35 ユーフラテスルートの表側
夢と現実が交差する薔薇の香り。
頭が重い。何かを考えようとするたび、これはネモフィラの思考なのか、わからなくなる。少なくとも記憶はネモフィラのものではない。
しかし、今たちこめる白薔薇の芳香を嗅ぎ取っているのは、ネモフィラの鼻。
目の前の琥珀色の瞳は、陽の光によって色合いを変えるし、まばたきもする第二王子ユーフラテスのもの。画面越しにうつる平面の絵面ではなく、立体的だし線と面で簡略化されてはいない。攻略対象ではなく、生きている王族でネモフィラの婚約者。
――約百五十年前に姿を消したはずのナタリー・キャンベルが現在生きているのかどうか。
それは、ユーフラテスルートによってのみ、解き明かされること。ネモフィラはうつむいた。
「おそらくは」
「そうか」
ユーフラテスは考えを巡らせる。
ナタリー・キャンベルと『ヒロイン』の存在をヒューバートは認識しているだろうか。いや、おそらく把握しているだろう。ということは、アルフレッドも知っているはずだ。
しかしそれが『ヒロイン』と繋がってはいまい。今はまだ。
「ネモフィラの未来視で、俺は『ヒロイン』と結ばれる可能性があると言ったな? 結ばれるとは、つまり婚姻まで為したか?」
「はい。殿下が式典のご正装、ヒロインはドレスで、どちらかのバルコニーから民に手を振るスチル……場面で幕を閉じます。選択を誤らなければですが……」
「では、選択を誤れば?」
「現在王太子殿下のご婚約者であられる王女様と殿下はご結婚なされます」
「……そういえば、兄上が失脚した後の未来だったな……」
白い大理石のフロアを見つめると、ユーフラテスはふたたびチェアへと戻った。
「ネモフィラも座れ。ひとまず情報の整理がしたい」
請われるがままに。ユーフラテスルートについて整合性のとれないまま打ち明けていく。
婚約者ネモフィラの生家であるキャンベル辺境伯騎士団にて、所属する騎士たちにユーフラテス自ら鍛錬を施すシーンがあった。確か訓練の休憩として海辺へ足を運んだ際に、海辺の孤児院で暮らすヒロインに出会うのではなかったか。
誤って魔力を開放してしまったヒロインに、ユーフラテスが興味を抱く。そしてユーフラテスは慰問と称してヒロインと交流を深めていく。悪役令嬢ネモフィラは、婚約者ユーフラテスについて回り、ユーフラテスとヒロインの様子に臍を噛む。悪役令嬢ネモフィラは、ヒロインを孤児院から追い出そうとヒロインへの警告として様々な嫌がらせを重ねる。
しかし傲慢で短慮で愚かなネモフィラは、ついにヒロインの命を奪おうと画策してしまう。
ハッピーエンドでは、ヒロインが百五十年前の国王とキャンベル辺境伯令嬢であった大魔女ナタリーの娘と判明し、王族と認められ、めだたくゴールインする。そして第一王子アルフレッドが右腕に障害をもちながらも王太子として返り咲き、第二王子であるユーフラテスは兄の補佐として兄を支えていくことを宣言する。
バッドエンドでは、ヒロインは王族として認められるものの、ユーフラテスが王太子となり、他国の王女と婚約を交わす。
ただしどちらにしてもネモフィラは処刑される。
歴史上もっとも偉大な魔力を有していた初代国王と並び立つ魔力があったとされる第十一代国王レオンハルト。その娘であるヒロイン。さらに母ナタリーはキャンベル辺境伯の出自であり、かつナタリーもまた高度な魔法を操る有能な魔法騎士。
そのヒロインを害したとなれば、いかにキャンベル辺境伯の嫡出子とはいえ、その罪を庇いだてることは難しい。
キャンベル辺境伯家の血筋を取り込めるのならば、なんの魔法も操ることのできないネモフィラより、王家の血筋までも引くヒロインのほうが、王家にとってもずっと有益だ。
「改めて聞くと、ネモフィラの未来視の俺は、最悪だな」
「まぁ……」
これは「そうですね」と頷いてよいものなのか。
乙女ゲームのユーフラテスは目の前のユーフラテスとは違う人物ではあるが、世界観は同じくしている……らしいので。ここで乙女ゲームのユーフラテスを否定するのは、目の前のユーフラテスを否定するのと同義だろうか?
いやでも、ユーフラテス本人が「最悪」などと否定しているのだし。これは迎合しておくべきか?
「無責任にもほどがある。王族としての役割を認識しているのか? そいつは。キャンベル辺境伯家の血筋を、王家がどれほど待ち望んでいたか。『ヒロイン』がたとえ第十一代国王レオンハルトとナタリー・キャンベルの子なのだとしても。それをいったいどう証明する? バカバカしい」
「そうですわね」
やっぱりユーフラテスが重要視してるのは、この血なのか。
そっかーやっぱりね、わたくし自身じゃないのね、なんて頷きそうなネモフィラに、ユーフラテスは慌てて言葉を重ねる。
「第一、不誠実だろう! 幼少の頃から交流を育んできた婚約者がいるにも関わらず、他の女人と逢瀬を交わすなど。そんな不埒なことをする暇があるのなら、婚約者と絆を深めるべきだ!」
「恋とは、自制のきかないものなのかもしれませんわ」
したり顔で頷くネモフィラに、ユーフラテスはぴくりと片方の眉を上げた。
「ほう……? 何やらよく知っているような口ぶりだな? 誰だ? ネモフィラは誰に恋慕を抱いた? 怒らないから素直に吐け」
しまった。地雷を踏んだ。
眉間に皺が刻まれ、その眉尻はつり上がっているのに、ニコニコと凄味のある笑顔を向けてくる。
怖い。
細められた琥珀色の瞳から、怪しいオーラが立ち込めている。
これは心を決めるしかない。
ネモフィラは顔を真っ赤に染め上げ、きっとユーフラテスを睨め上げた。
「……殿下にございますっ!」
「は?」
「で、で、ですからっ! わたくしが、お、お、おおおお慕い申し上げるのは……っ! で、殿下にございます……っ!」
ユーフラテスはぽかんと口を開けた。間抜けヅラ。そうとしか評しようのない顔つきだった。