20 答え合わせ
「で、殿下、その、贈り物を、ありがとうございました…!」
「気に入ったか?」
「は、はい…!とても!とても素敵なお品を、い、いただいて…」
ネモフィラが俯く。よく見ると肩を震わせている。
ユーフラテスは不安になった。礼の言葉は世辞なだけで、実際は気に入らなかったのだろうか?
胸の前で両手を握りしめるネモフィラを見守っていると、ネモフィラの消え入りそうな、か細い声が聞こえてきた。
「髪飾りの…い、色が…」
ユーフラテスは目を見開いた。
色?まさか気がついたのか?ネモフィラが?
ネモフィラは鬱血して青くなるほど両手を強く握りしめ、震えている。
――そんなに俺の色が嫌だったのか?
ユーフラテスの体の熱が急速に失われ、指先まで冷えていく。ネモフィラの言葉を聞くのが怖い。しかしここでまた尊大に振舞って意地を張れば、また元に戻ってしまう。
色の持つ意味に気が付いたのか。その上で、その色を嫌がっているのか。
ネモフィラを突き放す真似はもう、しない。しかし確認する勇気までは出ない。
ユーフラテスは視線を己の膝上に落として、口を開く。
「…他の色がよかったのか?」
「いえっ!そんなことはございません!」
ネモフィラは弱弱しいユーフラテスの声色に驚いて、顔を上げる。ユーフラテスは肩を落とし、沈痛な面持ちで膝の上の拳を見ている。
ネモフィラはまたもや頬に熱が集まるのを感じた。
このユーフラテスの気の落とし様は、もしかして、やっぱり、というソワソワと落ち着きのない高揚感がネモフィラの全身を巡っていく。
「わたくしの思い違いかもしれないと、そう思って…」
「何をだ?」
思わず強い口調で問いただしてしまう。
ユーフラテスは勢いよく顔を上げると、顔だけと言わず、耳、首に至るまで、全身を真っ赤に染め上げるネモフィラを見た。
淡い水色の瞳は羞恥からくるのか、薄っすらと涙で滲み、小さな唇は震え、ネモフィラは恥じらうようにその体を揺らした。
まさか。まさか。
「っ、その、殿下の…瞳の色と、わたくしの瞳の色…なの、かしら…と…」
ネモフィラは恥ずかしくなって顔を両手で覆った。
ユーフラテスは口元を手で覆った。
その手は震えている。胸の奥から何かが込み上げてくる。唾をごくりと飲み込むも、堪えきれない熱い塊がせり上がってくる。
まさか。本当に気が付いてくれたのか?
――目頭が、熱い。
ユーフラテスの唇が戦慄く。口に出してもいいだろうか?
いや、告げたい。告げなくては。
「…そうだ。俺とお前の瞳の色だ」
ネモフィラが覆った両手の指の間からユーフラテスを覗き見る。
ユーフラテスは微笑んだ。
「気がついたんだな」
ネモフィラは目を見開いた。
あの日、あの茶会で見た、ユーフラテスの優しい眼差し。あの優しく温かな笑顔と同じ。
ペットに対する慈愛に満ちた目、ではなく。
疑いようのないほど、熱のこもったアンバーの瞳が、ネモフィラを見つめている。
ユーフラテスが立ち上がる。
ネモフィラは固まったまま、目の前のユーフラテスが近づいてくるのを指の隙間から見ていた。
ユーフラテスの額にかかる、くすんだ金の髪がさらりと揺れる。蜂蜜を溶かし込んだようなアンバーの瞳が甘く細められ、その目尻は赤い。いつもは不遜に吊り上げられた口角が、今は穏やかな微笑みを湛え、そして白い手袋を嵌めた、ユーフラテスの手が、少年のまだ細い手が、ネモフィラの方へ伸ばされようとしている。
ネモフィラは、まるでスローモーションのようだと思った。
ユーフラテスは、ネモフィラの頬に手を伸ばしかけたところで、思い直すように、ぐっと拳を作り、手をおろした。
後頭部に突き刺さる視線がとても痛い。
キャンベル辺境伯家での茶会の席では、うっかりヒューバートの存在を忘れてやらかしてしまったが、ここは王太子アルフレッドの執務室だ。兄はそんなことはどうでもいい、むしろ弟を揶揄うのに丁度いいとでも考えていそうだが、さすがに王太子の執務室で、うっかりやらかすのはどうかと思う。
何より視線が刺さる。痛いほどに刺さっている。めちゃくちゃ見られている。
先ほどまでは騒がしかった外野が、今は息をつめて存在を隠そうとながら、ユーフラテスの一挙手一投足を目を皿にして見ている。
コソコソと、と言うには大きな声がユーフラテスの耳に届く。
「バート!見たか!テスだって僕と同じだよ!下心しかない!」
「…第二王子殿下は踏み留まりましたから…」
「何を言ってるんだ。テスと僕は兄弟なんだよ?」
あいつら、本当に黙ってくれないかな。
ユーフラテスは頬を引き攣らせ、額に青筋を立てたが、気を落ち着かせようと、深く息を吐き出した。
「それで」
「はっはいっ!」
意識を切り替える。
ここが兄の執務室でなければ、と悔やむ気持ちに蓋をする。これまで見たとこのない、ネモフィラのぽうっと、どこか熱に浮かされたような顔。それが、初めてユーフラテスに向けられていたのに。
この機会に乗じて、二人の関係を一気に深めたかったが、仕方がない。
「お前の贔屓にしているブティックの店主から、未だ受注が入らないと聞いた。気に入るものがなかったのか?」
「いえ!とても素敵でしたわ!ただ…」
ネモフィラが困ったように眉尻を下げて、ユーフラテスを窺い見る。ネモフィラの上目遣いがユーフラテスに直撃した。
――か、可愛い…!
ユーフラテスはチョロい。
胸に熱い何かがググッと込み上げてきて、ユーフラテスは何でもいいから何かを大声で叫んで、駆け出したくなった。
そんなことをすれば、あまりに奇妙奇天烈過ぎるので、眉根をきつく寄せて、拳を痛いくらい握りしめることで耐えた。
「あのぅ、あちらは、その、わたくしが殿下のご衣装を見立てるご許可をいただいた、ということですの?」
ユーフラテスは思った。そっちにすればよかった、と。
「…いや。ハロルド卿の絵姿だったと思うが?」
「あ、やはりハロルドだったのですね」
嬉しそうに両手を合わせるネモフィラを見て、なんでそっちにしちゃったんだろうな、と沈みゆく心を止められなかった。
そしてユーフラテスの視界の隅で、ヒューバートが何か物言いたげな様子でこちらを見ている。なんだろうか。
「ああ。登城の度に通っていただろう?」
「え。ご存知でいらしたの…?」
途端に引き攣ったような表情で、後ずさるような様子を見せるネモフィラ。ユーフラテスは己の迂闊さに歯噛みする。
これではまるでネモフィラの行動を監視しているとでも言っているようだ。実際、そんなことはしていないのに。
月一の茶会における王城への往復で、何事か問題が生じないよう、辺境伯家の護衛とは別に、密かに護衛をつけその様子を報告させたり、ネモフィラの大体の予定の把握だとか、王子妃教育の進捗具合だとか、その教師がどんな人間かだとか、たまにタウンハウスから出たとき、危険がないようこっそり護衛をつけたりだとか、ごく少ない貴族令嬢との交友関係を探らせたりだとか、最近夢中になっている菓子は何かだとか、貴族子息に限らず異性全般――三親等以上の親族含む――との接触がないかだとか、あった場合はどんな人間でどんな関係でどんな会話をしたのだとか。
そんな可愛らしいことしか調べさせていない。それなのに、これではまるで変質者のようである。
言い訳しておこう。
ユーフラテスはお前は何を至極当然のことを言い出すんだ、とばかりに堂々とのたまうことにした。まあ嘘は言わないし。
「王族の婚約者は危険に晒されることも多い。そのため、茶会の往復にも気を配っている。俺との茶会のために出向いているのだから、道中の安全の保証は、当然の義務だ。そのためにお前の動向を知っただけだ」
うん。嘘ではない。他意はあるけど。
「そうだったのですね。ご配慮ありがとうございます」
ネモフィラは素直にペコリと頭を下げた。ユーフラテスの良心が少し傷んだ。
ちなみにまだユーフラテスは知らされていないが、ネモフィラには王家の影が既につけられている。先日の茶会暴露話からネモフィラは王家にとって、第二王子の婚約者で凡庸な辺境伯令嬢から要注意危険人物に格上げされていたのである。