37 キャンベル辺境伯邸の晩餐
ユーフラテスが屋敷を去ってしばらく経ち、夕餉の時間となったが、ネモフィラは自室から出てこなかった。
食欲旺盛、食事だけが何よりの楽しみ、と公言して憚らないネモフィラ。そのネモフィラが、家族の揃う晩餐に、一番に顔を出さないなど。
これはいったい何が起こったのか、とヒューバートは眉をひそめた。
今日はユーフラテスとの逢瀬であったはず。
母辺境伯夫人とネモフィラの孤児院慰問を遮るかのように、急遽打診されたもの。
先日ユーフラテスはネモフィラに騎士の誓いを立てたばかりであるし、以前のように横柄に振る舞うなど、愚かしいことはするはずがないと考えていたのだが。しかし早計だったろうか、とヒューバートは訝しむ。
また、茶会後ろで控えていた騎士から、ネモフィラ専属侍女の様子については、すでに報告を受けている。
その際のネモフィラの過呼吸。それはユーフラテスの問いかけによって起こったのだという。
ヒューバートは考え込むように、顎を撫でさすった。
燭台の炎がヒューバートの頬に、光と影のコントラストを描き出す。思考に沈むヒューバート。
一方で母である辺境伯夫人は、娘のいつにない反応に、浮かれた様子で歓迎した。
ネモフィラが晩餐になっても姿を現さないこと。
それはきっと、幼い恋心ゆえ。
ようやくネモフィラに娘らしい感情が芽生えたのだろうと。
ヒューバートが使用人に、ネモフィラを呼んでくるよう命じかけたところで、辺境伯夫人が否やを口にした。
「そっとしておいておあげなさい。あの子は今頃、殿下を想っては、その溢れんばかりの恋慕に、食事も喉を通らないのでしょう」
ヒューバートは母親の、貴族婦人とは思えぬ夢見がちな言葉に苦笑した。
だが父辺境伯もまた夫人に同意し、ネモフィラを放っておくよう言うので、ヒューバートは家長の判断に従った。
両親二人のおめでたくも仲睦まじく、祝い合う様子に、ヒューバートは溜息をつく。
そんな兄ヒューバートを、ハロルドは不安げに見上げた。
「お兄さま、何かご不安なのですか?」
幼いハロルドの碧い瞳。燃え上がる太陽のように輝かしく、濃い黄金色の巻き毛。
面立ちはどことなく、アルフレッドに似ている。
ヒューバートの主である、王太子アルフレッド。
王族、王族の血を引くもの達に受け継がれる、外見的特徴の一つ。それが金の髪色。
王族の臣籍降下した経緯を持つ大貴族達のうち、金の髪を持つ人物は、それほど多くない。
ましてや、キャンベル辺境伯家は、これまで王族がその家系図に名を連ねたことはない。
だが。
ヒューバートは険のある形相を解いた。それから穏やかに微笑みかける。
「いや。少し寂しくなってね。ネモフィラもとうとう、恋を知るような年頃になったのか、とね」
ハロルドはヒューバートの言葉を受け、ぱちぱちと瞬きをする。その天使のような純粋無垢な様子。
ほんのりと赤く色づく、ふっくらとした頬。そこに描き出される、黄金色のまつ毛の曲線。その影絵が、せわしなく羽ばたいている。
ハロルドはあどけなく小首をかしげた。
「恋、ですか?」
「うん。ハロルドには、まだ難しいかな」
ヒューバートがほんの少し、からかうような調子を込めてやると、ハロルドは頬を膨らませる。
「わかります! お姉さまは、第二王子殿下をお慕いしているということでしょう!」
「う~ん。そうだね……どうだろうね」
煮え切らないヒューバートの返事に、ハロルドは胸を張った。
「お兄さま、ご安心ください。お姉さまが殿下をお慕いになっても、さみしく思われることはないですよ」
やけに自信ありげに断言するハロルドに、ヒューバートは「はて、これはどうしたことか」と、内心首をひねった。
ハロルドはニンマリと口角を吊り上げ、鼻高々な様子だ。
幼いハロルドの、高慢な仕草。
誰かを彷彿させるな、とヒューバートは苦笑する。
「さて、それはどういうことだろう?」
ハロルドは、ヒューバートの問いかけに待ってました、とばかりに、前めりになって勢いよく応える。
「だってお姉さまはぼくが一番お好きなのです! ですからどうぞ、お兄さま、ご安心ください。お姉さまがぼくを置いて、殿下のお嫁さんに行かれることなど、絶対にございません!」
ハロルドの無邪気な宣言に、ヒューバートはクラリとした。頭痛の種が増した気がする。
すぐにでも、ネモフィラとハロルドを引き離さなくてはならない。
さてハロルドはユーフラテスに懐くだろうか。素直に従うだろうか。
だがしかし、ハロルドにはいずれ、ユーフラテスの手足となってくれなくては困る。
そしてまた、父辺境伯と母辺境伯夫人も、ハロルドの、この王家に叛意ありとも取られかねない発言を慌てて窘めた。
しかしハロルドはむくれながら、「それでもお姉さまは、ぼくが一番お好きですよ」と最後まで言い張った。晩餐を終えてなお、納得せずに。