4 王子の仮面が外れるとき
「いつまでフォークをくわえている!あまりに…あまりに、品がないっ!」
とうとう両手で顔を覆ってしまったユーフラテスは、少年らしく高い声で叫んだ。
――貴族令嬢らしからぬ、欠陥令嬢だと、またおっしゃりたいのね。
ユーフラテスに指摘され、ネモフィラは素直にフォークを口から落とした。
フォークを手にして口元から外したわけではなく、唇を微かに開けて、カラン、とフォークを落とした。
フォークと微かに開けられたネモフィラの唇とが銀糸を結び、ゆっくり弧を描いて皿の上に落ちるのを、ユーフラテスは覆っているはずの両の手の隙間からしっかり、目を見開いて見ていた。
「お前…!お前というやつは…っ!」
ユーフラテスがテーブルを勢いよく両拳で叩いたせいで、テーブルに載ったケーキスタンドや、ティーカップにソーサー、ミラートレーの上のティーポットにミルクポット、シュガーポットなどがガタガタと揺れる。
よくわからないが、ユーフラテスは相当にネモフィラに憤りを感じたらしい。
普段より、馬鹿だ間抜けだ欠陥令嬢だ俺に相応しくないと言って憚らないユーフラテスなので、おそらく今回もそういった類のことなのだろうとネモフィラは思った。
しかしテーブルをガタガタさせてご尊顔を真っ赤に染め上げ、感情が思い切り表情に露わになってしまっているユーフラテスもまた、王子らしくないのではないのだろうか。
…といったことにまでは、ネモフィラは思い当たらず、とりあえず珍しい事態だとボンヤリ眺めていた。
フォークをくわえるなと言われた手前、落としたフォークを再び手にしてよいものかわからず、ネモフィラは食べかけの桜桃のタルトを見た。
まだコンポートと、そこに添えられていたカスタードクリームをほんの少し口にしただけ。シットリとしたビスケット生地は手付かずのまま。
――もったいないですわ。こんなに美味しいのに。
舌の上に広がる、ジューシーな桃の甘味が思い出され、ネモフィラの口の中に唾液が溢れてくる。
やはり残すなんてもったいない。この茶会のために丹精込めて作ってくれた料理人にも申し訳ない。ケーキスタンドに並んだケーキはまだ沢山残されていて、おそらくユーフラテスは少しも口にしないのだ。
茶会が始まって始めの頃は、テーブルに並ぶ菓子から一つ選び、ネモフィラに付き合うように口にしていたが、今ではどれか一つ、ケーキを選ぶことすらしなくなってしまった。それだから甘いものが苦手なのだということは、早々に気が付いた。
しっかり王子教育が施されているためか、顔をしかめたりすることもなく、無表情で菓子を口にするが、甘いものを口にしたあとすぐに、口直しとして茶を含む。王子らしく優雅な仕草なので一見わかりにくいが、ユーフラテスにしてはせっかちな様子で茶を飲むのだ。
王子が甘いものを苦手としているのなら、甘さ控えめの茶請けを用意すればよいのに、なぜか王宮の料理人は凝りもせず、毎回ネモフィラ好みの甘い、クリームやバター、そしてフルーツたっぷりの菓子を用意する。
王子として弱みを見せたくないユーフラテスが、甘いものが苦手だということを隠しているのかもしれない、とネモフィラは考えていた。それならばユーフラテスの分までネモフィラが食べるべきである。
つまり茶会で提供される甘い菓子は全て、ネモフィラのためにあるということだ。
もう一度フォークを手にするネモフィラ。サクリ、とビスケット生地にフォークを入れた。
ぼんやりとユーフラテスを眺めていたその視線が外され、タルトに興味が戻ったネモフィラを見て、ユーフラテスは胸を撫でおろした。
ネモフィラのの淡い水色の瞳が、ぼんやりと浮世離れした様子でユーフラテスを見つめると、ユーフラテスは落ち着かなくなる。心にないことをつい口にして、ネモフィラを傷つけてしまう。
王子としてあるまじき姿だと、心の底では己を叱咤していた。
婚約者は丁重に扱うべきだとユーフラテスも本当はわかっている。第一王子の兄アルフレッドや、その兄の友人でネモフィラの兄であるヒューバートに苦言を呈されずとも。
本当は、大事にしたいと思っている。
ユーフラテスは、物心ついてからすぐ、王子の仮面をかぶることに慣れた。
父である国王と母である王妃は、ユーフラテスにとって肉親というよりも、この国の最高権力を持つ優れた為政者であり、国王陛下と王妃殿下だ。二人とも国政に忙しく幼いユーフラテスに構う時間をとることは難しい。
優しく世話をしてくれた母親代わりの乳母は、ユーフラテスが二歳のときに再び懐妊し、乳母の職を辞した。
第一王子の兄アルフレッドは間もなく迎える立太子に向け、そしてまたその先目指すのは国王だと忙しく、ほとんど顔を合わせることもない。
隙間なく詰め込まれた王子教育の合間を縫って、たまにユーフラテスのもとへ顔を出し、様子を見に来ることもあるが、アルフレッドとてまだ子供。稚いユーフラテス相手にどう構ってやればよいのか、何をしたら喜ぶのか、どのように遊んでやったらよいものかわからない。
じっと何かを期待するように見つめる幼いユーフラテスの視線に戸惑い、元気にやっているようでよかった、といった類の挨拶を一言二言述べては逃げるように立ち去っていく。
それだからユーフラテスは肉親や兄弟の情といったものをほとんど知らずに育った。
王子という地位により、常に大勢に囲まれていたが、ユーフラテスの心に働きかけようと踏み込んでくる者はおらず、ただユーフラテスに第二王子としての姿を望まれていることだけはわかった。
第一王子のスペアとして、あるべき姿。
兄である第一王子を害さず、脅威にならず、礼節を弁え、第一王子を立て、守り、かつ補佐をする。万が一のときには第一王子に代わって為政者となれるよう、兄アルフレッド同様、王子教育もしっかり学ぶ。
王族の一人として威厳と誇りをもち、民に寛容でありはすれども、立場は弁えさせる。
親身であった者であろうとも、必要とあらば冷酷な判断を下せるよう、深入りはせず、いかなる時も一歩引いて状況を客観視するイメージを頭に置く。
それがユーフラテスの求められる姿で、またユーフラテスを囲む臣下達もまた同様に、己の心を内にしまい込み、表情に出すことはなかった。
側近候補として集められた遊び相手の子息達はその点まだ未熟で、表情に感情が表れることもよくあったが、それでも教育の行き届いた貴族子息達だ。ユーフラテスに無礼を働くことはなく、身分を弁え、臣下としての姿を見せる。遊び相手など、心を開き立場を超えて友人たらんとする者はいない。また過度な施しを露骨にユーフラテスに強請ることもない。
そういった、王子の側近候補として相応しい振る舞いが出来、尚かつ、第二王子の後ろ盾となりうる家の子息だけが集められているのだから、当然とも言える。
ユーフラテスが言葉を交わす貴族は、大人であれ子供であれ、まさしく貴族らしい者しかいない。
下位貴族やジェントリについては、王宮勤めの文官であったり護衛騎士である場合を除いて、ユーフラテスの前に姿を見せることはまだない。
平民など式典の際に見下ろすのみである。
それがユーフラテスの世界で、王侯貴族とはそういうものだと思っていた。
六歳の時に、婚約者が決まったと告げられたときも、ユーフラテスはまた、血の通った交流など望まなかった。それ以前に、そんな関係があることを知らなかった。
ただ王子とその婚約者として相応しく、礼節にのっとり、婚約者として許される範囲で相手を尊重し、共にあってくれること、国に身を捧げてくれることに感謝し、丁重に応じていこうと考えていた。
そうして迎えた、婚約者ネモフィラとの顔合わせ。
果たしてその令嬢は。
婚約者だろう令嬢は、ユーフラテスを礼をして待っていた。それはいい。そこまでは臣下として特に変わったこともない。
しかしその令嬢は、父親である辺境伯に凭れ掛かっていた!背を完全に父辺境伯に預け、斜めに傾いでいる!そんな礼の仕方があるのか!
ユーフラテスは衝撃を受けた。婚約者とその父辺境伯の元へと進めていた足が、一瞬止まった。
しかしそこは王子の仮面を被ったユーフラテス。表情には出さず、気を取り直して歩を進めた。
そして令嬢と父辺境伯に顔を上げるよう促した。威厳を感じさせるよう、尊大な声色を意識した。
ユーフラテスの命により顔を上げたネモフィラ。
ボンヤリとして、貴族にありがちな強かさ、生命力を感じない顔。これで貴族社会を渡っていけるのかと不安になるやる気のなさ。
そしてそのボンヤリとした緩んだ顔のまま、ユーフラテスを頭のてっぺんからつま先までジロジロと眺めた。
品定めされることに慣れてはいたが、王子のユーフラテスにここまで露骨に視線を這わせる者は、これまでいなかった。視線を這わせるどころか、ネモフィラは視線の動きに伴って頭を上下させ、まるでフラフラゆらゆら揺れる、力の抜けた首振り人形のように、ユーフラテスを見ている。
そして小さく頷くネモフィラ。
なんだろう、とユーフラテスが内心首を傾げる前で、ネモフィラはぼんやりと心ここにあらずといった様子でウットリとした表情をし、視線はどこか宙を漂っていた。
――なんだ、コイツは!!
この失礼で風変わりな貴族令嬢ネモフィラから、ユーフラテスは目が離せなかった。釘付けだ。恋の始まりだった。
残念な始まりだったことに異論はない。