34 怠惰で無能な令嬢であること
「怒ってません!」
「どこがだ! おまえがここまで声を荒げたことなどないだろう! ほとんど無関心であったのだから!」
ユーフラテスの悲痛な咆哮に、ネモフィラは怒気をおさめ、ぱちくりと目を瞬いた。眉と真っ赤な目を吊り上げる少年の姿はなかなか悲痛だ。
「不安や不満は口に出せと言っただろう! おまえの心を読み先回りすることはできない! それともネモフィラは、以前のように、俺に指図を受け、それに従うだけでいいのか? 俺におまえの支配者たれというのか? おまえの前でも王子であれと? おまえはそれを望むのか!」
ネモフィラは憤るユーフラテスを前に、怖気づくことなく、怯えることもなく。冷静にその言葉を胸に入れた。ユーフラテスの激昂はもっともだと感じるのと同時に、喜びに胸が高鳴った。
これはユーフラテスのネモフィラへの期待。
気を遣われ取りつくろわれ、諦められた優しさではなく。
そしてまた、教養や礼儀作法、身の処し方といった、貴族令嬢として、後の王子妃として求められたのではなく、ユーフラテスが望んだのはネモフィラの心。
家や血筋、地位や身分ではなく、ネモフィラという生きた人間の流す鮮血、傷。その生々しい心そのもの。
「わたくし、殿下に支配される方が楽だと思っておりましたの。何も考えずに済みますから」
肩で息をし髪を振り乱したユーフラテスの顔は、打ち明けた激情によって赤い。
「でも、望まれないことにも悲しく思いました。わたくし…殿下に何かを期待されることは嫌だったはずなのに」
「望まれない? これほど……」
言いよどむユーフラテスは拳をきつく握りしめた。ネモフィラは歩み寄って、その手を取る。息を呑む気配がネモフィラの額のあたりに感じられる。
おかしかった。
こんなにも自分に振り回されている様子のユーフラテスが。
尊大で傲慢で口うるさくて。バカで愚かなネモフィラのことなんて、ユーフラテスにとってはつまらなくて不愉快な存在なのだとずっと思っていたのに。使用人達の陰口のまま、ユーフラテスに相応しくないネモフィラが忌々しいだけなのだと思っていた。
ユーフラテスの心を煩わせるのは、ネモフィラが無価値だからなのだと。
なんと言えば伝わるのだろう。
それ以前に、ネモフィラはユーフラテスに何を伝えたいのだろうか。何を求めているのだろうか。
ユーフラテスの強張った拳から力が抜ける。ネモフィラはその手を両手で包み、指の一本一本を解いていく。
「………おまえは。愚かなのか賢いのか、よくわからない」
疲れたようにため息を漏らすユーフラテスに、ネモフィラは眉尻を下げた。
「わたくしは愚かですわ。誰もがわたくしのことをそう言うでしょう?」
「そうだな」
解かれたユーフラテスのところどころ剣ダコのある細い指と、添えられたネモフィラのふっくらと柔らかな指。
「そのままの評価では嫌か?」
「え?」
ネモフィラはこちらと目を合わせず、繋がれた手をじっと見つめるユーフラテスに小首を傾げる。
「周囲からのネモフィラへの評価も態度も悪い。それを覆す気はあるか? それとも甘んじるか?」
ユーフラテスは顔をあげた。
「どちらを取っても、利はあり、不利益もある。苦難は必ずある。ネモフィラはどうしたい?」
何かを決意したようなかたく引き結ばれた口元。眉間に寄せられた皺。青白い頬。目の下のうっすらとした黒ずみ。細い肩。薄い体。
まだ十年しか生を重ねていない少年。
実感は伴わないし、記憶も曖昧。とはいえ、ネモフィラにはその倍以上の年数を重ねた前世の女が共存している。それなのに、寄りかかってもいいのだろうか?
この華奢で神経質な少年は、既に王子である重圧を抱えている。
「わたくし……」
「ネモフィラがどうしたいかだ。どちらにせよ、意に沿わぬことは出てくるし、無理も通す必要がある。それは俺もおまえも。なるべくネモフィラの負担にならぬようには留意するが。だから……」
またもや言いよどむ。ユーフラテスの少し乾燥した細い手が、ネモフィラのしっとりと柔らかな手から離れていった。
「俺は。ネモフィラの力になりたい。ネモフィラの望みを叶えたい。それは俺の願望であって、負担でも義務でもない。だから遠慮はするな。王子としての義務は放棄できぬし、手の及ぶことには限りがある。ならばせめて、出来ることは必ず叶えよう」
ユーフラテスの隣に立ちたい。ユーフラテスを支えたい。
そう言えればよかったのだろう。
「わたくしは、落ちこぼれのままでいたいです」
「そうか。わかった」
しかしユーフラテスは眉尻を下げて微笑んだ。そして風に吹かれた前髪が目に入りそうになり、ユーフラテスが片目をつむる。
あどけない少年の顔。
「………でも、努力は、いたします。これまで逃げ出していたお勉強ですとか…マナーとか。王子妃教育も…。少しずつですけど」
「ああ。頼む」
ユーフラテスが嬉しそうにはにかむから、口にしたそばから後悔して前言撤回しそうだったのを、ネモフィラはこらえることができた。
「城下の者達のネモフィラへの態度は改めさせよう。だが、効果はあまりないと覚悟してほしい」
「はい。というよりも、わたくし自身、期待されたくないので…。軽んじられているほうが楽です」
「わかっている。だが、ネモフィラを軽視することはキャンベル辺境伯を軽視することであり、俺を、そして王家を軽視することでもある。最低限の線引きはしてもらう。能力を軽視することと身分を軽視することは同義ではない」
ネモフィラが首を傾げると、ユーフラテスは手を挙げてうしろに控えていた侍従を呼んだ。
「人払いを」
「これ以上は…」
「ならば、こちらを見渡すことが叶い、有事に駆けつけられる最大の距離をとれ。おまえは邸宅側へ、キャンベル辺境伯家の使用人達とともに控えろ」
ユーフラテスが示した先にある大理石のプランター。そこには先日とは異なる花が咲いていた。白薔薇とブルースターとかすみ草。
ユーフラテスの目がわずかに見開かれ、口の端があがった。
「こちらの護衛騎士とネモフィラの護衛騎士とで対となり、連携をはかれ」
ユーフラテスの命を受けて下がる使用人達。それらを見守り、声の届かないだろうと納得したユーフラテスが口を開く。
「未来視のようにはさせない。何があろうと、俺がネモフィラを守る。そのために未来視について、ネモフィラの知る限りのすべてを教えてほしい」
ネモフィラはキョロキョロと周囲を見渡した。白の大理石のフロア、テーブルにチェア。プランター。白薔薇にブルースターにかすみ草。螺旋階段。青い芝生。田園式ガーデン。そこにもまた白薔薇。
第十一代国王レオンハルトは、他者の侵入を拒否するプライベート庭園を作らせたという逸話が残されている。
王妃や王子王女。自身の妻子の散策すら許さなかったという、その庭園に植えられたのは、薫り高い大輪の黒薔薇。
これは確か、スピンオフの小説にあった。
庭園に足を踏み入れ、その場に立ち尽くすレオンハルト国王の孤独な背中。最愛のナタリー・キャンベルがレオンハルトの手から零れ落ちたあと。
ヒロインがユーフラテスルートにおいて、悪役令嬢ネモフィラの機嫌伺いに手渡そうとし、払い落される黒薔薇。
地に落ちた黒薔薇を憎々しげに睥睨し、ゲームの中で、悪役令嬢ネモフィラは吐き捨てた。
「わたくしの好きな薔薇は一つだけ。白薔薇だけよ」
キャンベル辺境伯長女、悪役令嬢ネモフィラが愛したのは白薔薇。
約百五十年前のキャンベル辺境伯嫡子ナタリー・キャンベルが愛したのは黒薔薇。
少年王子ユーフラテスがネモフィラに捧げたのは白薔薇。
亡き第十一代国王レオンハルトがナタリー・キャンベルに捧げたのは黒薔薇。
ネモフィラの脳裏に、コントローラーを手にした前世の女が、画面の中のユーフラテスとネモフィラを嘲る様が蘇る。攻略対象ユーフラテスはサイコパス。人間らしさも優しさも、少しもない。ヒロインを愛することもできない、血の通っていない冷たい欠陥人間。悪役令嬢ネモフィラとお似合いだったのにと。
ユーフラテスが重ねて問いかけた。
「ナタリー・キャンベルは存命なのか?」
白薔薇が香る。