36 ユーフラテスルートの裏側
その日の茶会は、馬車に乗り込むまでユーフラテスは使い物にならなかった。
「ああ」とか「そうか」といった生返事の繰り返し。呆れた侍従がとまどうネモフィラに礼をし、護衛騎士がユーフラテスを引きずり――結局抱えて、馬車に押し込めた。
第二王子の醜態ともいうべきその様子を、キャンベル辺境伯王都屋敷の人間はなんともいえない、複雑な表情で見送った。次いで真っ赤な顔を両手で覆ってうつむいたままの当家ご令嬢には、なんと声をかけるべきなのか、頭を悩ませた。
王都屋敷において、令嬢ネモフィラにあからさまな無礼を働いていた使用人とは、使用人においても地位の低い者がほとんどであったが、心からの敬意もしくは好意を示していたものは、王都屋敷の家令とネモフィラ付きの侍女のみ。執事と侍女頭においてさえ、慇懃無礼というものだった。
使用人たちの戸惑いをいっさい知ることのないネモフィラは、のろのろと手を下す。そして自身の専属侍女に、私室に戻ることと、お茶の用意を命じた。
侍女は頷いて了承する。
二人のやり取りを他の使用人たちが目を細めて見ていたことなど、ネモフィラは知らなかった。そして茶会で護衛を務めた騎士がその晩ヒューバートに対し、ネモフィラの専属侍女が主ネモフィラの不穏な事態において臨機応変に対応できないばかりか、立ち尽くすのみであったことについて、諫言しにいくつもりであることも、当然知らなかった。
ネモフィラは私室へと戻る途中、婚約者のことについてあらためて振り返る。
――そういえば殿下は、わたくしの誕生日にいつも、王宮の料理人の焼いた焼き菓子をたくさんくださったわ。
豪華な花束とたくさんの甘い菓子。毎年同じ文句が一言綴られたそっけないカード。
アーモンドたっぷりのフィナンシェ、ピスタチオのクッキー、バターたっぷりのガレット、ドライフルーツみっちり詰まったパウンドケーキ、ダックワーズといった、日持ちのする焼き菓子の詰め合わせ。そして当日中に食べてくれ、と一言添えられた生クリームとカスタードクリームの上、季節のフルーツで宝石のように美しく彩られたタルト。
全てネモフィラの大好物。
ネモフィラの好みなど、ユーフラテスに告げたことなど一度もないのに、ユーフラテスはネモフィラの好みを熟知しているようだった。
一方でユーフラテスは馬車に揺られながら正気を取り戻した。
というより、いったんあの夢のようなできごとを夢として脳内のとっておきスペースにいれ、慎重に鍵をかけることにした。
なにかこう、耐え難い困難に直面したり、どうにもつらくてたまらなくなったときに取り出して、心を和ませる特別な宝物のつまったなにか。そういう区画に。
そして急ぎ考えなくてはならないことに、思考をシフトする。
ヒロインはいずれ、王太子アルフレッド陣営に囲い込まなくてはならない。第三王子エドワードの手に渡るようなことは、なんとしても避けねばならない。
かといって、そのためにユーフラテスがヒロインを娶るのは、断固拒否したい。
そのためには、何をすべきで何をすべきでないのか。
まずは情報を精査吟味し、今後の動きについて整理したい。
ヒューバートはアルフレッドに対し、不利益を生む行動をとるはずはない。だがユーフラテスにとっての不利益は、さほど考慮しないだろう。そしてアルフレッドのためならば、おそらくネモフィラの犠牲もある程度は了承してしまうに違いない。
それだから。
ネモフィラは不安そうな表情をしていたが、まだヒューバートに知られるわけにはいかない。ヒロインはまだ、ただの平民でいてくれないと困るのだ。
「ねえ、テス。きみ、僕に報告していないことがあるよね?」
「なんのことでしょうか」
はあ、とため息をついてアルフレッドはゆるゆると首を振った。ユーフラテスは真っすぐ兄を見つめている。
王太子執務室。
またもやユーフラテスはキャンベル辺境伯王都邸での茶会後、兄アルフレッドから呼び出しを受けていた。
「僕としてはぜひともテスの意思で、言葉にしてほしかったんだよね」
「ですから何を」
ユーフラテスはやましいことはなにもない、と真っすぐに兄に向かい合う。
美しく可憐な兄の頬は窓から差し込む夕日に照らされ、常はじゅわっと血色のにじむような薔薇色のそれが、温かな橙色へと色を変えている。
同時に無垢で朗らかな、太陽のように寛容なアルフレッドの微笑みはそこにはなく、眉尻を下げた憂い顔を示していた。
「確かに、屋外での茶会だったようだから、潜むのは室内よりは多少手間だったようだけど。でもねぇ。辺境伯領の広大な敷地ならともかく、王都屋敷の中庭程度、木陰から君たちの表情など丸見えなんだよね。この僕ですら、きっと潜むことが叶えば――僕の運動神経じゃ、無理そうだけど。うん、まあどこかに隠れられるんだったら、君たちの会話など、その口元を見れば理解できたと思うよ?」
読唇術。ユーフラテスは忘れていた。自らが苦手とするものであったから。剣術や体術について、高い評価を受けているが、しかしそれは正々堂々とした戦い方であって、それを得意とするユーフラテスは、暗部について手を伸ばそうとは思わなかった。
対するアルフレッドは、あまり運動神経には恵まれない。だからこそ最低限の身のこなしや運動能力で済ませることのできる『何か』を探し、それを習得した。
それまで穏やかに、困ったように眉尻を下げていたアルフレッドは、すうっと目を細めると、表情から一切の感情が抜け落ちた。
「これが最終勧告だ。ユーフラテス」
アルフレッドの温度の感じさせない言葉がユーフラテスのやましい胸に刺さり、微動だにしなかった鉄壁の表情にヒビが入る。
「わかるか? おまえが口にしようがしまいが、私はすでに知っているのだ。だが、おまえが私に従順になれぬと言うのなら……そうだな」
アルフレッドの口元がふっと緩む。しかし目は剣呑に光り、少しも微笑んでなどいない。兄ではなく、王太子としてのアルフレッド。
王太子としての冷酷なアルフレッドの姿を、ユーフラテスは知っていたはずだった。しかしユーフラテスは己惚れてしまったのだ。
きっと隠し通せるだろうと。ネモフィラと交わした約束は、二人だけの間で守り通すことができるだろう、と己の力を過信して、兄を侮ってしまった。そしてまた、つかの間のぬるま湯の日々で、甘ったれてしまった。
兄はユーフラテスを弟として愛しているだろうと。それは事実であったが、王太子であることより優先されることではなかったというのに。
「おまえの恭順を私に捧げられぬ理由が、あの令嬢にあるのだというのなら、残念ながら私が彼女を譲り受けることにしよう」
「それは………!」
立ち上がったユーフラテスを冷たく睥睨すると、アルフレッドは「座れ」と一言吐き捨てた。
「安心しろ。おまえよりずっと大事に囲ってやる。真心を捧げることこそないが、ご令嬢がそれに気が付くことはないだろう。おまえと共にあるより、幸福であるだろうよ。なにしろご令嬢は子を生みたくないそうじゃないか。ならばおまえは『ヒロイン』とやらと血を繋げばいい。ご令嬢は望み通り、子を生まずに済むし、向いていない政務にも関わらずに済む。おまえがご令嬢を『処したというパフォーマンスをする』より、心象もよいことだし、事情を明かせぬキャンベル辺境伯に連なる面々も引き留めておける。ほら。利点しかない」
アルフレッドは両手を広げ、目を細めて微笑んだ。
アルフレッドは王太子として下した決断について、そうそう覆すことはない。
それも自身に裏切りを見せた者への処罰を、彼は決して手を緩めることはない。
ユーフラテスは両手で顔を覆い、声を噛み殺す。アルフレッドは小さく息を吐くと、立ち上がった。
コツコツと故意に響かせた足音がユーフラテスの眼前で止まる。ユーフラテスは両手を外し、のろのろと顔を上げた。
見上げた先には、アルフレッドが眉根を寄せてユーフラテスを見下ろしていた。エメラルドの瞳には憐憫の色。
「おまえの忠誠心はどこにある?」
「………この国と、兄上に」
「忘れるな。次は決して許さない」
「……はい」
「恋に浮かれた愚か者に、任せられることなど、なにもない。そのときは私自ら、引導を渡してやる」
王太子執務室の外には、アルフレッドとユーフラテス、それぞれの侍従と護衛騎士が控えている。だがしかし、沈みゆく夕日の差し込む室内にいるのは、アルフレッドとユーフラテスの二人だけではない。
アルフレッドの側近候補達は幾人いただろう。
そのうちの一人に暗部の家系の者があったか、ユーフラテスには確信が持てない。暗部の存在そのものについて、国王以外は把握していないことになっている。王太子となれば、王家の秘密として伝授されるのかどうか。それはユーフラテスのあずかり知らぬことだ。
アルフレッドが将来の国王となるための足掛かり。貴族諸侯の動向に目を光らせ、反発は抑制し利となるものは扇動し促し。第三王子エドワード派閥をいずれ混乱に陥れ、徹底的に壊滅させる。必要とあれば父国王ですら出し抜く。
それらを実現可能にさせるための補佐。支援。陰になり日向となり。アルフレッドがその能を認める者達。ヒューバートだけではない。ヒューバート一人ではないのだ。
ユーフラテスは目を閉じ、きつく眉根を寄せた。