23 兄ヒューバートの罪と後悔
キャンベル辺境伯タウンハウスへの帰途につき、ヒューバートと共に馬車に揺られながら、ネモフィラは眉を顰めて腕を組み胡坐をかいて唸っていた。およそ令嬢のとる姿勢ではないのだが、ヒューバートは見て見ぬフリをすることに決めた。なんかこう、ユーフラテスがネモフィラの奇妙奇天烈なところを気に入っているようだし。それならまあいいか、とヒューバートは諦観の境地に至ったのである。
「…ネモフィラ、どうかした?」
いや。しかしやはり気になるものは気になる。下唇を突き出し顎に皺を作って目玉をぐるぐる回し、記憶を探っているらしいネモフィラに声をかけた。
こんな不気味な仕草を見て可愛いだなんて見惚れるのは、おそらく世界で第二王子殿下くらいなものだろうな、とヒューバートは思う。妹は可愛いが、可愛いの意味が違う。ヒューバートの美的感覚はごく普通なのだ。
「えっ?」
ヒューバートの問いかけにネモフィラがはっとした様子で目を瞬く。深く沈潜していたようで、ヒューバートの存在も忘れていたようだ。改めて馬車内をキョロキョロと見回している。ここがどこかもわかっていないらしい。
「さっきから『そんなはずは』とは『なるほど』とか独り言を口にしてるけど、何を考えているんだい?」
つい先程まで王太子の執務室でユーフラテスとイチャイチャして顔を真っ赤にさせていたネモフィラが、馬車に乗ってしばらくすると突然「でもやっぱりおかしいですわね…」と唸り始めたのだ。おかしいのは令嬢らしくないネモフィラの振る舞いなのだが、それはもう通常運転なので構わない。
ヒューバートが気になったのは、ユーフラテスとの逢瀬では乙女らしく頬を染めてあれほどうっとりしていたくせに、「やっぱりおかしい」なんて口にしていることだ。満更でもなさそうだったのに、実はやっぱりこの男じゃない、違和感がある、ユーフラテスより『推しキャラ』のハロルドがいい、ということなのだろうか。もしそうならば女というものは恐ろしい。ネモフィラを単純に女というカテゴリーに入れてもいいのかわからないが。
ネモフィラは組んでいた腕の片方を解いて頬に手を当て、小首を傾げた。眉の間をぎゅっと寄せている。
「お兄様には何度も乙女ゲームのお話しをしましたでしょう?」
「ああそうだね」
なるほど。乙女ゲームなる未来視との差異について考えていたというわけか。
ヒューバートはネモフィラの挙動不審な様子に納得する。
「…第二王子殿下について、思うところがあったのかい?」
ネモフィラが目を丸くする。ヒューバートはネモフィラの様子に、どうも違うらしいと首を傾げる。それではネモフィラは何について悩んでいたのだろう。
「殿下のお人柄は確かに乙女ゲームとは異なりますわ。ですがそれは乙女ゲームで描かれる殿下のご年齢のせいかと考えておりますの。乙女ゲーム開始時、殿下の御年は二十四。間もなく十一の御年をお迎えになる殿下とは御年が離れすぎているでしょう?」
「そうだね」
意外とちゃんと考えているらしいネモフィラにヒューバートは内心驚く。これまでほとんど会話を交わしてこなかったが、周囲が言うほどネモフィラは考えなしではないし、落ちこぼれなんかではないとヒューバートは評価を改め始めている。
確かに打てば響くような利発さはないし基本的に無気力で怠惰であり、向上心も矜持も見られない。またネモフィラの振る舞いが令嬢らしくなく品性に欠けるのは確かだが、ネモフィラの言葉によく耳を傾けてみれば、ネモフィラなりの信念があるように思えるのだ。ネモフィラの考え方が貴族令嬢に向いていないだけで、何も考えていないわけではない。
周囲との違いを幼いネモフィラはうまく呑み込めず、またネモフィラの在り様を受け入れる者が家族にすらおらず、否定され続けてきた。多大なストレスを受け続け、貴族令嬢としての生きづらさに次第に無気力になっていったのかもしれない。
ヒューバートはこれまでもネモフィラを否定する言葉は避けてきたが、心の底ではネモフィラの怠惰な在り様に苛立ちを覚えていた。どうにか思うように――キャンベル辺境伯令嬢として、いずれ王族に嫁ぐ令嬢として相応しくあるよう導こうと考えていた。だがそれは間違いだった。ネモフィラを理解することなく否定していたのはヒューバートも同じ。
「…こんな言い方は不敬ですが、まだ殿下は成長途中なのだと思いますの。きっとこれから様々なご経験をなされて、乙女ゲームに出てくるような、穏やかで包容力のある紳士になられるのだと思いますわ」
それはまるで今のユーフラテスが紳士ではない、と言っているも同然だったが、ヒューバートも同意見だ。それにネモフィラは、不敬だが、と断りを入れた。
「そうだね。私もそう思うよ」
ヒューバートが同意を示して頷くと、ネモフィラはぱあっと花が開くように頬を綻ばせて喜んだ。それまで言葉を口にするのにヒューバートの顔色を窺って不安そうな素振りをしていたのは、これまで誰にも認められてこなかった自信の無さの表れだろう。
ただ頷いただけ。たったそれだけのことで、こんなにも喜ぶ。
ユーフラテスのネモフィラへの振る舞いがどれだけネモフィラを傷つけてきたのだろう、と怒りが沸きそうになるが、しかしヒューバート自身もネモフィラを認めてはこなかったのだから同罪だ。燻り始めそうな怒りの火種を鎮火させる。
アルの言う通りだ、とヒューバートは苦々しく思う。王太子アルフレッドは弟王子ユーフラテスにこれまでの所業の罪深さを指摘した。罪はヒューバートも同じ。挽回するしかない。
「では何が気になったんだい?」
ネモフィラは嬉しそうに真向かいに座るヒューバートへと上半身を乗り出した。
「乙女ゲームでわたくしが処刑される理由ですわ」
衝撃的な答えにヒューバートは言葉を失う。
確かにネモフィラは未来視において自らの破滅の可能性を予言していた。しかしヒューバートはまさか今、ネモフィラがそんなことを考えているとは思ってもいなかった。心構えをしていなかったところに、花のような笑顔を浮かべてネモフィラが軽やかに口にした言葉は、ヒューバートの心を鋭く刺した。
強張った顔をなんとか緩め、笑顔を浮かべてネモフィラに問う。
「…何か思い出したことがあった?」
ネモフィラは未来視について思い出せないことが多々あると言っていた。
未来視なのに思い出せないとは、ネモフィラ曰く未来視がネモフィラの前世の記憶だからだそうだ。
ネモフィラの前世については、ヒューバートは聞いていない。ネモフィラが話したがらないからだ。ネモフィラが嫌がることを無理に聞き出そうとは思わなかった。前世と言いながらもネモフィラはそれがネモフィラ自身と同じではないと断言していたし、ネモフィラやヒューバートの生きるこの世界と直接関わることでもないようだった。
「いえ…。新たに思い出したことはないのですが、今日王太子殿下からお話しを伺って、わたくし自身の置かれた立場を知って…」
ネモフィラは記憶を引っ張り出そうとしているのか、両手をこめかみに押し当てた。
「その、わたくしが第二王子殿下の婚約者であることは殿下の後ろ盾として必要なこと、なのでしょう?」
王太子アルフレッドがキャンベル辺境伯家を特別だと言ったこと。それからアルフレッドが遮った第二王子ユーフラテスの言葉――婚約者となった経緯と背景――をヒューバートが説明するまでもなくネモフィラは自身の思考だけで結びつけ、理解していたようだ。
やはりネモフィラは落ちこぼれではない。これまで誰も認めてこなかったから。ネモフィラ自身が思考することを諦め放棄していただけなのだ。
「そうだよ。きちんと考えて答えを導き出したんだね」
ヒューバートがネモフィラの頭を撫でると、ネモフィラは頬を染めた。
唇を尖らせて「もうっ!わたくしだって、たまには考えることはありますわ!」と不満を口にするが、声は弾み、その表情は明るい。
「そうだね。ネモフィラがあんまりにも可愛いから揶揄いたくなってしまったんだ。ごめんね」
眉尻を下げ微笑を浮かべながらネモフィラの目を覗き込むと、ネモフィラは目を眇めた。ネモフィラの声は白けきっている。
「お兄様、そのお顔は胡散臭いですわ」
ネモフィラが可愛くてたまらないというのはヒューバートの本心だったのに、またもや胡散臭いと言われてしまった。ちょっとだけ傷つきながらもヒューバートは己の主を思い浮かべて自分を慰める。
弟王子ユーフラテスを可愛がる王太子アルフレッド。アルフレッドは真実弟を可愛く思っているのだが、確かに胡散臭い。ヒューバートもそれと似たようなものなのだろう。主と似てしまうのは仕方がない。
ヒューバートは苦笑しながらもう一度ネモフィラの頭を撫でた。
「酷いな。ネモフィラが可愛いというのは本心だよ。前にも言ったけれど…」
ヒューバートは深い碧の瞳をネモフィラの淡い水色の瞳へと向ける。ネモフィラは気まずそうに身じろぎをした。
「…ごめんなさい。あの、わたくし、恥ずかしくて…」
ネモフィラの頬は薄っすらと赤く染まっている。
ああ、妹はこんなにも可愛かった。
ヒューバートはにっこりと微笑む。
「いやいいんだ。ネモフィラが以前、私にそれまでの振る舞いを謝罪してくれたように、私もまたネモフィラに対して誠実ではなかった」
ネモフィラはキョトン、と首を傾げる。
「お兄様がですか?お兄様はこれまでもずっと、不出来なわたくしにお優しかったではありませんか」
ヒューバートは黙って微笑んだ。
不出来な、と言わせてしまうことが悲しかった。だがそう言わせてしまうような態度をヒューバートもずっとネモフィラに取り続けていた。
ヒューバートはこれまでネモフィラを責めたことはないが、褒めたこともなかった。