2 キャンベル辺境伯家の兄妹弟
四歳年上の兄ヒューバートは、ネモフィラと同じブルネットの髪に、深い碧い目の、穏やかで誠実、勤勉な辺境伯家長男で、次期辺境伯だ。
武勇のキャンベル辺境伯家らしく剣術・体術ともに優れ、またキャンベル辺境伯がやや苦手とする学問についても同じ年頃の貴族令息の頭一つ抜け、王太子である第一王子の覚えもめでたい。
王都にある王立学園入学を控えた今はまだ、第一王子の遊び相手として王城に呼ばれ集う側近候補達の一人に過ぎないが、何事もそつなくこなし、危機回避能力に長けたヒューバートは、おそらくこのまま順当に第一王子の側近となるだろう。
五歳年下の弟ハロルドは、天使と見紛うほどの美貌の持ち主で、燃え上がる太陽のように輝かしく濃い黄金の髪、宝石のように鮮やかで輝く碧い瞳、すっと通った鼻筋。形のいい唇は少し薄いが、中央はふっくらと口角はきゅっと上がり、常に微かな微笑みを浮かべているよう。
――わたくしの天使。
ネモフィラは五歳離れた、美しく愛らしい弟を猫可愛がりしていた。
優秀で穏やかな、ネモフィラにも丁寧に接してくれる兄ヒューバートのことは、ネモフィラはあまり好きではなかった。ヒューバートの外見はネモフィラ同様地味で見栄えがしなかったのだ。
地味なネモフィラにとって見目麗しいハロルドはお気に入りのお人形のように気分が高揚し、ワクワクする大切な宝物だったが、地味で冴えないヒューバートは両親に押し付けられた積み木のように地味で退屈な、ネモフィラをうんざりさせる存在だった。
要領が悪く、学ぶ意欲も薄く、進みは遅く飲み込みも悪く、他者への思いやりに欠ける上、貴族令嬢としての矜持もなく、怠惰で辺境伯家の人間としての責任を知ろうともしない。
そんなネモフィラに両親は落胆し、我が子への愛は変わらぬものの、素質のないネモフィラの成長を早々に諦めた。
しかしヒューバートは、そんな両親に異を唱え、機を見てはネモフィラに何かと声をかけていた。
「ネモフィラ、今日は何を学んだんだい?」
「今度一緒にダンスの練習をしよう」
「私のハンカチに刺繍を刺してくれると嬉しいな」
「領地の様子を見に行ってみないかい?」
「母上が孤児院へ慰問に行かれるそうだ。ネモフィラもピアノを披露してあげたらいいんじゃないかな」
「ネモフィラの編んだレースをバザーの品に提供したら、喜ばれると思うよ」
ヒューバートは穏やかな性質で、ネモフィラを責めるような言葉は口にしなかったが、ネモフィラの能力のなさについて同情するようなこともなかった。ただ兄として妹を気にかけ、辺境伯家の令嬢としての道を示した。
それがネモフィラには鬱陶しくて仕方がない。
しかし陰気で小心者、そして口下手なネモフィラは、兄に反発してわかりやすく背を向けることは出来ず、何か言われる度に暗い顔で大人しく頷くだけだった。
そして溜まった鬱憤を晴らしに、美しいハロルドと遊び、心を潤す。
ヒューバート十二歳、ネモフィラ八歳、ハロルド三歳のときのこと。
「ハロルド。わたくしの可愛い天使!今日はお姉さまと何をして遊びましょうか」
「お姉さま!ぼくは今日、お庭で虫を採りたいです!お兄さまがぼくに虫かごをくださったのです」
ハロルドが嬉しそうに、片手に持った虫かごをネモフィラに突き出す。ネモフィラは思い切り眉根を寄せ、手を振り払う素振りをした。
「まあ。駄目よ、虫採りだなんて。野蛮でちっとも美しくない。愛らしいハロルドには相応しくないわ」
ハロルドは悲しそうに目を潤ませる。
パライバトルマリンのようにネオンに輝く、透き通った美しい瞳が濡れ、一層輝き、ネモフィラはその美しさに見惚れた。
「虫採りをしてはいけないのですか…?」
「まぁ!ハロルド、いけないに決まっているわ!あなたのように美しい子は、お兄様とは違うのよ」
ネモフィラは優しくハロルドの頭を撫でる。ハロルドは涙をぽろりと溢した。
「さぁさぁ。涙を拭いて。お姉さまのお部屋でお人形遊びをしましょうね」
ハロルドはコクリと頷いて、ネモフィラに手を引かれていく。
ヒューバートがハロルドに贈った虫かごはその場に残され、一部始終見守っていたハロルド付きのメイドの手によって回収された。
ヒューバートは二人のやり取りをメイドから知らされ、戻ってきた虫かごを手に、困ったように眉を下げた。
「ネモフィラにも困ったものだね。しかしハロルドには可哀想なことをした」
ふう、とため息をつくと、ヒューバートは後ろに控えた侍従に近日中の予定を確認した。
「私が虫採りに付き合おうと思うのだけど、ハロルドに伝えてくれるかい?私が直接ハロルドに声をかけると、ネモフィラが嫌がるからね」
ヒューバートは苦笑を浮かべつつ、都合のつく日時をメイドに示し、伝言を託す。
メイドは礼をし、ヒューバートが侍従と共に玄関ホールへと抜けていくのを見送った。辺境伯騎士団へ、鍛錬に向かう次期辺境伯の後ろ姿。
メイドはその後ろ姿にもう一度礼をした。
ネモフィラに甘やかされる一方で、ネモフィラの意に添わぬことは許されないハロルドは、まるでネモフィラのお人形。
愛らしいと褒め称えられ、ネモフィラの許容する「王子様らしい」我儘、下々の者を人として見做さない貴族らしい傲慢さは全て叶えられ、日に日に我儘になっていくハロルド。
しかしネモフィラの許さぬ、所謂男の子らしい、無邪気な願いは却下され、鬱屈した心を徐々に募らせていくハロルド。
ハロルドの心が歪み切ってしまう前に、ネモフィラの手からハロルドを救い出してくれることを、メイドはヒューバートに期待した。