27 自由恋愛と貴族と乙女ゲーム
「いや、ちょっと…。うん…もう一度始めから聞いてもいいかな…?」
ヒューバートは深く息を吸うと、額に手を当てた。
それまでヒューバートがネモフィラに問いただしていたことといえば、なぜネモフィラが約百五十年前の王家とキャンベル辺境伯家との間で起こった秘事を知っているのか、またどこまで知っているのか、ということに重きを置いていた。
しかしまあ、ネモフィラの説明はどうしたって要領をえない。スピンオフだとか親世代だとか、基本は乙女ゲームだとか、ヒューバートは正直なところ、匙を投げたくなったこともしばしばだ。
「始めからですか? ええと、乙女ゲームという、絵物語がございまして。それでその絵物語で主人公の少女は高位貴族の子息方や第二王子殿下と恋に落ちたり落ちなかったりしまして」
「うん。ちょっと意味がわからないな」
ヒューバートは笑顔でネモフィラを遮った。
恋に落ちたり落ちなかったり? なんだそれは。しかも複数の異性と。ふしだらすぎる。
「まずその主人公だとかいう少女はどこの家のご令嬢かな?」
万が一、ネモフィラの未来視が正しいのだと仮定して、そんな貞操観念の低いご令嬢本人とまたそのような教育を施す家とは疎遠でありたい。未来視がまったくもって外れているのなら、それはそれでいい。
「平民ですわね。孤児院に身を寄せているはずです」
ヒューバートは笑顔で固まった。
孤児院?
まさかの最下層ではないか。それが王子や貴族子息と恋愛ごっこ? 奴隷ごっこの間違いではないだろうか。どう考えてもまともな関係を結べそうにない。身分があまりに違いすぎる。生きて見ている世界が違う。
無知で無学であろう孤児院の少女を都合よく弄ぶなど、貴族として最低だ。一縷の望みを与え甘言を弄していれば更に下劣であり、逆に否を言わせず強要しているのであれば、それは貴族としての品位に悖る。
商売女を金銭で買ったり囲うなら褒められた行為とは言えずとも、ままよくあることで許容範囲ではあるが、孤児院の少女とあっては話が違う。
まさか第二王子ユーフラテスがそこまで品性下劣だと、ネモフィラはそう考えているのだろうか。それはさすがにユーフラテスが気の毒だ。
「………そのお嬢さんは、なにか事情を抱えているのかな…?」
貴族や枢機卿などといった身分のある者の落胤のみを育成する、訳ありの子供のみを集めた青薔薇院。もしやそこの少女か。
孤児院、と言われて貴族の関わりのある場所など、そうそう他にない。
それと同時に、相手が高貴な血を引く庶子であるなら、ひとときの恋という名目における導きであったり施しとして、貴族子息の矜持もまだなんとか保たれる。
「………? そういえば何か設定があったような…? 殿下のルート…? ハロルドのルート…?」
ネモフィラは眉間に恐ろしいほど深い皺を刻んでうんうん唸り始めた。令嬢にあるまじき形相に、ヒューバートはネモフィラの眉間を突ついた。
「ネモフィラ。すごい顔になってる。シワになってしまうから、やめなさい」
「はい。ごめんなさい」
はっとしてネモフィラは目を瞬く。
「そのお嬢さんには何かしらきっと、事情があるようだね?」
「………はい。ですが思い出せなくて…」
「そう。それはいい。無理に思い出す必要はない。だけどね…」
貴族の恋愛といえば、通常それは婚姻後のものに限られる。幼い時分の淡い慕情を恋として扱うのなら、それはそれでもいいが、決して男女二人きりになることなどないし、その上ネモフィラは高位貴族だと言った。高位貴族の子息が自由行動を許されることなどない。必ず侍従がそばにあるはずだ。
そんな中で『恋に落ちる』というのなら、それは落ちるべくして仕組まれたか、もしくは身分や環境が許された相手だということだ。
「その事情がどのようなものであっても、そのお嬢さんは、きっと誰と恋に落ちても、平穏ではいられないだろうね」
「それはそうですわ。すれ違ったり身分の差で悩んだり。そういった切なさにドキドキするのですもの!」
教養としてではない流行りの恋愛小説について、ヒューバートは造詣がない。そのため、ネモフィラの言葉にどうも頷けない。
恋愛小説とは、つまるところ、不倫文化のことのはずなのだから。
それなのに、おそらく未成年だと思われる少女相手に恋をする。平民の少年ではなく、貴族子息が。
考えられない。
相手が既婚女性であるご夫人か未亡人ならば、ヒューバートにもわかる。少女相手、というのはなかなか無理がある。
身分違いの幼い恋。
ヒューバートには想像もつかない。第一身分が違う時点で、そういった対象にはなりえない。
酷なことを言うようだが、おおよその平民は貴族にとって価値としては家畜と同じなのだ。それを戯れの相手にするなど、下劣だとしか言いようがない。
平民は平民の幸せがあり、むやみに手を出して処理するなど、品位以前の問題だ。
「事情か…。実は身分を隠した高貴なる方のお忍び…いや。苦しいな」
ヒューバートは首を振る。
忍ぶにしても孤児院はない。せいぜい商家や医者、成功した芸術家といった良家のお嬢さんだ。
ネモフィラが小首を傾げる。
「それほどおかしいことですの? だって我がキャンベル辺境伯家は代々、恋愛結婚をしてきたのでしょう?」
「ネモフィラが何をもって恋愛として捉えているのかわからないけど…。私としては、その『恋愛結婚』という呼称がネモフィラの誤解を招いている気がするなぁ」
「どういう意味でしょう?」
ヒューバートは顎に手をやり、視線を落とした。
「うーん…。私自身、恋愛というものを経験したことがないから、正しい解釈だと断定できかねるんだけど」
たとえば仲の良い領地での行き交いであったり茶会や夜会などといった社交の場であるとか。王立学園や大学府のように、身分の保証された子息令嬢の学びの場だとか。
前者においては見合いの性質の強い催しもあるが、一方で当人同士の意向はあまり反映されない。何しろ未成年における茶会など、侍従や侍女どころか母親がついてくる。
成人して夜会に出席できるとなれば、それこそ恋に浮かれるどころか、高度な駆け引きが要求され、精神が摩耗する。そんな中でお気楽に恋だなんだと浮かれていられるのは、よっぽどの間抜けだけだ。
後者のような学びの園であれば、入学が許可された時点で何かしらの分野において優秀であり、通常の貴族子息令嬢の会話に留まらず、学術であったりその他専門についての対話も可能である。
男女の仲へ繋がるかは別として、片方に性差における忌避意識がなければ、話は弾むかもしれない。
また入学にあたっては身分も保証されるため、爵位の上下はあれども、貴族社会のルールについても皆弁えている。未成年とはいえ家名を背負っているため、野望はあれども表立って逸脱することはない。
優秀な庶民においては特待生としての入学も稀にあるが、優秀であるということは、それまでに領地において目をかけられ教育を施されていたということであり、貴族に対する身の処し方も知っている。
侍女や侍従を側に置くものもいるが、それにしても学園内での監視は緩く、うるさい保護者もいない。
ちょっとばかり羽目を外して青春を謳歌するには、最適の場だろう。
ただし。
共学の王立学園に入学する女子は非常に少ない。大学府にいたっては数年に一人いるかいないかである。
高位貴族の大半が幼い頃に婚約を交わす。そして令嬢は淑女としての教育を家庭教師によって施される。その後、花嫁修行として、人脈づくりに社交にと女学校に進む者もあるが、これまた卒業まで在学する者は稀だ。
共学の学舎に女子の少ないことは、婚約を済ませた者が婚約者以外の異性と触れ合うことを避ける意味がある。
それと同時に、女子があまり高度な学問をおさめることは、婚姻にあたって不利になるからた。これは女学校を卒業する者が少ない理由に同じ。
学びの場に集う女子というものは、似通った性質のごく少数派であり、一つの条件として一括りにできる。それを好むか好まないかは各個人によるし、是とするか否とするかは各家による。
つまりはそういうことだ。
「平民の自由恋愛と貴族の恋愛は似て非なるものなんだと思う。平民と交友が深いわけではないから、彼等にも彼等なりの条件はあるだろう。きっと私達が思うほど自由でもないのだろう。けれど貴族はそれ以上に家名と矜持、政治情勢、パワーバランス。様々な条件をクリアした上で婚姻が許される。王家より許可を賜らねばならない貴族と、教会に宣誓することで婚姻を許される平民が同じであるはずがない」
「では貴族は恋愛結婚はありえないと?」
不満そうに唇と尖らせるネモフィラにヒューバートは苦笑する。
ネモフィラが恋愛に夢見る乙女心を持っていただなんて、ヒューバートは知らなかった。何もかも無関心で無気力なばかりだと思っていたのに。
「そうは言っていない。ただ、制限があることは否定しない。私達貴族には義務と責任がある。私達は民を統治するためにあり、民に生かされているからね。だからこそ、それぞれの立場を知る者同士、伴侶として誠実に向き合い分かち合い、支え合うことができるのではないかな?」
ネモフィラはうんざりした。
またこれだ。貴族の義務と責任。これは何度説教されようと受け入れられない価値観だ。なぜ自分の人生以外の顔も合わせたことのない他人に対して、義務と責任を負わなければいけないのか。そんなもの、一人ひとりが勝手に自分の人生に責任を持てばいいだけじゃないか。
むしろ、自分自身の人生に義務と責任を負うことだって、なかなか骨が折れるし、ところどころ放棄して誰かになすりつけたいくらいなのに。
前世の女だって、とてもじゃないけれど、自分の生き方に責任を負っているとは言いがたかった。もっと気楽に生きたっていいじゃないか、と思う。怠惰な性質はどうしたって変わらない。
ヒューバートはネモフィラの不満顔にもちろん気がついている。この手の話になると、途端に拒否反応を示すのだ。
キャンベル辺境伯領主の娘として、いずれは必ず納得してほしいとは思うが、前世という未来視の観念と独特の価値観を持つネモフィラだ。強引に頷かせるのは下策だと、今ならヒューバートもわかる。
また心を閉ざされ、頷くだけの人形になられては困る。
「恋愛というものは、すべてにおいて自由でないと成り立たないのかな? わたしはそうは思わない。そもそも『すべてが自由』だなんて、人間である限り、成り立たないものだ」
「………論点のすり替えですわ」
ベットの上で布団とぎゅっと掴み、眉間に皺を寄せるネモフィラにヒューバートは目を瞬いた。
「おや。気がついたかい?」
「難しいお話になされて、わたくしを煙に巻こうとされているのでしょう。わたくしがバカだからと言って、ごまかそうとされるなんて、誠実なお兄様らしくありません」
ヒューバートは破顔して布団を握りしめるネモフィラの手を取る。くしゃくしゃになった布団がふたたびつるりと滑らかに均されていく。
ネモフィラは不審そうにヒューバートの笑みを覗き込んだ。
「お兄様?」
「これほどまで聡いなんて、いったいどうして私はこれまで気がつかなかったのだろう! ネモフィラ、大丈夫だよ。これからは私がネモフィラを守るからね」
「はあ………?」
ますます話を誤魔化された、と思ったが、しかしヒューバートの心から喜んでいるような嬉しそうな様子に、ネモフィラはほだされた。
ネモフィラの知る中で誰より賢い兄が、愚鈍なネモフィラを評して聡いと言ってくれた。ネモフィラとの対話を喜んでくれている。守ると言ってくれた。
体よくあしらわれただけなのだろうけれど、嬉しい。
「うん。それで、ネモフィラが処刑されるというのは、いったいどういうことなんだい?」
機嫌よく笑っていたヒューバートの目が細められ、剣呑に光った。
まぁどちらにせよ、ネモフィラにとってユーフラテスは何かあればネモフィラを処刑しかねない人物だと捉えているということだ。
ネモフィラがそのような極端な考えに至るほど、これまでユーフラテスはネモフィラに恐怖や嫌悪を与えてきたということ。
ヒューバートは「長居して悪かったね。よく休むように」と言葉を残し、ネモフィラの私室を辞すした。ネモフィラの「もうずっとベッドの上です。いい加減、お庭を散歩くらいしてもいいでしょう」という不貞腐れた声には苦笑で返し、扉を閉める。
「ネモフィラがふらふらと出歩かないよう、見ていておくれ」
「かしこまりました」
ヒューバートが扉の外へ出るよう指示し、それまで廊下で控えていたネモフィラの侍女はヒューバートの言葉を受けて礼をした。
この侍女はネモフィラを軽んじがちな王都屋敷の使用人のうち、正しくネモフィラに礼儀を尽くす、信用おけるの者の一人だ。ヒューバートは頷くと自室へ向かった。しかし歩み途中で、やはり鍛錬場へと踵を返す。
ユーフラテスとネモフィラの婚約は継続することで落ち着いた。それに尽力したのはユーフラテスだとアルフレッドから伝えられた。ユーフラテスから辺境伯屋敷へ見舞い申し入れの先触れがあった。歓迎することを伝えた。
来週にはユーフラテスがこの屋敷に足を運ぶ。
これまでのユーフラテスの振る舞いについて、ネモフィラへの傲慢で不遜な態度を思い返す。幾度となく王太子アルフレッドを通じて、改めてほしい意をやんわりと伝えてきた。
ユーフラテス自身がネモフィラをどう捉えているのかについては、さほど懸念はなかった。好意を抱いているだろうことは察していた。しかしユーフラテスの言動によって、浅慮な者達がネモフィラを軽んじていい存在だと認識したことも事実。
何よりネモフィラ自身がユーフラテスを『自身を将来処する人物』だと考えている。
これまで同様、アルフレッドを通して苦言を呈するだけではいけない。
ネモフィラを守り、キャンベル辺境伯領を守る。ヒューバートの長子として、そして次期辺境伯としての義務だ。王太子アルフレッドの臣としての働きとも叶う。
屋敷の隅にある鍛錬上で一人、ヒューバートは黙々と剣をふるった。汗が飛び散り、濡れたシャツが体に張りつく。
ふと空を振り仰ぐと、オレンジと紫と濃紺のグラデーションがヒューバートの深い碧い目を染めていった。
そういった経緯があり、キャンベル辺境伯タウンハウスで催された茶会後、ヒューバートはユーフラテスに思い切り突っかかってやったのである。