前の当時、婚約関係にあったのですわ」
――あら……。どうしてわたくし、百五十年前の歴史を知っているのかしら……。
目の前ではユーフラテスが目を大きく見開き、口をあんぐりと開けている。
――殿下のこんなお顔、初めて見ましたわ。
しかしネモフィラに驚くユーフラテス同様に、ネモフィラも自分自身に驚いている。
タウンハウスで辺境伯の雇った家庭教師から学ぶにしろ、王城で城付きの高名な学者から学ぶにしろ、その有難い高説を脳みそに詰め込んでいたことなど、一度たりとしてない。
ただ無為に時間が流れ、苦行が終わるのをひたすら待っていただけだ。
それなのに今、ネモフィラの頭の中では、色彩豊かに約百五十年前の歴史が紐解かれ、展開していく。
「ナタリー・キャンベルはレオンハルト元国王陛下から寵を得ていたのですが、キャンベル辺境伯家は当時より純血主義ではなく、他国……主に隣国ですわね。血が混じっており、王妃に相応しくなかったのです。そこでレオンハルト国王陛下とナタリー・キャンベルの婚約関係は解消に至りましたの」
「いや、ネモフィラ。お前何を言っているんだ?」
確かに。
ネモフィラ自身も何を自分が口走っているのか、よくわかっていない。
一方で約百五十年前、この国の国王になった男とネモフィラの先祖の女の恋物語が絵物語のように浮かび上がってきた。
そしてそれは、絵物語の導入部分であり、その後孤児院で育つある少女の恋物語が展開する……。
――これは確か、メディアミックス作品の、小説版の方でしたわね……。乙女ゲームのヒロインの両親に視点を置いたスピンオフ作品……。
メディアミックス。乙女ゲーム。ヒロイン。スピンオフ。
ネモフィラの脳裏に、自分でもよくわからない言葉が次々に浮かび上がる。
もう一人の自分が自分の口を使って次々と言葉を紡いでいくのを、頭上からボンヤリと眺めている気分だ。
何かどうなっているのか。ネモフィラにもわからない。
ただ流れに身を委ねる。
「けれどレオンハルト元国王陛下はナタリー・キャンベル以外の妃をとることをよしとしなかった」
「いやっ! 彼は隣国の第一王女を娶ったはずだ!」
ユーフラテスが反論する。
なぜなら、第十一代国王が他国の姫を我が国の王家に連ねたことによって、王族の青い血は失われたからである。
「ええ。それは今はなきヴリリエール公爵家の奸計により、レオンハルト元国王陛下の元からナタリー・キャンベルが失われた後のことですわ」
ヴリリエール公爵家。
確かに歴史書にその名は存在する。だが、あるところでその家系図は途絶えている。
また当時ヴリリエール公爵領とされていた領地は三分化され、現在はメロヴィング公爵領とモールパ公爵領、キャンベル辺境伯領となっている。
つまりは取潰されたということ。
ユーフラテスの後ろに控えていた護衛騎士の一人が減る。
顔色を紙のように白くさせたユーフラテス。唇の色もまた青ざめている。
「……今はメロヴィング公爵領、モールパ公爵領、それからお前のキャンベル辺境伯領となっているな」
約百五十年前の公爵領の在処と、また現在の領主。
歴史書も手元にないのに、ユーフラテスは苦もなく、それらを口にする。
ネモフィラは尊敬するというより、同情した。そんな些事まで覚えなくてはいけないなんて、王子という地位は、なんてめんどくさいことだろう。
「メロヴィング公爵家は、レオンハルト元国王陛下の同腹のお兄様で、レオンハルト元国王が即位するまで王太子であられた第一王子ジークフリート様の娶った正妻の実家であり、モールパ公爵家は第一王子ジークフリート様が臣籍降下した際にレオンハルト元国王が与えた爵位ですわ。キャンベル辺境伯家は言わずもがな、ナタリーの生家ですわね」
ネモフィラの繰り出す話に食いつきながらも、ユーフラテスの手は震えていた。カップを取り、冷えているだろう紅茶を一気に煽る。
いつも自信に溢れるユーフラテスらしくない仕草だ。
「つまり、お前が言いたいのは……」
ユーフラテスは乱暴に前髪をかきあげると、その白い額にパラパラとくすんだ金の髪が落ちた。
「第十一代国王の政策変更は、諸外国との問題に外交的解決を講じたわけではなく、単に惚れた女を害された逆恨みだってことか?」
――どうだったかしら。
それだけではなかった気もするが、何しろ小説版は王宮の陰謀渦巻く権力争いが、生臭くて長ったらしくて、途中流し読みしていたのだ。
わくわくする恋物語を読みたかったのに、その舞台となる国の内政なんて、どうでよかった。そんなものは恋愛を彩るお飾りで、それっぽくあればよかったのだ。
「さあ。それはわたくしにはわかりかねますが……」
ネモフィラは首を傾げてユーフラテスを見る。
くすんだ金髪。切れ長のアンバーの瞳。上品な鼻梁。酷薄そうな薄い唇。
攻略対象で年上枠の、第二王子ユーフラテス……。
すると途端に、ネモフィラの頭の中に洪水のように大量の情報が流れ込んでくる。
「わたくし、何を言っているの……!」
ネモフィラは絹を切り裂くような、甲高く細い悲鳴を上げると、ぐるりと目を回した。
頭が割れるように痛い。とても耐えきれない、未知の痛み。
椅子から崩れ落ちるネモフィラにユーフラテスが慌てて駆け寄るのを、薄れゆく意識の中、ネモフィラは横目で捉えていた。
今にも泣き出しそうにグシャリと歪んだその顔は、これまでのお茶会でも、乙女ゲームのスチルでも、見たことがなかった。