29 理由を問う
その翌週、ユーフラテスはキャンベル辺境伯のタウンハウスにやってきた。ヒューバートから、辺境伯夫人が親しい夫人のサロンへ出向くついで、またもや青薔薇院へ慰問に向かうと聞いたからだ。
ユーフラテスは急ぎ先触れを出し、ネモフィラは歓迎した。辺境伯夫人もまた歓迎した。
貴族令嬢として孤児院慰問にネモフィラを同行させることも重要ではあるが、これまでユーフラテスが婚約者として辺境伯王都屋敷に足を運ぶなど、先の見舞い以前にはなかったことだ。
不仲だと噂され、娘が軽んじられているという風評を耳にしたことのある辺境伯夫人。その浮かれ具合には、ネモフィラも辟易とするくらいだった。
――お忙しいと仰せだったのに、実は暇なのかしら?
辺境伯屋敷で次の茶会を断られたときのユーフラテスの言葉を思い出すも、日を置かずして再び会えることを楽しみにしている自分に気がついた。
王太子の執務室で受けた、騎士の誓い。
乙女ゲームのユーフラテスルートで、あんなにもロマンテイックな場面があっただろうか。
乙女ゲームのユーフラテスは紳士で穏やかだった。けれど、どのエンドでも、彼が直接的な愛の言葉を口にすることはなかったし、誓いを立てたこともなかったはず。すべてを思い出せたわけではないけれど、その思わせぶりなやり方を、前世の女は嫌っていたのだから。
前世の女が乙女ゲームのユーフラテスを嫌っていたことは間違いない。
夜に見る夢。ときおり過剰に色鮮やかな風景とドロドロと暗く沈んでいくような憎悪と諦念と絶望とがネモフィラを追いかけてくる。追憶したくなどないのに。
辺境伯屋敷での茶会当日、母辺境伯夫人はユーフラテスに挨拶を済ますと、約束のサロンへと馬車で向かった。
天気がよいのでネモフィラはユーフラテスを中庭へと誘う。席につき、メイドがお茶を運んでくると、ユーフラテスは一口含み、それから持参した王宮菓子職人の焼き菓子をすすめた。
フォークでつぷりと刺す。粉雪のようなきめ細やかな砂糖がまぶされ、雪玉のような素朴な菓子が、ほろほろと崩れる。
慌ててフォークで搔き集めていると、ユーフラテスが白い手袋を抜き取り、ネモフィラの皿へと手を伸ばしてきた。
「行儀は悪いが、手づかみで食べるといい。その方が崩れない」
ユーフラテスは崩れた菓子をつまみ上げ、ネモフィラの口元へと運ぶ。
「で、殿下、これは…」
「先日は喜んで食べただろう?」
にやりと底意地悪く笑いかけてくるが、ユーフラテスはわかっていてやっているのだ。見舞いの日にユーフラテスの手から菓子を与えられ、何も感じなかったのは、甘いものに餓えていたのと、呆気にとられていたのと、給餌にしか過ぎないと思っていたからなのに。
けれど頬を染めて戸惑えども、上半身を乗り出してまで唇に押し当てられれば、口を開けずにはいられない。
菓子が口の中に入ると、ユーフラテスは名残惜しむかのようにゆっくりと離れ、指先についた砂糖をぺろりと舐めた。
――またですわ! これはもう、絶対にわざとやってますわね!
もぐもぐごっくんと飲み込むと、ネモフィラは恨めしそうにユーフラテスを見上げた。
「殿下はわたくしの礼儀作法が酷いとお叱りになられていましたのに」
「またそうしてほしいのなら、いくらでも叱りつけるが」
「今の殿下の振る舞いはいかがなのです!」
「王宮ではしないぞ。辺境伯屋敷でならば、息もつけるというものだ」
眉尻を下げて口角を上げるユーフラテスの表情が、どこか疲れているように見えて、ネモフィラはハッとした。
子どもらしく、ふっくらとしているはずの頬は、そういえば少しこけたような気がするし、もともと白い肌は全体的に色がないし、目の下はうっすらと青い。
忙しいというのは、やはり嘘ではないのだろう。
「お疲れなのですか?」
労りの言葉が思い浮かばない。見てわかるようなことを、間抜けにもそのまま問いかけるしかできない。
そんなところがネモフィラの馬鹿で愚かだと言われるところ。
「なかなかに面倒な相手がいてな。…いや、それはいい」
続けようとした言葉が止まり、ネモフィラは首をかしげる。
「それより、心配してくれたのか?」
琥珀色の瞳に熱がこもり、その瞳でもって覗き込まれてしまえば、ネモフィラはうっと口ごもった。
「はい…」
「そうか」
嬉しそうに笑うユーフラテスは、無邪気な少年のように朗らかで、ネモフィラはぱちぱちと目を瞬かせた。
「殿下、本当にお疲れなのですね」
「なぜだ?」
「だって、いつもの殿下とは違いますもの。まるで別人のようですわ」
「………どういうところがだ」
ユーフラテスの頬がひきつり、眉間に皺が寄ったところで、ネモフィラは嬉しそうに手をたたいた。
「あら! それでこそ、いつもの殿下ですわ!」
これは怒ってもいいだろうか、とユーフラテスは思ったが、「この方がいいのか」と問いかけるに留めた。対するネモフィラはきょとんと目を丸くし、「殿下のお好きなようになさればいいと思いますけれど」などとつれないことを言う。
まだ意識はされていないのだな、と寂しく思うが、こうして平穏に会話が続くことに今は満足しようと思いなおした。
以前のように無関心に流されるでもなく拒否されるでもなく。目が合って言葉が返ってくるということを、ユーフラテスはずっと切望していたのだから。関心を持ってほしくて、ことさら尊大に傲慢に振る舞っていた。
ユーフラテスはカップを手に取り、茶で舌を湿らせる。
今日、なんとか都合をつけてここ辺境伯屋敷に足を運んだのは、ネモフィラが慰問を避けることができるように、ということもあったが、王宮では口にするのが危うい話題について、いくつか知りたいことがあったから。
「先日おまえは、子どもが嫌いだと言ったな? しかしネモフィラ、おまえもまだ子どもではないか」
「はい。そうですわね」
あっさりと頷くネモフィラに釈然としないが、しかし本人が認める通り、ネモフィラはまだ九つのこども。それも同年齢の他貴族令嬢より礼儀作法も学問についても、おおよそ拙い。
「基準はなんだ?」
「わかりません。殿下も子どもだと思いますけど、殿下は攻略対象ですし」
「コウリャクタイショウ」
「はい」
不機嫌そうに眉間に皺を寄せるユーフラテスに、ネモフィラは慌てて言葉を付け加える。
「殿下は偉そう…じゃなかった、尊大…んんっ。…ご年齢より落ち着いてらっしゃるので、子どもという感じがしませんの」
「ところどころ引っかかるが、まぁいい」
溜息をつかれながらも、許しを得たことでネモフィラはホッとする。
「なぜそんなことを?」
ネモフィラは心に浮かんだ言葉を、一度頭で処理することもなく、そのままユーフラテスに投げかける。以前ならば、絶対にしなかったこと。心に浮かぶ言葉もなかったのだから。
ユーフラテスが愉快そうに片方の眉をあげた。
「婚約者のことを知りたいと思うのはおかしいか?」
「いえ。おかしくありませんわ」
「そうだろう。なにせ、おまえが嫌いだという子どもに、俺も当てはまるのだからな。不安にならぬ方がどうかしている」
そこまで言われれば、さすがのネモフィラも顔を赤く染め上げた。
「…あの。殿下はなぜ、そんなに…」
なぜ、そんなに好意を寄せてくれるのか。
そのまま言葉にするのは、さすがのネモフィラもはばかられた。俯いて、シュネーバルをフォークでつつく。
空気の揺れる気配がして、ネモフィラは目をつむった。
ユーフラテスはネモフィラのように馬鹿ではないし、察しが悪いわけではないのだから、きっと何を言いかけてやめたのか、正確に把握しているだろう。
なんて馬鹿なことを口にしたのだろう。ネモフィラは後悔した。これだから誰からも馬鹿だと言われるのだ。
「理由か。わからないと言えば、ネモフィラは傷つくか? 悲しいか?」
静かな声色に思わず顔をあげると、穏やかな微笑を浮かべたユーフラテスと目が合う。
「いいえ。でも…」
「でも?」
すかさず追及してくるユーフラテスに、己の迂闊さを呪った。どうしてまたもや考えもなく「でも」なんて言ってしまったのだ。
傷つかない。悲しくはない。
でも引っかかる。モヤモヤとする。だってネモフィラは馬鹿なのに。だって貴族令嬢とは思えないくらい無器量だ。だってネモフィラに取り柄なんてないし、美徳もない。あるのは人より劣るという、欠点の数。
この気持ちは。
「………不安です」
「不安か。そうだな」
ユーフラテスは優しい顔で頷くと、顎に手を当て何かを考えている様子だった。
そよそよと気持ちのよい風が頬をくすぐり、わずかに薔薇の青い香りがした。邸宅側とは逆のスペースに白薔薇を植えているのだ。
先日、ユーフラテスに白薔薇の花束を贈られてから、花についてもう少し学ぶようヒューバートに課せられ、まずは手始めに白薔薇を庭師に植えてもらった。
「不安にさせてすまない。だが、これだからという理由は、俺にもわからない」
申し訳なさそうに眉尻をさげるユーフラテスに、ネモフィラは首を振った。
「しかし誓約を違えることは決してない」
きっぱりと言い切るユーフラテスに、ネモフィラはどんな顔をすべきなのか迷った。そして考えた末に、「光栄ですわ」と笑うことにした。
好意を寄せる理由は不明。理由になりうる美点がないのかもしれない。
誓約は違えない。それはいつか義務となり枷となるのかもしれない。
ネモフィラの心を、前世の女の情がひたひたと忍んで覆い尽くそうとするのを、首を振るうことで追い払った。
「俺の中で明確になれば、そのときははっきりと伝えると約束する」
「はい。ありがとうございます」
表情が曇ってしまったことに気がついたのだろう。ユーフラテスは急き込むように言葉を重ねた。
ネモフィラはぽっかりと寒々しい思いにとらわれたままだが、そんなことを思うなど贅沢というものだ。だってネモフィラは受け取るばかりで、何も返していない。
ユーフラテスは瞳を揺らし、口をぐっと引き結ぶと、ネモフィラの手を取った。
「ネモフィラには嘘はつかない」
ぎゅっと握られた指先がじんわりと温かい。
「はい。わたくしも、嘘は申しません」
ほっとしたようにユーフラテスは「そうか」と笑い、手を離した。指先に残る熱が心地いい。
「それで」
ユーフラテスがカップを傾け、茶を含んだので、ネモフィラも心を切り替えた。
「なぜ、ネモフィラは子どもが嫌いなんだ?」
ユーフラテスの真っすぐに向けられた琥珀色の光に、ネモフィラは固まってしまった。
「あれから思い返してみたが、おまえはこれまでそんな素振りを見せなかった。子どもだろうが大人だろうが、皆等しく無関心だった。子どもが嫌いになったのは、理由があるのではないのか?」
ユーフラテスがもっとバカならよかったのに、とネモフィラは思った。
ネモフィラと同じくらいバカだったら、きっと気にならなかったに決まっているのに。