32 婚約者との抱擁
二人が人目もはばからず抱き合っていたのには、理由がある。
なんと仕掛けたのはネモフィラだった。そのときのユーフラテスの心境を、ちょっと想像してみてほしい。
冷静に話を聞かなければ、と理性は厳しく指摘するものの、浮かれ上がった感情は空高くどこまでも昇りつめていく。
ことはこうである。
「で、殿下…!」
息が整いつつあるネモフィラが、いまだ真っ青な顔でユーフラテスを見上げた。
ようやく言葉を発することができるようになったかと思えば、その第一声が己を呼ぶ声だったことに、ユーフラテスは喜びを隠しきれない。
とはいえ、この場でネモフィラが声をかけるような相手といえば、ユーフラテスと侍女くらいしかいないのだが。
騎士においては、異性であるし、そもそもネモフィラと交流がない。
キャンベル辺境伯騎士団の騎士達は、王都邸宅の使用人達とは異なり、誰一人としてネモフィラを軽んじることはない。が、その代わり、キャンベル辺境伯家の大事な姫君であるネモフィラに対し、過剰なほどの敬意を捧げていた。そのため、ネモフィラから声をかけない限り、決して言葉を交わすことはない。
そしてネモフィラはこれまで他者に無関心であったことと、己の不出来さを自覚し、使用人達から軽んじられていることも知っていたため、わざわざ屈強でおそろしげな容貌の騎士達に声をかけようとは思わなかった。
完全なるすれ違いである。
それはそれとして。
「どうした?」
ユーフラテスの耳は真っ赤に染まり、険しい表情だが琥珀色の瞳は熱を孕んで、とろりしている。
優しく問いかけたい気持ちはあるものの、気がつくと鼻の下がのびそうなので、ユーフラテスは、きつく眉根を寄せるしかなかった。
このちぐはぐな姿をもし、兄王太子アルフレッドが目にしていたとしたら、盛大にからかわれたことだろう。
「わ、わたくし、今…! 今、思い出したのですわ…っ!」
興奮でまたもや過剰に息を吸い込みそうになるネモフィラの背を、ユーフラテスが撫でる。
「落ち着け。話は聞く。まずは、もう一度ゆっくりと息を吐け」
こくりと頷くと、ネモフィラは素直に息を吐き出した。
そして「ヒロインが…!」と口を開いたところで、はたと思い至った。
ネモフィラの背後には、いまだ棒立ちのまま、青い顔をして震えるキャンベル辺境伯家の侍女。その後ろには同じくキャンベル辺境伯家の騎士が、厳しい顔つきで立っている。
ここまでならまだいい。
だが、ユーフラテスのすぐ後ろに、ユーフラテスの護衛騎士がいる。彼は近衛騎士団所属の騎士だろう。見目もよい。
王族警護の任に就く近衛騎士団。
その忠誠は、第二王子ユーフラテスではなく、この国に。そして国王陛下にある。
ネモフィラはキュッと唇を噛むと、淡い水色の瞳に決意をみなぎらせ、ユーフラテスを見上げた。
そのいつにない、強い意思の力を見て取ったユーフラテスは瞠目した。
「殿下。無礼をお許しください」
そう言うやいなや、ネモフィラはふっくらとした両腕をユーフラテスの首にするりと回した。
ユーフラテスは固まった。
「殿下、お耳を失礼致します」
赤い唇を耳元に寄せ、小さな声で囁くネモフィラ。
その温かく湿った吐息までもが耳元に吹きかけられ、ネモフィラのふくふくとマシュマロのように柔らかで滑らかな頬は、連日の激務で痩けたユーフラテスの頬をかすめる。
揺れるブルネットの髪からは、ふんわりと花の香りが漂う。これはきっと、朝摘みの薔薇の香り。ユーフラテスが以前贈った、白薔薇に似た。
「わたくし、たった今思い出しました」
なにを、と問う頭も回らない。夢か現か幻か。
ユーフラテスは柔らかく温かなネモフィラの身体がぎゅうぎゅうと、ネモフィラ自らの意思で押しつけられている現状に、どう反応してよいのかわからなかった。
一方、何も答えないユーフラテスを怪訝に思うほど、ネモフィラには余裕はなく、また余裕があったところで、おそらくそこまで頭は回らない。
密着して、他者に言葉を聞かれないように、と配慮できただけでも、普段のネモフィラを思えば上出来だ。
「乙女ゲーム………殿下が『未来視』と呼ばれていることについてです」
ひっそりと告げられた単語に、熱に浮かされたユーフラテスの頭が急速に冷えた。
そしてネモフィラに機転に気がつき、ユーフラテスは両脇におろしたまま固まっていた腕をネモフィラの背中に回す。
落ち着き始めた心臓の動きが再び早まりかけたが、ユーフラテスはぎりっと奥歯を噛みしめることで耐え、思い出した。ネモフィラが以前語っていた、ネモフィラの悲惨な未来と、己の非情な所業について。
「なにを思い出した?」
ユーフラテスも小声で囁き返す。
するとくすぐったいのか、ネモフィラが身を捩った。横目でちらりと見やると、ネモフィラの頬はこれでもかというくらい、赤く染まっていて、それを目にしたユーフラテスもまた、首まで真っ赤に染まった。
「………俺はずっとこのままでもいいが?」
意地悪くそう言って、背中に回した腕に力をこめると、ネモフィラが息を呑む。そんな小さな呼吸も身じろぎも、すべてがぴったりと寄り添う身体に伝わって、ユーフラテスはその幸福に痺れた。そしてそれはネモフィラも同じだった。
どっどっと速い鼓動は、どちらのものなのかわからない。
溶け合っているような、この刹那が永遠となればいいのに。そう感じているのが、自分だけでなければいいのに。
ネモフィラは胸の内で、たった今はっきりと目覚めた恋心に、恐れおののいた。
だって、あの前世の女の、苦い恋の顛末を再び、そして以前より詳細に思い出したばかりだったから。
ネモフィラは目頭が熱くなったが、ぐっと涙をこらえる。
歓喜と恐怖の涙。一粒でもこぼせば、きっと止まらなくなる。
まずはキャンベル辺境伯家の長女として、伝えるべきことを伝えよう。
そのあと、もし勇気を振り絞ることが出来たのなら、恋心を伝えたっていい。だけど、なぜ子どもが嫌いなのかまでは、まだ告げる勇気が出ない。
舞い上がりそうな喜びと、ぐるぐると渦巻いては沈み、胸を突き刺すどうしようもない不安。ユーフラテスの、まだ発育途中である少年の細腕に包まれながら、それらをやり込め、ネモフィラは口を開く。
「わ、わたくし…。わたくしが処刑されるには、理由が、あったのです…!」
「理由? それは未来の俺が愚かにも『ヒロイン』だとかいう女に浮かれあがったためだと聞いたが?」
怪訝そうなユーフラテスの声に、ネモフィラは頷いた。
そうすることで頬がこすれ合い、幼い二人の心臓は痛いほどに鼓動を刻む。
しかしそこで、ネモフィラは気がついた。
ユーフラテスに比べて身長の足りないネモフィラは、耳元に口を寄せようとつま先立ちをしている。そのため並みの令嬢に比べてずっと重い、その体重の大部分をユーフラテスに預けているのだが、相手は細身のユーフラテスだ。
ネモフィラはつま先立っていた足裏をしっかりと地面につける。首の後ろに回していた腕も、そろりと下した。
ユーフラテスは戸惑うように、いや、縋るように下がった視線を追いかける。そして口を開こうとするネモフィラに身を寄せ、耳を近づけた。
「それだけではなかったのです」
促すように頷くユーフラテスに、ネモフィラは言葉を続ける。
「不思議に思っておりましたの。殿下が『ヒロイン』と恋に落ちたからといって、我が家は殿下にとって大事な後ろ盾のはずですわ」
「そうだな」
それに王家は何よりキャンベル辺境伯家の血を取り込むことを念願としてきた。
子を産みたくない、というネモフィラに言えることではなかったが。
「ですから殿下がわたくしを切り捨てるには、なにかもっと他の理由があるのではないかと」
「………まあ。俺としては、そもそも他の女にうつつを抜かすという時点で信憑性も何もないのだが…」
照れたように、しかし甘い声を出されては、ネモフィラは「うっ」と口ごもって身を捩る。これほどまで密着しながら、遠回しに愛を囁かれては、たまったものではない。
ネモフィラはユーフラテスの肩に手を押し当て、身を離し、真っ赤な眦を吊り上げてユーフラテスを睨んだ。
「で、殿下!」
「なんだ?」
「ちゃんと聞いているぞ」と微笑みかけられ、頬を撫でられる。
これはだめだ。密着している以上かもしれない。
ネモフィラは抗議の意味を込めて、どんっと勢いよくユーフラテスに体当たりした。ユーフラテスはくつくつと笑って受け止める。
悔しい。
自分だって真っ赤な顔をしているくせ、ネモフィラより上手のように振る舞う。
しかし、これからネモフィラの口にする言葉には、ユーフラテスとて、きっと驚くだろう。
ネモフィラはすうっと息を吸い、少しだけ意地悪な気持ちでユーフラテスの耳元に囁いた。
「『ヒロイン』は、キャンベル辺境伯家の血筋を引いております!」
その言葉に、思わずユーフラテスは飛び上がってネモフィラに問いただしそうになった。だが、そうしてしまっては、せっかくのネモフィラの機転が無駄になる。
ネモフィラの背に腕を回し、再び引き寄せる。ネモフィラの柔らかな肉の感触が手に、腕に馴染んでいく。
「………どういうことだ?」
きつく抱き寄せられたネモフィラは、応えるようにユーフラテスのジャケットをぎゅっと握りしめた。
「『ヒロイン』は、第十一代国王陛下レオンハルトを父とし、そして我がキャンベル辺境伯家祖先、ナタリー・キャンベルを母に持つ娘です…!」
ネモフィラよりずっと、キャンベル辺境伯家の血を濃く継ぎ、それでいて王家直系でもあり。そして多大なる魔力を受け継いだ、青い血をその体に巡らせる娘。
約百五十年前に生まれているはずだった娘。
それがヒロイン。
ユーフラテスはネモフィラを抱きしめながら、その言葉の持つ意味を反芻していた。
背後では、己の侍従とキャンベル辺境伯家王都屋敷の執事がようやく戻り、こちらを微笑ましく眺めていることなど、もはやどうでもよかった。