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33 初めての喧嘩

 ユーフラテスは息を吐き出し、ネモフィラの額に頬ずりをした。ネモフィラがびくりと肩を震わせたが、逃げ出されないようにしっかりと囲い込む。

 ネモフィラはユーフラテスの悩まし気な熱い吐息にくらくらとした。

 相手はまだ幼い少年だとわかっているが、前世の記憶があるとはいえ、前世の女は同一人物ではなく、ネモフィラもまだ幼い少女にすぎない。父親以外の異性にこれほど熱烈に抱き寄せられたことなどないのだ。


「ネモフィラ。それはキャンベル卿にまだ告げてはいないな?」

「え? は、はい。たった今思い出したことですもの…」

「ではまだ告げるな」

「なぜです?」


 怪訝そうなネモフィラを強く抱き寄せる。

 ネモフィラの身体が強張り、小さく息を呑むのが身体に伝わった。


 こんなやり方は不本意だ。

 しかしユーフラテスは罪悪感を抱きながら、誤魔化すことにした。


「キャンベル卿には明かさない、おまえとの秘密を、ひとつくらい俺に残してくれてもいいだろう?」


 口にしながら、馬鹿みたいだ、と内心自嘲する。

 こんな甘ったるい気障な台詞を吐いたところで、ネモフィラはユーフラテスに酔い痴れてなどくれないのに。

 しかしながら、ネモフィラはそこで黙ってしまった。


 嘘はついていない。

 だが、嘘はつかないと宣言して間もなくの、おためごかし。

 明らさまな言い訳に、不信感を抱かれただろうか。やはり不誠実だったろうか。

 ユーフラテスは不安になって腕の中のネモフィラをそろりと覗き込む。ネモフィラは真っ赤になって、泣く寸前のような顔をしていた。


「す、すまない…! 泣かせるつもりは…!」

「…秘密ですからね! わたくしと、殿下だけの。殿下だって、他の方にしゃべっては駄目なのですからね! わたくしだって、お父さまにもお母さまにもお兄さまにも、それにハロルドにも! 内緒にするのです。 殿下も、国王陛下や王妃殿下、王太子殿下にだって、お話しになってはいけませんよ!」

「わ、わかった…! 必ず守る…!」

「…それならいいのです。わたくし、殿下を信じております」


 ふにゃりと笑うネモフィラを目にして、ユーフラテスは衝動的に口づけをしそうになった。

 しかし、ふっくらとした熱い頬を両手ではさんだところで、ユーフラテスはネモフィラの瞳の中に怯えを見た。

 そこですっと冷静になった。


「…まだ確認したいことがある。『ヒロイン』は今いくつだ?」

「えっ? ええと…」


 素早く暗算が出来ない。

 目玉をぐるぐる回しながら、眉間にシワを寄せるネモフィラに、ユーフラテスは噴き出した。

 これまでずっとぴったりと寄り添っていた身体が離れる。

 ユーフラテスは笑いを噛み殺して、ネモフィラの耳元で囁いた。


「乙女ゲームとやらの開始時、俺はいくつだった?」

「ええと、殿下は二十…四歳?」


 ネモフィラもまた、ユーフラテスの耳元に手を当て、小声で囁き返す。

 傍から見れば、内緒話を交わし合う、少年少女の微笑ましいじゃれ合いにしか見えないだろう、とユーフラテスはそのまま続ける。


「そうか。では『ヒロイン』は?」

「十五歳だったかと」

「………それは、俺がよほど年下趣味だか少女趣味だということか?」


 ものすごく心外だ。

 確かに今、十を前にしたネモフィラに恋しているが、それは同年齢だからであって、いつまでもネモフィラに少女でいてほしいわけではない。

 ちゃんと一緒に成長していきたいし、なんなら早く大人になって結ばれたい。


 ユーフラテスは不機嫌に鼻を鳴らすも、困ったように眉尻を下げるネモフィラの愛らしさに溜飲を下げた。


「まぁいい。ということは、今『ヒロイン』はまだ一、二歳の乳幼児か」

「計算がお早いですね」

「四則演算は男子の学問だからな。ネモフィラが出来ずとも問題はない」


 いや、問題大アリだ。

 ネモフィラの前世の女は、確か『小学一年生』で習得していた。あのオツムの弱い前世の女ですら。

 ユーフラテスの言う四則演算がなんなのかよくわからないが、とりあえず一桁の足し算と引き算くらいは出来ないとおかしい。

 ネモフィラは頬を引き攣らせた。


 ユーフラテスは強張ったネモフィラの表情を不思議に思った。

 学問ができないことに、もともと頓着しないネモフィラなのに、それも女子には不要の算術において、何を不安に思うことがあるのだろうか。


「算術を学びたいのか?」

「いえ…。あっ。いえ、やっぱり、はい。足し算引き算くらいは…ちょっと…。…九九も怪しいくらいですし」

「クク?」

「掛け算です」

「乗法か…。加法、減法ならともかく、乗法まで学びたいとは、意欲的だな」

「えっ。掛け算は普通ではないのですか?」

「いや。令嬢の必須ではないだけで、おかしなことはない。女子とて、学ぶ意欲をもつことはよいことだと俺は思う」


 つまり、大抵の紳士からは眉を顰められるということなのだろう。


「これ以上、令嬢の枠をはみ出るわけにはいきませんわ」

「そうか? 俺は喜ばしく思ったが。まぁ、気が進まぬのなら、義務ではないからな」


 わずかに残念そうではあったが、あっさりとした口ぶりに、ネモフィラは目を瞬いた。

 出来が悪いとか、落ちこぼれだとか。

 そういった言葉で発破をかけられてきたから、ユーフラテスはネモフィラに向上心を持ってほしいのだと思っていた。だからきっと、算術に学ぶ意欲を見せたことに、実際、好印象を持ったのだろう。

 だがそれなのに、ネモフィラがやる気を失っても残念そうではあったが、失望する素振りは見せなかったし、努力することを求めなかった。


 怠惰で能力の低いネモフィラなのだ。

 これ以上なく喜ばしいことのはずだ。

 ずっと望んできたのだ。期待しないでほしいと。

 それなのに。


 もやもやとする気持ちを振り払うように、思い切り首を振ると、ユーフラテスに両手で両頬をムギュっと押さえつけられた。


「あにふるんでふの」

「いいから聞け。確かめねばならんことがあるのだ。まだ、わけのわからん世界に潜っていくな」


 ブニブニと頬を弄ばれて一見そうとはわからなかったが、ネモフィラは不機嫌にへの字口に曲げた。

 わけのわからん世界とは、なんだ。

 ちゃんと話も聞いていたし、答えるつもりだってある。

 だいたい、確かめなくてはならないことって?

 ユーフラテスはネモフィラ自身が必要なのではなくて、ネモフィラの持つ乙女ゲームの――…『未来視』の情報を必要としているだけなのではないか。

 だから、これまではネモフィラに努力を求めてきたのに、今後は一切期待しないとでもいうように、あっさり引き下がったのではないだろうか。

 そしてネモフィラが単純に情報源であるだけだから、ヒューバートにも父辺境伯にも、他の誰にも口外するなと口止めしたのではないだろうか。

 バカなネモフィラならば、ユーフラテスの口先で簡単に丸め込めるから。ヒューバートが噛めば、そうはいかないから。だから。


 ネモフィラの瞳に苛立ちと失望の翳りが差す。

 ネモフィラがユーフラテスから視線をそらすと、慌てたようにユーフラテスが頬から手を離した。


「…おい? なにか勘違いしていないか?」

「…しておりませんわ」


 ぷいっと顔をそむけるネモフィラ。ユーフラテスは焦ってその顔を下から覗き込む。


「いや! 絶対している!」

「してませんってば!」

「ではなぜ、怒っている!」


 痴話喧嘩を始めた二人から、声が届くか届かないか程度に離れた場所で控えるユーフラテスの侍従と、キャンベル辺境伯王都屋敷執事は、少年少女の不穏な様子を目にして、またもやどちらともなく目を見合わせた。


 これまでこの二人が、喧嘩をすることなどなかった。

 ユーフラテスが一方的にネモフィラを罵るだけで、ネモフィラはボンヤリとそれを受け流すだけで。


 二人の初めての衝突を見守ろうと、侍従と執事は頷きあった。

 侍女はそのうち二人が落ち着いて、そのときにはきっとお茶を飲むだろうと、冷めてしまったお茶を淹れ直しに屋敷へと戻る。その途中、ちらりと後ろを振り返って、ネモフィラを見た。


 屋敷中の者達から無能と侮られ、ほとんど自己主張することのなかった姫君。

 ネモフィラの専属侍女となったのは、侍女頭に命じられたからだ。そこに悪意があったのかは、侍女にはわからない。

 だけど、先輩侍女達は口々に言った。

 可哀想に、と。

 侍女は烏滸がましいと思いつつも、主であるネモフィラに同情と共感を寄せていた。

 自身もまた、他の同僚達から無能だと嘲笑われていたから。自分自身の意見を持たなかったから。


 侍女は誰が見るでもなく、ひっそりとネモフィラに向けて頭を下げると、トレイにポットを載せて、屋敷の中へと入っていった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] うぎゃー。なんか見えた!! テス、ネモフィラとの約束、破ったんだな!? ヒロインがナタリーの子だって、この世に存在してるって、アルに言っちゃうんだな!? [気になる点] あー、ネモフィ…
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