17 兄弟王子
キャンベル辺境伯家のタウンハウスから帰城すると、ユーフラテスは兄である第一王子アルフレッドに呼ばれた。
侍従とともに王太子執務室の前まで来ると、扉の前に立つ護衛が礼をする。
ユーフラテスの侍従が到着を告げ、また執務室内からアルフレッドの侍従より入室許可の声がかかり、扉が開かれた。
「お前はここで待て」
侍従を扉の外で待たせると、ユーフラテスは足を進めた。
「兄上、只今戻りました」
「うん。ご苦労さま」
広い部屋の奥、書類の高く積まれた執務机の向こうにアルフレッドが正妃によく似た、柔和な笑みを浮かべて待っていた。
ユーフラテスがツカツカと足早に歩み寄ると、アルフレッドの侍従が間に入る。
アルフレッドが鷹揚に手を振った。
「お前も下がっていい。ここからは兄弟水入らずで話したいからね」
出ていけと指示されたアルフレッドの侍従は、命を受けても表情を変えず、礼をして部屋の外へと出ていった。
アルフレッドは己の侍従の背を見送り、ぱたん、と扉が閉じるのを待って、立ち上がった。
「さて、兄弟の団欒といこうか」
にっこりと微笑むアルフレッドに、ユーフラテスは固い表情に姿勢も崩さない。
「あの者を出してよろしかったのですか」
アルフレッドはユーフラテスに近づくと、その肩に手を置いた。
「アレは陛下の手の者だからね。…いや、宰相かな?どちらにしても、僕達兄弟の仲の良さを妬むんじゃないかな」
アルフレッドが小首を傾げる。
輝く濃い黄金の髪、ほっそりとした首、白皙の肌に薔薇色の頬、エメラルドのように輝く緑の大きな瞳は溢れんばかりで、唇は赤い。
体つきも年頃の少年にしては華奢なアルフレッドは中性的で、たおやかな美貌を持つ。纏う空気も柔らかい。
鋭利硬質な美貌で、どこか冷たい雰囲気の漂うユーフラテスとは対称的だ。
美しい兄弟王子だか、人々が二人に抱く印象はまるで違う。しかし整った顔立ちは、注意深く見るとよく似ていて、同腹の王子であることがわかる。
「テスのアレもね。メロヴィング公爵家の寄子の出じゃなかったかな?」
アルフレッドが扉に視線を投げる。
メロヴィング公爵家の当主は現宰相が務めている。旧くから純血主義を掲げてきた筆頭公爵家である。
「早く君の側近候補が育ってくれるといいんだけど」
「…それで、私の元にキャンベル卿をよこされるおつもりだったのですか」
アルフレッドの顔が目を丸くする。
「まさか!バートは僕の特別だよ!側にいてくれないと困るな」
そう言うと、アルフレッドはくすくすと笑い出した。
「なんだ、バートのやつ。君になんて言ったんだい?」
「私の側近候補はまだ幼すぎるので、今すぐ動ける者を置かないか、と」
アルフレッドはとうとう、声を上げて笑い出した。ユーフラテスは苦虫を噛み潰したように眉を顰め、口をへの字に曲げる。
「バートのやつ!それでテスはなんと応えたの?」
「…私の婚約者の話をしました」
「ああ!それはいいね。それはバートも納得したろう」
「はい」
アルフレッドはひとしきり笑うと、目尻に浮かんだ涙を拭った。
「それにしても、随分警戒されたようだね」
「…仕方のないことかと」
「まあそうだね」
アルフレッドは頷く。その緑の瞳に、これまでにない強い光がこもり、ユーフラテスの目を真っ直ぐに射抜く。
「テスは今回、目立ち過ぎたからね。これまで実に物分かりのいい弟王子だった君が、あの宰相と子飼いの官僚達と対峙したわけだから」
アルフレッドがまるでユーフラテスを試すかのように威圧的に微笑む。二人を取り囲む空気がひんやりと下がったように感じられた。薄っすらとした緊迫感に包まれる。
そして二人の間に静寂が落ちた。
ユーフラテスがアルフレッドの目を見返し、眉根を寄せる。
しばし兄弟王子は言葉もなく睨みあう。しばらくすると、アルフレッドが眉尻を下げ、肩を竦めた。
アルフレッドは唇を引き結びながらも、口角が不自然に上がっている。笑いを堪えているのだ。
ユーフラテスは眉を顰め、露骨に嫌そうな表情を呈した。アルフレッドの引き結ばれた口が解ける。
「ぶっ!」
「…兄上こそ、未だ私を警戒されているようですが?」
アルフレッドは高らかに笑った。
「ははは!悪いね、どうも僕の悪い癖が出たようだ。好きな子はいじめたくなっちゃうんだよ。テスと同じだね!」
仕舞いにはアルフレッドがユーフラテスにウィンクまで投げて寄越す。ユーフラテスはゲンナリとした。
はあっと大きく溜息をつくと、ユーフラテスはとんでもなく苦いものを口にしたときのような渋面で、とんでもなく辛いものを飲み込んだ後のような掠れ声を出した。
「婚約者のことでしたら、ご心配には及びません」
「へえ!テスにしては、随分な進歩だったみたいだね?」
「…そうでしょうね」
ユーフラテスの視線はアルフレッドから外れ、不貞腐れてる。アルフレッドは口元に手を当て、笑いを噛み殺そうとする。
「ふっ。ぶふっ!いやあ、テスのそんな顔を見られるなんて、今日はいい日だ!」
「それはよかったですね」
ユーフラテスはアルフレッドに許しを得ず、どっかとソファに座り込む。
ぞんざいに投げ出された足も、背もたれに体を預け、首を反らして天井を仰ぐ様も、全てが粗暴な少年そのもので、王子らしい行儀の良さはどこにも見当たらない。しかしそれでもやはり、品の良さは失われない。
くつくつと肩を震わせ弟を揶揄うアルフレッドも、兄に揶揄われて不貞腐れるユーフラテスも。気の置けない兄弟王子なれど、互いに全てを曝け出せるわけもなく、また王子として叩き込まれてきた教育の全てが、彼らの所作に王子らしさを認めさせる。
顔を背けた弟が年相応にいじける様を前に、アルフレッドは目を細める。
アルフレッドにとって、ユーフラテスは信用のおける、唯一の肉親だ。先を導き、庇護すべき可愛い弟であり、そして将来の己に忠実なる臣下でもある。
そこはきちんと、線引きをする。
親愛の情だけで穏やかに関係を築けるような、そんな家に生まれたわけではないのだから、仕方がない。それでもアルフレッドなりに、ユーフラテスを大切に思っている。
「…うん、テスがネモフィラ嬢を気に入ってくれて、本当によかった」
慈愛に満ちた眼差しと、穏やかな兄の口ぶりに、ユーフラテスは緩んでいた顔を引き締める。
「ネモフィラ嬢がいなければ、そもそも君は僕と対立していたかもしれない。キャンベル辺境伯家のご令嬢というだけでなく、彼女はテスの楔になってくれた。感謝しているよ」
「はい。彼女のお陰だと…私も感謝しています」
よく見ると、ユーフラテスの頬はほんのりと赤く染まっている。冷たく酷薄な空気を身に纏う弟が、はにかむような様子を見せ、一見わかりにくいが、それはまるで恋する乙女のよう。
アルフレッドは目を丸くした。
「ぶっ!ぶぅっ、ふふっ!ふっ…!くっ」
真面目な会話の中、アルフレッドが場を壊すように噴き出すので、ユーフラテスはまたもや露骨に嫌そうな顔をした。
「…兄上、そんなに可笑しいのですか…」
「ぶっ、い、いや、悪いね…!ぐっ…!」
必死に笑いを抑えようと肩を震わせるアルフレッドに、ユーフラテスは諦観の境地に至る。
兄の笑いの発作が終わるまで、話が先に進まないのだ。どうとでも笑え、と再び不貞腐れた。
「いやいや…でもテス、真面目な話でね」
笑っていたのはアルフレッドで、ユーフラテスは真面目に聞いていたのだが。
釈然としない気持ちになりながらも、ユーフラテスは頷いて、先を促す。
「あのキャンベル辺境伯家が政略結婚を許すなんて、万が一にも起こるはずのなかったことだ。丁重に扱うようにね」
「はい」
短く了承の返事だけ返すユーフラテスに、アルフレッドはニヤリと口角を上げた。
「念押しすればするほど、テスはネモフィラ嬢と距離をとるかと思ってたんだけどなぁ」
ユーフラテスの真向かいのソファにアルフレッドも腰を下ろし、腕を組んでニヤニヤと見下ろしてくる。
「今だって、『そんなことはわかっています』とかさ。そういう反抗的で可愛いテスが見られるかなぁとも思ったんだけど」
違ったね?と覗き込んでくるアルフレッドに、ユーフラテスは眉を顰め、その顔には警戒の色が浮かんだ。臨戦態勢に切り替わる。アルフレッドはその様を面白く見守った。
もう少し遊んでみようか、とアルフレッドはほくそ笑む。弟の純情を弄んでみたい。
案の定、ユーフラテスは敵愾心露わに、険のある声でアルフレッドに言い募る。
「それを狙っていたんですか?」
「いや?どちらに転ぶのかな、とね。テスがネモフィラ嬢を手放すなら、僕が譲り受けるつもりだったし。勿論側妃としてだよ」
アルフレッドは手をひらひらと振り、なんでもないことのように口にする。
ユーフラテスは唇をかみ、唸り声が出そうな自身の憤りを鎮めようと意識する。
アルフレッドの言い分はこうだ。
ユーフラテスが周囲から押し付けられた婚約者に反発し、ネモフィラを拒絶する。そして否定されたネモフィラをアルフレッドが娶る。しかし正妃は変わらず現在の婚約者のまま。
なぜなら国王の正妃は他国の王女でなければならない。ネモフィラに政務能力があろうとなかろうと。
つまりネモフィラを正妃に譲り受けることで、ユーフラテスに王位を譲るようなことはない、とアルフレッドは示唆する。
「その場合、君はどうなっていたかな」
ネモフィラを失い、キャンベル辺境伯家の後ろ盾を失ったユーフラテスが、王位継承権争いに巻き込まれたら。
ユーフラテスの意思など関係ない。後ろ盾のない第二王子は、確実に貴族達の傀儡になる。それも政治的価値を知ろうともせず、キャンベル辺境伯家の長女との婚約を自ら遠ざけようとする愚かな王子など、逃げ場もなく、己の気づかぬうちに、勝手に祭り上げられ、気が付けば後戻りできない立場にあるだろう。
アルフレッドがユーフラテスの目を覗き込む。
言葉にするまでもない、とユーフラテスは思う。
その場合、ユーフラテスは病に倒れるか、事故に遭うか。情けをかけて、不穏の芽を摘まぬ無能者は、アルフレッドの周囲にいない。
そんなわかりきった牽制をされずとも、ユーフラテスは自身の置かれた立場を理解しているつもりだ。
アルフレッドもそれは知っている。これはアルフレッドが単純に弟をいじめて愉しんでいるだけだ。
アルフレッドの言う通り、兄弟揃って、好きな子をいじめてしまう悪癖持ちだ。
ユーフラテスは、居心地の悪さを感じる。
――これはネモフィラも、それは嫌だったろうな…。
まさに人の振り見て我が振り直せ。
しかしユーフラテスはネモフィラとは違う。黙ってやられているばかりではない。
やられたらやり返せ。
アルフレッドの今最も厭う話題を振る。
第一、それでなくともユーフラテスが三つ巴から脱落して、アレが、いや、アレを支持する者達が黙っているとは思えない。
何しろ、ネモフィラはあのキャンベル辺境伯家の令嬢なのだ。
「…エドワードもいます」
ユーフラテスの口にした名を耳にしたアルフレッドは、眉を顰めた。
第三王子エドワードは側妃の子で、二人とは別腹の弟王子だ。側妃は現宰相と対立派閥に属する侯爵家の出自である。
第一王子派、第二王子派、第三王子派、それぞれ支持する貴族達だが、大貴族の多くは第三王子派に属している。面倒なことに教会も第三王子を支持している。
第二王子ユーフラテスを傀儡にしようと企む宰相が当主を務める筆頭公爵家メロヴィング公爵家、及びその寄子として連なる家々。
第一王子アルフレッドを擁するのは新興貴族や下位貴族の面々。
キャンベル辺境伯家はこの派閥争いに傍観者の立場を崩さず、同様にどこにも属さない貴族達も、勿論いる。アルフレッドの側近候補の一人、モールパ公爵令息も、そんな家の人間の一人だ。
アルフレッドの側近候補達は、第一王子派と中立派の者達で占められている。
つまり王太子にも関わらず、アルフレッドは国内の上位貴族に敵が多い。
父王はこれらを静観している。
アルフレッドはいかにも嫌だ、耳が腐る、口も腐る、とでも言いたげに、顔一杯に不満を表す。
その歪めきった表情は、王太子のする顔ではない。
「やめてくれ。エドなんかにキャンベル辺境伯家の至宝を譲るはずがないじゃないか」
そんなことはユーフラテスだって同じだ。
エドワードだからではない。
敬愛する兄、アルフレッドにだって譲るつもりはない。
ユーフラテスから仕掛けたものの、アルフレッドの嫌がる素振りを面白がるどころか、アルフレッド同様に顔を顰めてしまうユーフラテス。どうしたってネモフィラの話となると、ユーフラテスは弱い。
アルフレッドは弟の可愛らしい反応を前に、機嫌を直し、また悪戯心がムクリと沸く。
「いや、もしかするかもしれないな?」
腕を組み、わざとらしく考え込む体を示すアルフレッドに対し、ユーフラテスは目を眇める。
またもこの兄は、一体何を言い出すつもりなのか。
ユーフラテスは知っている。
このアルフレッドの大仰に顰めた顔に、少し上擦ったような声。まるで道化のように振る舞う兄の示すところ。
ユーフラテスを甚振って、楽しんでいる。
「ネモフィラ嬢の視た未来では、君はネモフィラ嬢を相当倦厭していたようだったしなぁ」
「なっ!それはなんですか!?」
ユーフラテスはアルフレッドに掴みかからんばかりに詰め寄る。アルフレッドが大笑いする。
ユーフラテスはアルフレッドの言葉を反芻し、はっとする。
「いや、未来…?!未来視ということか…?ネモフィラが…?どういうことだ…?」
ブツブツと独り言を呟くと、ヒイヒイ笑っているアルフレッドに再び詰め寄る。
「兄上!!どういうことですか?」
「ぶふっ…!あ、あれ?テスってば、聞いてないの?ぐっ…ごほっ」
吹き出しながらも、アルフレッドはわざとらしく目を丸くした。
ユーフラテスは思わずギリっと歯噛みしたくなった。この兄はユーフラテス以上に嫌らしい性格をしている!
何が、好きな子はいじめたくなっちゃう、だ!
ごほごほ、ごほん、と咳をして、声を調えると、アルフレッドは顎に手をやり、しばし考えを巡らせた。
「うーん。婚約者同士のお茶会でその話をされるのは、少しまずいかもしれないな」
そして何かを思いついたように、アルフレッドの目がキラリと光る。
嫌な予感がする。
「今度バートと一緒にネモフィラ嬢も登城してもらおう。そのときまた、テスもここに呼ぶ。それでいいね?」
よくない!
いや、予想していたより早く会えるのは嬉しいけど!
でもこの兄の前で、ネモフィラと会うなんて、散々からかわれて、面白がられて、いいように弄り倒されるに決まっている!
それもアルフレッドだけでなく、あのヒューバートまで揃ってしまう。
アルフレッドとヒューバートがタッグを組むと最悪なのだ。本人達は最高なのだろうが。
来月のお茶会は見送るつもりでいたのに、思いかけずネモフィラと会えることになった。
喜んでいいのか、嘆いたらよいのか。ユーフラテスはこの上なく複雑な気持ちだった。