22 王子の誓い 騎士ver.
「キャンベル辺境伯家の血を王家に取り込むことは長年の悲願だった。それを聞いたことは?」
ユーフラテスの問いかけに、ネモフィラは困惑しながら首を振った。これまで歴史の授業も何もかも椅子に座したまま、ただ時間が過ぎるのを待っていただけだ。身を入れて聞いた講釈など何一つない。ネモフィラの頭にあるのは、前世でプレイした乙女ゲームのふざけた概要と、スピンオフのヒロインの親世代の小説だけ。それも政治的思惑に関しては流し読みしていたので、正直ほとんど覚えていない。ネモフィラの前世の女も頭の出来はよくなかったし、前世の女とネモフィラはイコールではなく、反発する感情については記憶も揺らぐ。
前世の女はユーフラテスのことがおそらく嫌いだった。今思えば、ユーフラテスと初めての顔合わせで、当時赤子であったハロルドと比較していたのは前世の女の記憶なのだろう。常にぼんやりと周囲への関心の薄いネモフィラが、会ったばかりの婚約者に反発心を抱いたのはそのためだ。
「俺の後ろ盾になりうる家の令嬢のうちネモフィラが婚約者として選ばれたのは、キャンベル辺境伯家が国一番の武勇を誇る家であり、政治的な派閥を持たず入らず、一貫して中立の姿勢を崩さず政策に携わらず。その方針が兄上を補佐する第二王子の妃として相応しいからだ。それがまず表向きの理由だった」
眉間に皺を刻み、深刻そうな顔で滔々と語り始めたユーフラテスに、王太子アルフレッドは大袈裟なほど大きなため息をついた。
「いやテス、そうじゃないんだけど。僕の言いたかったこと、わかってないの?」
「私の最大の力であり弱点でもあるという、その理由を説明するためには、婚約者となった経緯を彼女が理解する必要があります」
「だからさ、そんなことはどうでもいいんだよ。政治的背景だのなんだのってのはさ、僕達が把握していればいいことであって、ネモフィラ嬢が必ずしも理解する必要はない」
睨みつけるように眼光鋭く正面に向き合うユーフラテスに、アルフレッドは呆れ顔でうんざりと吐き捨てた。
「テスがネモフィラ嬢に伝えなくちゃいけないのは、僕達が知らないところで大人が勝手に決めたことじゃなくて、テス自身の気持ちだよ」
ユーフラテスは虚を突かれたように目を丸くした。その様子を見たアルフレッドはますます憂いを深める。
「決められたことの理由なんて、ネモフィラ嬢が知りたいとさえ願えば、いつだって誰からだって聞くことができるさ。そんなもの、テスがいちいち説明することじゃない」
ネモフィラの背後に立つヒューバートがアルフレッドの言葉に頷く。
「斯様な経緯でしたら、私から妹にいつでも言い聞かせましょう。殿下を煩わせるなど恐れ多いことです」
にっこり穏やかに笑いながら、ネモフィラが理解できるまで懇々と諭すヒューバートの姿が、ネモフィタの脳裏に浮かんだ。途端にうわあ、と顔を歪めるネモフィラ。ユーフラテスは自身の婚約者の露骨な嫌がり方に、やっぱり俺が説明するほうがいいんじゃないか、と内心思う。ヒューバートの説明は並みの講師よりずっとねちっこくクドそうだ。兄妹という気安さも手伝って、ネモフィラのやる気のなさ、理解力のなさについて匙を投げて早々に退出することもないだろう。講師のようには簡単に諦めてくれないに決まっている。
「ですが、私では妹に教えられぬことがございます。そして兄として今一度、殿下の御心を知りとうございます。どうかその所在をお聞かせ願えますでしょうか」
ヒューバートの細められた目がユーフラテスに刺さる。
「バートもこう言っていることだし。テス、いい加減観念したらどうかな?」
アルフレッドの口元に浮かぶニヤニヤと厭らしい笑みがユーフラテスを追い込む。
「殿下のお気持ち…?」
頬を赤く染め上げながらもキョトンと目を丸くするネモフィラがユーフラテスの胸を貫く。蛇に睨まれた蛙のようだとユーフラテスは白旗を挙げた。覚悟を決めて深く息を吸う。
「…わかりました。ですが兄上にキャンベル卿。その間お二人は退室していただけませんか」
「えっ。何言ってるの。いやだよ」
「兄として婚約者同士と謂えど、異性と二人きりになることは許可できませんね」
ユーフラテスが言うや否や、ばっさりと断るアルフレッドとヒューバートの表情には、ユーフラテスをからかってやろうだとか野次馬根性が露骨なくらい浮かんでいる。ユーフラテスはげんなりした。
「悪趣味ですよ」
こうなったら梃でも動かないだろうことはわかっているが、ユーフラテスは悪あがきとばかりにアルフレッドに抗議する。
「嫌だなあ、可愛い弟の恋路を見守りたい純粋な兄心だよ!」
嘘つけ。
ユーフラテスだけでなくヒューバートですら胡乱な目をアルフレッドに向けている。とはいえそのヒューバートとて、ユーフラテスからしてみれば同じようなものである。婚約者の兄に見守られて愛を告白するなど、一体なんの拷問だ。
「恋路?恋路って…」
これまでならば鈍感という以前に何も考えずただぼんやりしているだけだったネモフィラが、アルフレッドの言葉を拾って脳に流し込んで吟味して、おろおろするという、とんでもない進歩を見せている。恋路という言葉に引っかかるなど、これまでのネモフィラでは考えられなかったことだ。奇跡に近い。
困ったように眉尻を下げ紅潮した頬を両手で包み込んでいるネモフィラ。その仕草の愛らしさにユーフラテスは胸の奥から何かが沸き起こるような、それでいてとてつもない圧力をかけられて重さに沈み込んでいくような、目頭のあたりが熱くなるような何とも言葉に言い表せない感情に襲われた。
ネモフィラからユーフラテスに向けられる、この目。戸惑うように揺れて潤み、どこか熱を孕んでいる。これまで一度も向けられたことのなかったもの。この機会を逃すわけにはいかない。
あとで盛大に揶揄われようとも構わない。
ネモフィラが自身に関心を寄せてくれることなどこれまでほとんどなかった。たとえネモフィラが兄アルフレッドに憧れようが、譲るわけにはいかない。
ユーフラテスはネモフィラの前で膝を折る。ネモフィラがびくりと肩を揺らした。ユーフラテスが白い手袋に包まれた手を表に向け、ネモフィラの前に差し出す。
「手を」
「え?」
「誓いを立てたい」
「誓い、ですか?」
「ああ。だから手をこちらに寄こせ…いや、寄こしてくれ」
外野席から鋭い視線がユーフラテスの後頭部を直撃したような気がして、ユーフラテスは言い直した。お兄ちゃん達はいつでも君のことを見守っているよ。
生ぬるい空気が漂うのを感じ、ユーフラテスの眉がピクリと上がった。外野が相変わらず鬱陶しい。軽く頭を振って、後方から感じる野次馬の下世話な邪気を払う。
いつまでも顔を覆ったままのネモフィラに、ユーフラテスはニヤリと、いつもの底意地の悪そうな笑みを浮かべてみせた。
「お前が自ら寄こさんのが悪いのだからな?」
「え?」
ユーフラテスはそう言うが早いか、少し腰を浮かせると、ソファに腰掛けていてネモフィラの背に腕を回し、ぐいっと引き寄せた。
バランスを崩したネモフィラは、顔を覆ったままだった両手を慌てて投げ出し、ユーフラテスに倒れ込もうとする。
「おっと」
再び膝をついたユーフラテスが、ネモフィラの手を取る。片方の腕はネモフィラの背に回されたままのため、ネモフィラはそこで踏みとどまった。
「で、殿下!」
ネモフィラが慌ててユーフラテスの胸を押す。ユーフラテスはネモフィラの手を取ったまま、離さない。
外野がまたざわつき始める。
「これはどうなんだ、バート!兄として許容範囲内か?」
「…アルでしたら即刻引き離しますけど…。第二王子殿下は誠実なお方ですから…」
「自分に言い聞かせてるよね、それ」
どうしても自分のことは男として信用してくれないのだな、と寂しく思いながらアルフレッドがヒューバートを見ると、その顔はすさまじい形相を呈しており、それは地獄の鬼もかくやといった具合である。ヒューバートはやはりキャンベル辺境伯の嫡子なのだな、とアルフレッドはしみじみ納得した。それからアルフレッドは愉快そうに眉を上げてヒューバートの耳元にそっと囁く。
「で、本心は?」
「キャンベル辺境伯騎士団に少なくとも半年はぶっこみたいですね」
「許す!連れて行っていいぞ!」
キャンベル辺境伯騎士団の地獄の訓練についてはその恐ろしさにおいて王都まで轟いている。だがユーフラテスにしてみれば、そんなものは願ったり叶ったりだ。第一王子アルフレッド王太子の陣営につくと決めたときから、既に知略武力に長けたヒューバートの存在があり、軍政どちらにより重きを置いて己の力を割くべきなのか判じられずにいた。ここで武に秀でろ、キャンベル辺境伯と徒党を組めというのならば方向性も定まる。アルフレッドのやや苦手とする剣術体術を極め、優れた軍師となるべく兵法を学び、アルフレッドのために国軍を率いる立場になってもよいのならば、そのように振る舞うことで叛意ありと捉えられないのであれば、ユーフラテスは喜んでその身を捧げる。
その場が因縁のキャンベル辺境伯家だというのが、皮肉だと感じながらも自身がかつてのレオンハルト国王とは違う人物であることは自身が知っている。ネモフィラもかつてのキャンベル辺境伯家嫡子ナタリー・キャンベルではない。
ユーフラテスはネモフィラがしっかりと自身の足で立っていることを確認すると、その背に回していた腕をそっと外した。
「私、ユーフラテス・フランクベルトは誓う。我が生涯を通じてネモフィラ・キャンベルただ一人を我が伴侶とすることを。他の誰一人として、隣に置かぬことを。忠は国へ、愛はネモフィラ・キャンベルへ捧ぐ。これを違えるときは死を持って償うとする」
誓うのは神ではなく、ユーフラテス自身の心とネモフィラにかけて。ユーフラテスの手に載せられたネモフィラの手は震えている。その手を優しく引き寄せると、指先に口づけを落とした。ビクリと震える指。
「何を替えてもネモフィラ・キャンベルを護ると誓う」
押し付けた唇を指先から外して見上げると、陶然としたネモフィラと目が合う。蕩けたような淡い水色の瞳に映るユーフラテスの顔は真っ赤に染まり、いまいち締まりがついていないように見えた。ユーフラテス以上に全身を紅潮させたネモフィラは今にも気を失って倒れそうなほどだったが、か細く震える声で「わたくしこそ…」と精一杯の返事を口にする。
その先を期待してネモフィラの瞳をじっと見つめると、ネモフィラは泣き出す寸前のように顔を歪め、ユーフラテスに取られた手とは反対の手で顔を覆い――扇子を常に持ち歩くような令嬢としての嗜みやら常識やらはネモフィラになかった――もごもごと不明瞭な音を口ごもる。ユーフラテスが何一つ聞き逃すまいと耳を傾け、聞き取ったのはこうだった。
「殿下の御心を支え、御身を護ることの出来るよう努めます…」
拙いが、だからこそネモフィラ自身の気持ちがそこにあると感じる。ユーフラテスは涙を零さぬように堪えることが、これほどまでに難しいとは知らなかった。こみ上げる多幸感と凶暴なほどに渦巻く形容し難い激情。
ふくふくと柔らかなネモフィラの手を心のままに強く握りしめないように留意して力を抜く。口を開けばみっともなく嗚咽が漏れるかもしれない。ユーフラテスはぐっと口を引き結び、唾を飲み込んで目を瞑る。ネモフィラの指先を掲げて己の額に押し当てる。押し殺した声を震わせなんとか絞り出す。
「…ありがとう」
それ以外に、返せる言葉が出てこなかった。