21 乙女ゲームの背景
「さて、初々しい婚約者同士の挨拶は済んだようだし」
アルフレッドがパンっと手を叩く。
ユーフラテスの突然のデレ――先日の茶会でのユーフラテスの振る舞いは、ペットに対するそれだと思っていたのだ――と、登城の度に王都に降り立っていたことをユーフラテスが把握していたことに、困惑していたネモフィラだが、はっと我に返った。ここは畏れ多くも王太子殿下の執務室だった。婚約者同士の二人だけの茶会ではない。
おそるおそる、アルフレッドに顔を向けると、アルフレッドは怯えるネモフィラににっこりと優しく微笑みかけた。ネモフィラはホッとする。
アルフレッドの微笑みは温かく、太陽のように人の心を照らし、また柔和で中性的なその美貌は、無垢で敵意害意を人から奪い去ってしまう。
「ネモフィラ嬢。僕からも改めて礼を言おう。登城に感謝するよ。病み上がりにも関わらず、呼び出してすまなかった」
「い、いいえ!王太子殿下の御指名とあらば、」
「そう言ってくれると助かるよ。ああ、それから弟も言っていたけど、その髪飾り、君にとても似合っているよ」
「ありがとうございます。わたくしには勿体ないほど素敵なお品で…」
「いや、そう卑下することはない。ネモフィラ嬢はとても可愛いよ」
にっこりと微笑むアルフレッドに、ネモフィラはぽかん、と間抜けに口を開けた。それから苦笑してしまう。
――わたくしより美しい人に言われてもね…。
するとアルフレッドはネモフィラの顔を覗き込んでくる。ネモフィラは華やかで美しい尊顔が近づいてきたことに驚き、身を引いた。
アルフレッドの陶器のような白皙の肌に、こぼれおちんばかりのキラキラ輝くエメラルドの瞳、バラ色の頬に熟れた苺のような真っ赤な唇といった、愛らしくも繊細な美貌が眼前に迫り、ネモフィラは困惑しつつも見惚れてしまう。
乙女ゲーム開始前に起こる事件のために、乙女ゲームには一切出てこないが、アルフレッドはとても美しい。乙女ゲームは今から十数年後の世界のはずで、そこに登場する成長したユーフラテスやハロルドとはまた違う、浮世離れした、中性的で繊細な美貌の美青年になるだろう。今後アルフレッドが無事生き残れば、の話だが。
アルフレッドは、ともすれば可憐だと表現されそうな、麗しい顔を顰め中腰になると、ソファに腰掛けるネモフィラの目線に合わせる。
「あっ。その顔は信じていないね?」
「い、いえっ!大変光栄でございます…!」
アルフレッドが半目になって、弟ユーフラテスに振り返った。
「ほうらテス、君の所業の罪深さがこれでわかったろう?」
「…仰せの通りです」
兄にチクりとやられたユーフラテスは俯いた。
「まあ、今後挽回するんだね」
それまで彼女が待っていてくれればいいけど、とアルフレッドは嘯いた。
既に見切られている可能性が高いことは、ユーフラテスも自覚している。ネモフィラはユーフラテスに何かを望む様子を見せたことはないのだ。何も期待されていない。
「まあそれはいいとして。ネモフィラ嬢」
アルフレッドは一人掛けのソファではなく、あえてユーフラテスの隣に腰を下ろすと、ネモフィラの淡い水色の瞳の覗き見た。アルフレッドのエメラルドの瞳が色を濃く増し、シャンデリアの光を弾いて煌めく強い眼差しが、ネモフィラを射抜く。
「乙女ゲームとやらの話を聞かせてもらえるかな」
ネモフィラは目を瞬いた。
◇
「つまり、ネモフィラ嬢の視た未来では、第一王子派、第二王子派と第三王子派との派閥争いは激化していて、僕はそれに破れたことになるんだね」
「そうなる…のでしょうか…」
ネモフィラは自信なさげに答える。
そもそも乙女ゲームの世界観や各キャラクターの身分だったり政治的背景といったことは、恋愛を盛り立てるスパイスに過ぎず、お飾り程度にしか説明はなく、主体はただの恋愛ゲームなのである。
そして話している事が事だ。
王太子相手に、不敬極まりないのではないか。もしかして断罪されたりしないだろうか。
そんな不安から、なかなか口を開けなかったネモフィラだったが、ヒューバートに促され、途切れ途切れで要領の得ない、拙い説明を試みた。
この会合の前、そしてユーフラテスとのキャンベル辺境伯家タウンハウスでの茶会後に、ネモフィラはヒューバートに対し、乙女ゲームについて時系列に沿って整然と説明するでもなく、取り留めなく思いつくまま、またヒューバートに問われるがままに応えていた。
そしてそれを受けたヒューバートが、ネモフィラに代わって対象人物別に時系列に則って、ネモフィラの視た未来をまとめ、それを今日こうして、兄の敬愛する王太子アルフレッドにネモフィラが説明している。
なぜヒューバートが説明しないのか。
ネモフィラがつっかえつっかえ、あちこち話が飛んだり言葉が不足したりと、下手くそな未来図を披露するより、ヒューバートが理路整然と説明する方が、よほどわかりやすいだろうに。それに、頭の悪い出来損ないのネモフィラが口にするより、王太子の覚えめでたい、優秀なヒューバートが口にする方が、荒唐無稽とも言える話に真実味が増すのに。
会合前、馬車の中で、ネモフィラはヒューバートに、ネモフィラ自身の口で王太子とユーフラテスに説明するよう指示された。
ネモフィラは不満顔を隠さす、「それはお兄様の方が適任かと思いますわ」と訴えたが、ヒューバートに却下された。穏やかな口調であったが、有無を言わせぬ口ぶりだった。
「これは、ネモフィラが話さなければ、意味のないことなんだ。王太子殿下も、ネモフィラ自身の言葉をお聞きになりたいとおっしゃっているしね」
王太子の望みとあらば、断ることはできない。
「うーん…。兇徒の襲撃を受けるのがいつなのか。兇徒その者と、また雇った者が誰なのか。日時と犯人は正確にはわからない、ということか…」
アルフレッドは顎に手をやり、ヒューバートを一瞥する。ヒューバートは頷き返した。
ユーフラテスは膝の上に置いた拳に視線を固定したまま、これまで一言も挟まずにいる。
「バートに言われたと思うけど、この話は今後口外しない方がいい」
「は、はい。気が触れたと思われますものね…」
「うーん。まぁ、それもあるんだけど…」
アルフレッドがちらり、とユーフラテスを見た。ユーフラテスの横顔からは感情が読み取れない。
アルフレッドはネモフィラに向き直る。
「ネモフィラ嬢、君の身が危ないんだ。具体的には控えるけど。あともう一つ」
緊迫した表情でゴクリ、と喉を鳴らすネモフィラに、アルフレッドは微笑んだ。
「怖がらせてしまったね。…ただ、大事なことだから」
「は、はい」
「この話が僕を擁する第一王子派…それも過激派に伝わると、君はテスから引き離され、第一王子派に組み込まれるだろう」
「え…」
ネモフィラは目を丸くする。
「テスを廃する口実を与えかねないんだ」
「そんな!」
ネモフィラは勢いよく立ち上がった。
アルフレッドの後ろで控えていたヒューバートが、ネモフィラの側に寄り、ネモフィラの背に手を回す。
「ネモフィラ、落ち着きなさい」
「でも…!わたくし、そんなつもりは…!」
顔面蒼白になったネモフィラを見て、アルフレッドは嬉しそうに目を細めた。
「テスを心配してくれるんだね。よかった。兄として安心したよ」
アルフレッドはユーフラテスの俯いた顔を下から覗き込む。ユーフラテスは眉根を寄せ、一文字に固く口を引き結んでいたが、耳が赤かった。
「キャンベル辺境伯家は特別な立ち位置にあるんだ。詳しく知りたければ、あとでバートに聞くといい。そしてバートは僕を、君はテスを。それぞれ支える立場にある」
「わたくしはそんな…。お兄様はともかく、わたくしにそんな力はございません」
ネモフィラは動揺を隠せず、俯いたままのユーフラテスを見る。
ネモフィラが乙女ゲームの話を始めてから、一言と発することがない婚約者に、ネモフィラは不安を覚える。
つい先程までは、少しだけ、二人の関係が穏やかなものに、それだけでなく互いにほのかな好意すら抱いたかと思えたところだったのに。
アルフレッドが首を振る。
「君はね、ネモフィラ嬢。テスの最大の力でもあり、最大の弱点なんだ」
何の冗談かとネモフィラは微笑む。
しかしアルフレッドは固い表情を崩さない。ヒューバートを振り返っても、兄もまた真剣な顔をしている。
当惑してユーフラテスを見ると、ユーフラテスは顔を上げ、ネモフィラを見た。
ユーフラテスのアンバーの瞳は強い眼差しで、ネモフィラの淡い水色の瞳に真っ直ぐ向き合う。
「兄上の言う通りだ」
ネモフィラは息を呑んだ。