31 王都邸宅における中庭での椿事
ハッハッと短く速く、激しく息がきれた。息苦しい。
この症状は知っている。前世の女が『過呼吸』と呼んでいた。あの女が、その発作に襲われていた記憶がある。
ネモフィラは胸のあたりをぎゅっと握りしめ、ゼイゼイハアハア、吸ったり吐いたり、激しく呼吸を繰り返した。
胸が苦しい。涙がにじむ。視界はくらくらと歪み、手足も痺れてきた。
何より怖い。怖くてたまらない。
死んでしまいそうだ。だめだ、もう苦しい――…。
「ネモフィラっ!」
慌てて立ち上がったユーフラテスは、大きな音を立てて椅子を倒し、崩れ落ちそうなネモフィラの体を支えた。
背後ではキャンベル辺境伯家の侍女が困惑した表情で戸惑っている。
ユーフラテスの引き連れてきた侍従は若干顔色を悪くしながらも、すぐさま踵を返し、屋敷へと急いだ。ユーフラテス付きの侍従は、目の前の事態になんの手立ても打たず、棒立ちのキャンベル辺境伯家の侍女に一瞥をくれたが、役に立ちそうにないと即座に切り捨てたのだ。
それぞれの護衛騎士達は緊迫した表情でその場にとどまり、様子をうかがっている。
こちらが動かないのは、侍女とは理由が違う。ここで騎士が慌てふためくことで、万が一、主達が狙われたときに初動が遅れるからだ。
だが、主を違える護衛騎士達は、現在おかれた状況においては共同歩調を取るべしと視線を交わすことにした。そしてユーフラテスに従う護衛騎士がそっとユーフラテスのそばまで歩み寄る。
騎士は軽く身体を屈ませると、ネモフィラと同じくらい血の気の失せた少年王子に諫言した。
「おそれいります、殿下。よろしいでしょうか」
「なんだっ!」
ユーフラテスは振り返ることもなく、忌々しそうに叫ぶ。
苛立ちが如実に表れた、感情的に張り上げられた声は、第二王子殿下という尊き身分による叱責。
キャンベル辺境伯家の侍女はびくりと肩を揺らす。己の失態かと、そればかりが侍女の頭を占める。
キャンベル辺境伯家の騎士は、そんな侍女の様子に失望と諦念の眼差しを向けた。
王都屋敷の使用人の質の低下については今一度、辺境伯に諫言しなくてはならない。しかしすぐさま動いてもらうとすれば、辺境伯領にこもりがちの主ではなく、王太子アルフレッドとも近しく王都に滞在することの多い、嫡男ヒューバートの方が適任かもしれない――…。
キャンベル辺境伯騎士団の騎士が思いをめぐらせている中、ユーフラテス付きの近衛騎士が口を開く。
「そのように慌ててはなりません。ますますご令嬢が苦しくなってしまわれます」
ゆっくりと落ち着いた、幼子に言い含めるかのように穏やかな低い声色で語られる騎士の言葉に、ユーフラテスははっと目が覚めた。
「………すまない。そうだな。おまえの言うとおりだ」
はあーっと息を吐きだすと、ユーフラテスはがちがちに固まっていた肩の力を抜いた。
強くドレスの胸元を握りしめるネモフィラの手。ふくふくと柔らかな手は、常は白い肌ながらも血色のよい滑らかで愛らしい様子なのが、今は青白く関節の形がはっきりと浮き出ているし、強く引っ張られた胸元のレースは今にもほつれそうだ。
浅く速く呼吸を繰り返すネモフィラを痛ましそうな目で見るも、ユーフラテスはゆっくりとその背中をさすってやった。
「ネモフィラ。これから十数える。それに合わせて、ゆっくり息を吐いてみろ」
できるだけ優しい声色を意識して語り掛ける。
ひっひっと息を吸い込むばかりで苦しそうなネモフィラに、ユーフラテスの声が届いているかはわからない。しかしここでユーフラテスが焦っても、恐慌状態を長引かせるだけだ。
「できなくともいい。まずはやってみろ。――…数えるぞ」
背中をゆっくりとさすりながら、ユーフラテスはネモフィラの吐気を促していく。
それから少し呼吸を止めさせたり、またゆっくりと数をかぞえたり、つるりとした葡萄を一粒口の中に放り込んだり。あの手この手で、しかしながら焦りを表に出さずに、ユーフラテスはネモフィラの呼吸を整えていった。
ユーフラテスの侍従がキャンベル辺境伯王都屋敷の執事を連れてきた頃には、既にネモフィラの呼吸は落ち着いており、そしてなぜか二人は熱烈な抱擁を交わしていた。
急ぎ戻った侍従と、それに連れられた執事の二人は、目の前の少年少女の愛を確かめ合う様に、ぽかんと口をあけ、それからどちらともなく目を見合わせた。