26 乙女ゲームの開始前
第二王子ユーフラテス二十四歳。婚約者であるキャンベル辺境伯令嬢のネモフィラは、一つ年下の二十三歳。
とうに成人していた二人は、既に婚儀を迎えていて然るべきだった。だがユーフラテスが王太子の婚約者である他国の王女と婚約をし直す可能性があり、婚約状態の維持として保留されていた。
というのも、王太子である第一王子アルフレッドが数年前の視察中、賊の狂刀に襲われたことに起因する。アルフレッドは辛くも逃げ延びたものの、負傷した利き腕である右腕は、最早使い物にならなかった。
戦時中ではないにしろ、刀も持てぬ王太子は王太子として相応しいのか。
また第一王子の婚約者である他国の王女が身体的障害を抱えることとなった第一王子に嫁ぐことに難色を示した。
第一王子アルフレッドがそのまま王太子を継続するのか、第二王子ユーフラテスに移譲されるのか、ダークホース第三王子エドワードが台頭するのか。各派閥争いもあり、不明瞭だった。
第一王子アルフレッドを襲った兇徒は捕らわれることなくキャンベル辺境伯所有の森で自害した姿で見つかった。
第二王子派の貴族による謀ではないかと囁かれたが、兇徒の遺体発覚の場がキャンベル辺境伯領であったことが謎を呼んだ。
国として、王太子は、というより国王は他国の王女を王妃として迎えることになっている。
そのためユーフラテスが立太子することになれば、ネモフィラはユーフラテスの側妃となるか、もしくは現国王陛下とその側妃との間に生まれた第三王子の正妃となることになる。よって婚儀は見送られ、あまりに長い婚約を維持していた。
◇
「うーん。兇徒の差し金ね…。第二王子派も第三王子派も、どちらもありうるねえ…」
主であるアルフレッドの未来の危機に、ヒューバートはのんびりと答えた。
もうすっかり体調はいいのに、家族から養生を強要されているネモフィラは、自室のベッドで腰掛けている。ヒューバートはそんなネモフィラのベッド脇にスツールを寄せ、そこに腰掛けていた。
「ただ、ネモフィラを第三王子殿下の正妃にって…。それはさすがにないと思うんだけどなあ」
苦笑するヒューバートにネモフィラは首を傾げた。
「あら、どうしてですの?」
「うん。第三王子派は純血主義の上位貴族達が占めているんだよ」
純潔主義ってなんだったかしら。処女信仰ってこと?いえでも、貴族は皆そうよね…。
ネモフィラがむむむ、と眉根を寄せると、ヒューバートがネモフィラの眉間を指でつついた。
「我が家の歴代当主達は皆、恋愛結婚をしてきたのは知っているかな?」
「はい。わたくしが初めてなのでしょう?政略的婚約を結んだのは…」
ヒューバートはわずかに眉を顰め、痛ましげにネモフィラを見た。
「そうだね。ネモフィラの婚約は政略的婚約だ」
ヒューバートはそこで口を噤んだ。
婚約を結んだ当初は、その後二人の意向によっては婚約の解消もありうる、という条件を父辺境伯が加えていた。
父辺境伯は娘を王家に差し出しながらも、それはネモフィラに幸せな結婚をしてほしいという親心からで、もし仮に第二王子ユーフラテスとネモフィラの仲がうまくいかないのであれば、無理強いしたくなかった。中央政治に関わらず物事を深く考えない父辺境伯にとって、この政略的婚約を受け入れた理由とは、あまりに不出来な娘ネモフィラが変な男に引っかかり不幸になることを恐れただけなのだ。
この王家に対して考えられないくらい不遜で強気な条件を、王家は気色ばんだが結局その条件を呑んだ。
だが今、あの条件は既に無効だ。
ネモフィラの倒れた王城の茶会後。王家からの沙汰が下った際、ネモフィラの身柄は王家に永久に捕らえられることが明確化された。
寂しそうな微笑を口元に湛え、溜息混じりにヒューバートが言葉を連ねる。
「だからこそ、ネモフィラが第三王子殿下の妃になるはずがないんだ」
ネモフィラは首を傾げる。
「我がキャンベル辺境伯家に流れる血は、様々な血が混じっている。純血主義者には決して受け入れられるものじゃない。純血主義者の旗印である第三王子殿下に、『混じり者』を宛がうことなど、彼等は許さないよ」
まあ、それだけじゃないけどね、とヒューバートは胸中で独り言ちる。
純血主義の貴族達、そして教会の連中にとってキャンベル辺境伯家は魔女の子孫だ。第十一代国王レオンハルトを堕落させた稀代の魔女ナタリー・キャンベル。王家からは青い血を。この国からは魔法を失わせた。
かの愚王レオンハルトが負傷したナタリーを長い眠りにつかせたあと、膨大な魔力でもって彼等のナタリーに関するあらゆる記憶を封印、改竄したため、彼等の子孫や教会は詳細を知ることはなかった。なかったが、しかしネモフィラが例の茶会で真実の一部をぶちまけてしまった。
おそらく彼等は既に過去何が起こったのか、おおよそのところまで掴んでいるに違いない。記憶を封じられたことまで悟ったとすれば、キャンベル辺境伯家への憎悪はいかほどだろう。
ネモフィラは口をへの字に曲げる。
「それではわたくしは、純潔?主義のお家の方とは婚約を結ぶことはできないのですね…」
ヒューバートは目を瞬いた。
「どうしたんだい?第二王子殿下と何かあった?」
何かあったもなにも、これまでのユーフラテスのネモフィラに対する傲慢な振る舞いは知っていた。ヒューバートとて腹に据えかねていたのだが、ネモフィラが全く頓着しないので、時折アルフレッドを通して小言を諫言しつつ静観していたのだ。
それが王族との婚約解消が不可能となった今となって、何やらネモフィラが不穏なことを口にしている。
それにネモフィラが茶会で倒れてから、ネモフィラはユーフラテスと会っていない。ということは、あの倒れた茶会でやはり何かがあったのか。その衝撃でネモフィラは倒れたのか。
ヒューバートは険しく寄りそうになる眉間を意識して弛め、なるべくゆっくりとした口調でネモフィラに問いかける。
ネモフィラは肩を落として、大きく溜息をついた。
「はぁ…。わたくし…処刑されたくないのですわ…」
これにはヒューバートはスツールから飛び上がらん程に驚いた。
「処刑!?処刑ってなんだ!?ネモフィラ、それは一体どういうこと!?」
目の色を変えてベッドに腰掛けるネモフィラの肩を揺さぶる、常にないヒューバートの慌てふためいた様子にネモフィラはキョトン、と目を丸くする。
「え?第二王子殿下がヒロインと恋に落ちると、わたくし処刑されますの。言いませんでしたっけ?」
聞いてない!!!
ヒューバートは大声で叫びたかった。