30 前世の罪と罰
妊娠出産にまつわる、非常にセンシティブな内容があります。
前世でもネモフィラはバカだった。
前世では義務教育とやらがあり、万人に教育を行きわたらせる政策が実施され、識字率も高く、算術も大概の国民が習得していた。
天文学、幾何学、自然哲学、錬金術に医術などはおそらくこの世界より遥か先をいき、建築物は理解を超える高層を誇り、馬車より数倍も早い鉄の塊で移動し、多くの者が清浄な水を容易に手に入れることができた。
フランクベルト王国の大抵の貴族令嬢よりも、義務教育とやらを完了した者の方がよほど教養が高かったように思う。とはいえ教養がなにを示すかによるので、淑女としての教養、たとえば刺繍やレース編み、ダンスに楽器、美術品鑑賞に詩作、礼儀作法、宮廷作法、家政の取り仕切り方、貴族らしく本音を笑顔の裏に隠し、機知に富んだ会話を交わしつつ、互いに相手の失言を誘う厭らしさなどは、貴族令嬢が優れているかもしれないが。
男子のする学問といえばいいのかもしれない。
だが前世の女は、そんな全国民が教養を得る機会がある中、落ちこぼれで、結局義務教育機関も最後まで通わなかった。
今とほとんど変わらない、怠惰で愚かな女だった。
その代わりといってはなんだが、前世の女はとても美しい少女だった。
馬鹿な美少女というのは、男にとても需要があった。
甘い言葉を吐けば、簡単についてくる。強い意志も信念もない少女など、容易に操れる。
しかし前世の女は馬鹿で愚かなりに、貞操はしっかり守っていた。
馬鹿で考えなしなので、悪い男に連れ込まれそうになったこともあったが、その危機をいつだって救いに来てくれる、幼馴染がいた。
そして前世の女はその幼馴染に恋をしていた。
幼馴染は女と違い、優秀とまでは言えないが、それなりに真面目に学校へ通い、その後就職をした。
幼馴染が学生の間は、女はずっと、アルバイトをして生活を食いつなぎ、幼馴染の高等学校卒業を待って同棲を始めた。
アルバイト先はいつも、前世の女の美しい外面のおかげですぐに採用されたが、女のあまりの仕事の出来なさには、いつでも他従業員からの反感を買った。特に同性の女達からは相当に疎まれた。
顔のいい男が女をちやほやとしだすと、なおいっそう恨まれた。
女は、そういった男達に助けられていたにも関わらず、男達を心底迷惑に思っていた。女が盲目的に慕うのは、幼馴染だけだったから。
幼馴染が在学中は、一人で暮らしていたのだ。うまく生活が回っているとはいいがたかったが、それでもちゃんと、生きて暮らしていた。幼馴染が学校の休日となると、そのときにあれこれと頼って指図を仰ぎながら、どうにかこうにか暮らしていた。
スマホを買うときの契約書の書き方がわからなかった。
ついてきて、とお願いすると、幼馴染は優しい笑顔で頭を撫でてくれた。
「おまえ、スマホも買ったことなかったんだな」
家計簿をつけるように言われたが、水道光熱費の見方がわからなかった。
これってどういう意味? と聞くと、幼馴染はびっくりしたような顔をした。
「まじで? こんなこともわからないの? 一人で暮らしてたよな?」
ガスコンロの油汚れを掃除しようとして、食器用洗剤を使った。
たくさん泡立ちごしごしとこすりつけ、油が浮いたがその油汚れをどう処理すればいいのかわからなかった。
流せばいいか、と蛇口にホースをつけて洗い流すと、幼馴染が帰宅した頃には台所は大惨事だった。
幼馴染は疲れたようにため息をついた。
「今度から、コンロは俺が掃除するから」
預金通帳の残高が少ないことに気が付かず、幼馴染が欲しがってた時計を買った。
ごめんなさい、と謝ると、幼馴染は両手で顔を覆って項垂れた。
「…おまえ、次の給料日まで、どうやって生活するつもりでいたわけ」
いい儲け話がある、おねえちゃんは綺麗だから、すぐに稼げるよ、と怪しい風貌の男に手を引かれた。
さすがに眉を顰めたけれど、生活費が足りなかった。
だから男についていこうとした。
見回りの警官が、歓楽街に連れ去られようとする女といかにも怪しい風貌の男の組み合わせを不審に思い、声をかけてくれた。
男が脱兎のごとく逃げ出し、前科のある男だと知れた。
保護者として幼馴染が派出所まで迎えに来た。
「この、アバズレが」
女が悪い。それは女もわかっていた。
でもだんだん息苦しくなっていった。それはきっと幼馴染も同じだった。
女は次第に幼馴染の顔色を伺うようになった。
幼馴染は次第に女を束縛するようになった。
「おまえは馬鹿だから、俺が管理しないと」
「俺がいなかったら、おまえは今頃野垂れ死んでたな」
「おまえみたいな馬鹿なやつ、俺じゃなきゃ相手にしないよ」
「おまえの存在価値って何? 何か世の中に貢献してることってある?」
そして子供が出来た。
しかし幼馴染は、妊娠を喜ばなかった。
「おまえが子どもと変わりないのに、どうやって子どもを育てるんだ? 日中俺は仕事してるんだし、おまえも俺も、実家なんて頼れないだろ」
それでも頑張って育てるから。二人の子だから、生まれてきたらきっと頑張れる。絶対に可愛い、と訴えた。
「だっておまえ、それ本当に俺の子か? おまえ、昔からよく、色んな男とつるんでたもんな」
翌日、台所に立っていると、股から血が流れた。
幼馴染とは別れた。
それ以来子どもが大嫌いになった。
数年ぶりに実家に久しぶりに帰ると、両親から、まだ結婚していなかったのか、行き遅れ、老後を甥姪に見てもらおうなどと思うななどと罵倒された。
兄夫婦はそんな前世の女を庇って、我が家においで、と招いてくれた。その言葉に甘えて兄家族の家に居候したものの、身の置き場がなかった。
兄の嫁が好んでいたらしく、家にはたくさんのゲームがあった。しかし兄夫婦のあいだには三歳になった姪と生まれたばかりの甥がいて、兄の嫁はフルタイムで働きながら家事と育児をこなしていたため、ゲームにまで時間をとることが難しかった。
忙しそうに家中を歩き回る兄の嫁をしり目に、女は昼夜を忘れて乙女ゲームに熱中した。
赤ん坊に幼児など、目にも入れたくなかったから、話しかけられようが泣きつかれようが、存在を無視し手を払った。
甥姪を可愛がるどころか鬱陶しいとばかりに拒絶する女に、兄夫婦は次第に嫌疑的になっていった。
虐待を疑われているのかと、女はますます乙女ゲーム片手に与えられた自室で引きこもった。
そのうちの一つに、ネモフィラが悪役令嬢として出てくる乙女ゲームがあった。
ぐいぐいとヒロインをひっぱってくれる、頼りがいがあって見目麗しい、そして惜しみなく愛の言葉を囁いて、デロデロに甘やかしてくれるメインヒーローの貴公子ハロルド。
ハロルドのスチルはいくら見ても見たりない。バッドエンドでだってハロルドはヒロインに優しい。どこまでも甘やかしてくれる存在。
ハロルドに熱狂し、それから女は少しでもハロルドの出てくる何か、とスピンオフの小説にまで手を伸ばした。
ネットでぽちりとすれば、すぐに届いた。支払いは兄に任せた。
スピンオフの小説は、ヒロインの両親の馴れ初めで、思っていたような話とは違っていた。
王位を巡る貴族達の権力争いだの、古の契約がどうたらこうたら、魔法と魔術に戦争と、何やらどろどろとしていて辟易とした。児童向けファンタジーもまともに読んだことがないのに、ライトノベル特有の設定やら文体やらに目が滑った。
結局ハロルドは最後の最後で少しだけ登場するだけで、物語にはほとんど関わってこず、苛立ちとともにフリマアプリですぐに売り払った。
ハロルドのスチルに癒されよう、と乙女ゲームを手に取るも、たまにはメインヒーロー以外も攻略してみるか、と攻略サイトを見ながら、なんとはなしに王子様を選んだ。
王子様なのに珍しくメインヒーローではない。ヒロインよりだいぶ年上だからだろうか。
しかし前世の女は、王子様ユーフラテスを攻略しだして、途端に後悔した。
大嫌いなタイプだったのだ。
思わせぶりなくせ、ちっとも愛の言葉を囁かず、紳士的な態度を崩さず穏やかな口調なくせして、ヒロインの言葉を頭から信じようとはせず。根拠を問いただそうとする理屈っぽさで、悪役令嬢をかばうような姿勢すら見せる王子様。
王子様なら、ヒロインを盲目的に溺愛して守るべきなのに。
年上枠だからか、いつだって同じような態度で、ヒロインに対して頬を染めるスチルもない。好感度がカンストしていてもだ。
その余裕ぶった顔つきが気にくわない。
結局最後は婚約者の悪役令嬢を処刑したが、そのときも王子様の表情は何も変わらず、こいつはサイコパスなのかと思った。
それまでぎゃあぎゃあと何かとうるさかった悪役令嬢は、その終焉についてほとんど描写されず、『ネモフィラ嬢は断頭台の露と消えた』の一文で終わり、なぜかその一文に合わせた画面については、王子様の微笑だった。
バッドエンドかと一瞬錯覚するような場面の切り替わりで、女にはわけがわからず、考察サイトを見てみたが、結局よくわからなかった。ハッピーエンドであったことは間違いないらしかった。
しかしそのエンドを見て、ますます女は王子様が嫌いになった。
ヒロインのことだって、どうせ愛してなんていないんだ。
好感度がカンストだなんていっても、王子様にとって、ヒロインの存在が都合よかっただけ。王子様の好感度なんて、都合のよさ、使い勝手のよさの同義に違いない。
だってヒロインは――……。