14 兄との和解
ユーフラテスが馬車へ乗り込むのを見送ると、ネモフィラは玄関ホールへと戻る。
これまでになく楽しい茶会だった。
王宮での毎月の茶会も、いつもこんな茶会になるのなら、憂鬱にはならないのに、と思う。来月は催されないらしいが。
「ネモフィラ」
先ほどまでの茶会を思い返していると、背後から兄ヒューバートに呼び止められる。
振り返ると、ヒューバートが手招きをしていた。
「なんでしょう」
近寄って小首を傾げると、ヒューバートは抑えた声でひっそりと言った。
「先日ネモフィラの教えてくれた話を、もう一度聞かせてくれないかな」
ネモフィラは目を丸くする。
「まあ…。お兄様ったら、本当に信じてくださっているのですね」
「可愛い妹の言うことを信じないと思うのかい」
ネモフィラは半目になった。
「お兄様、心にもないことを口にされるのはやめてください」
虫唾が走りますわ、と言うと、ヒューバートが笑った。
「ふふっ。ネモフィラが私にとって可愛い妹だというのは本当だよ」
「信じられないですわ」
「ふっ…はは!本当にネモフィラは変わったようだ…ああこれまでもきっと、心の中では同じように思っていたのだろうけど」
ネモフィラは少し気まずそうに目を逸らして口を尖らせる。
「わたくしは変わっておりませんわ。ただ…ただ、お兄様の仰る通り、もう少し自分の意見を口に出すことにしたのです」
「うん。その方がいい」
ネモフィラは勢いよく顔を上げた。その目は大きく見開かれている。
「そうでございますか?わたくし、これでも自分が落ちこぼれなことは自覚しておりますのよ。それならせめて黙っていればよいのかと…」
「そんなことはないよ、ネモフィラ」
ヒューバートが優しくネモフィラの頭を撫でる。兄に頭を撫でられたことなど、初めてだ。
ネモフィラはパチパチと目を瞬く。
「誰も君に人形でいてほしいなんて思わない。少なくとも私達家族はね」
ヒューバートの細められた目から、温かい何かが溢れているようで、いつものような冷たさを感じない。ネモフィラはじっとヒューバートを見つめる。
するとヒューバートは、思い出したように、くすりと笑った。
「それに第二王子殿下も」
「殿下もですか?」
ネモフィラはまるで信じられない、といったように不信感を顔いっぱいにして、ヒューバートを胡乱な目で見る。
「殿下は少し不器用なお方なんだよ。それに愛情深いお方だ」
怪訝な表情を崩さないネモフィラに、ヒューバートは苦笑する。
「まあ、殿下のお考えは、ネモフィラが殿下に伺うといい」
「はい」
ネモフィラは落ちこぼれ令嬢の自分を得意満面で扱き下ろすユーフラテスを思い浮かべる。
王子妃教育はどこまで進んだのか、なんだまだそんなことしか学んでいないのか、刺繍を見せてみろ、なんだこの図柄は、糸が絡まりあっているだけじゃないか、おい足を踏むな蹴るな、お前のそれはダンスなのか。
ネモフィラはこれまでのユーフラテスの罵詈雑言を思い出してげんなりする。尊大で高慢で常にネモフィラを見下していた。
けれど、もし。
今日のように、くだけた態度を取ってくれるのなら、嫌味や小言、自慢をもう少し控えてくれるのなら。もう少し、傲慢さを抑えて歩み寄ってくれるのなら。それならこちらからも歩み寄って。
――いえ、駄目ですわ。歩み寄っても、きっと結果は同じこと。
ネモフィラはユーフラテスのことを考えるのをやめた。
「私はネモフィラの考えていることが知りたいし、できるだけ君の思いに応えたい。それは私達家族皆がネモフィラに思っていることだ。皆、君を大事に思っているんだよ」
真摯なヒューバートの言葉に気恥ずかしくなる。その上、これまではヒューバートに苦手意識もあったし、鬱陶しく思ってきた。
正論と小言ばかりで。でもヒューバートはネモフィラを落ちこぼれだとか無能だとか、よく聞く陰口のようには、ネモフィラを貶めたことはない。できないことを責めたりはしなかった。
それが一層息苦しかったけれど、せっかく前世を思い出したのだから、少しは変わりたい。
「…わたくし、お兄様に失礼な態度ばかり取っておりましたわ」
ドレスをぎゅっと握りしめ、唇を噛む。
「ネモフィラがハロルドばかり構うから、私は少し寂しかったよ」
ネモフィラが顔を上げると、ヒューバートは微笑んでいた。
「あの…ごめんなさい…」
「ふふ、本当にネモフィラは素直なんだから」
眉を下げて懇願するようなネモフィラに、ヒューバートはどこか愉快そうに笑った。
「ネモフィラ。素直であることは、君の美徳でもあり悪徳でもある。きっとこれまでは、その悪い面が出ていたんだろう」
――あっ。もしかしてこれはまたお小言が始まるのかしら。
ネモフィラが頬を引き攣らせると、ヒューバートは堪えきれない、というように笑い出した。
ひとしきり笑うと、ヒューバートは目尻に浮かんだ涙を拭った。
「ふー…。全く!ネモフィラは全て顔に出てしまうね、ふふ。ふ、いやでも、ネモフィラ、君は嫌がるだろうけど、ふふっ」
ヒューバートは未だ笑いの渦にいるらしい。
「うん。やっぱり少しずつ、色々なことを学んでいこう。ネモフィラのペースでいいから」
「…はい」
「あれ?ネモフィラの気持ちを言うのではなかったの?」
ネモフィラがウンザリとした顔をする。
「それは嫌に決まっておりますわ。でも嫌だと言ってよいのですか?」
「辺境伯家でならね。少しずつ、ネモフィラが私に何でも打ち明けてくれるようにしてほしいから」
ヒューバートはにっこりと穏やかに微笑んだ。
「これまでの分も、兄妹の時間を作りたいんだ。ネモフィラはそれでいいかな?」
「ええ。お兄様。お願い致しますわ」
「それではこの後、時間はとれる?例の話を聞いてもいいかな?」
ヒューバートが自身の部屋へとネモフィラを促す。ネモフィラは慌ててそれを遮った。
「待ってくださいまし!」
「うん?何か用事があったのかな」
今日はユーフラテスを迎えるという、キャンベル辺境伯家挙げての一大行事があったため、家庭教師も呼んでいないし、他知人を招くということも、どこかの家へ出向くといった予定もないはずだ。それ以前に、ネモフィラは床上げしてまだ一週間も経っていないため、ユーフラテスとの茶会が床上げ後初めての外部との接触で、これから徐々に日常生活に戻していこうというところだった。
ヒューバートが疑問を呈すると、ネモフィラは少し顔を赤くして俯いた。
「あの、殿下からいただいた贈り物を知りたいのです」
「ああ!そうだったね」
恥ずかしそうに申し出るネモフィラの様子を、ヒューバートは微笑ましく思う。
どうやらユーフラテスの努力が実ったらしい。
今日の様子を見るに、ユーフラテスはこれまでの傲慢さを相当抑えていたし、随分ネモフィラに丁重に応じていた。王族としての矜持までも、ネモフィラのために幾分か妥協していたようにも思える。
――いや、あれは殿下のお心そのままだったかな。
尊大な物言いも高慢で不遜に捉えられかねない態度も、王子の仮面の一つであり、同時に幼い少年の幼い恋心の照れ隠しでもある。
これまで散々意地を張り、殊更傲慢に接してきた少女が目の前で倒れて、ユーフラテスにも思うところがあったのか、今日の茶会での振る舞いは、側に控えていたヒューバートが恥ずかしくなる程だった。
妹が無碍に扱われる様子を見たいわけではないが、礼節の則って相応の扱いをしてくれればいいだけであって、やたらと猫可愛がりされている様を目の当たりにするのは、目を覆ってしまいたくなる。
達観して見えるヒューバートだが、彼もまだ十三歳の少年で、恋には初心である。
またキャンベル辺境伯家は代々政略結婚をよしとしない家――長年辺境伯家との婚姻による縁を望んでいた王家の要望と、ネモフィラ本人の資質が著しく低く、良縁が望めなそうだと早々に諦めた辺境伯との利害が一致した結果、例外的にネモフィラは政略的婚約が結ばれたが――であるため、未だ婚約者はいないのだ。
ヒューバートはこれまで、ご令嬢と親しくするより、王都では王太子の側近候補として王太子や貴族令息達との交友に重きを置いていたし、領地では辺境伯騎士団にて屈強な騎士達に揉まれて、鍛錬に明け暮れる日々を送ってきた。
そんなヒューバートにとって、ユーフラテスの甘ったるく気障な振る舞いは、目に毒だった。
しかし常に人に囲まれているユーフラテスにとって、他人の視線というのはさほど気にならないらしく、彼が気恥ずかしく自意識過剰になってしまうのは、ネモフィラのみに限定されるようだった。
意地っ張りなユーフラテスと素直すぎるネモフィラ。
さてどうなるかな、とヒューバートは思案する。
この先二人がうまくいってもいかなくても、ヒューバートはネモフィラを王家に嫁がせるつもりでいた。
これまでのネモフィラならば、己の主人の側妃にと諫言するのは憚られたが、予知能力を備えた、キャンベル辺境伯家の旧き魔女の血を受け継ぎ能力を開花させたネモフィラならば。
ヒューバートの主、王太子アルフレッドは仁徳者で、側妃として娶ったネモフィラを丁重に扱うだろうし、政務能力のないネモフィラに然したる公務も任せないだろう。
傲慢に振る舞い、ネモフィラの欠点を上げ連ねる第二王子のユーフラテスに嫁ぐより、ネモフィラも心安らかに過ごせるのではないか。
また万が一、ユーフラテスとの婚約が解消となれば、嫁ぎ先は訳ありだったり年の離れた男の後家としてくらいしか、選択肢がなくなる。
修道院に入れるくらいなら、辺境伯家にいてもらって構わないが、ヒューバートが妻を娶ったとき、ネモフィラが己の立場を居心地悪く思わないかも心配だ。
それにこのまま順当にヒューバートが王太子アルフレッドの側近となれば、王都に留まることは増えるだろうし、そうなれば領地を実質取り仕切るのは弟のハロルドだ。辺境伯騎士団団長は名目上ヒューバートになるかもしれないが、ハロルドが副団長の名に於いて実権を翳すだろう。
領地に籠ることになるだろうネモフィラを気にかけることは難しくなる。王太子の側妃として王城にいてくれる方がよっぽど守ってやれる。
領地の要塞のようなカントリーハウスにはいくらでも部屋が余っているし、いくつかある離れを用立てても、何なら新たに建ててもいいのだが、己を卑下し人との関わりを避け、ハロルドだけに傾倒するネモフィラに、もっと視野を広げさせて、温かな世界を与えてやりたい兄としての気持ちもある。
ハロルドが幼いうちは、ネモフィラの思うが儘にお人形遊びに興じられるだろうが、ハロルドとて意思をもった一人の人間なのだから、近いうちに必ず反発されるだろう。既に幼いハロルドの心の内は、ネモフィラに対する複雑な思いとまた鬱積が募っている。
ハロルドの今後の健やかな成長への妨げになっても困るし、そろそろ引き離し時だ。
さらに懸念すべきことは、王家とキャンベル辺境伯家の秘事を知ってしまったネモフィラを、王家が見逃すかどうかということ。
そんな風に考えていたところで、ヒューバートはユーフラテスに牽制されたのだ。二重の意味で。
ネモフィラを国王の側妃にさせるつもりはない。
つまりユーフラテスの兄である王太子の側妃として譲るつもりもなければ、ユーフラテスが国王になろうと算段を講じる事を利用され、その後に廃されるつもりもないと。
どうやらユーフラテスはヒューバートが思うより、人情の機微に鋭く、先を読む力に長け、野心に薄く、愛情深い王子であるらしい。
そしてネモフィラはユーフラテスの大きな弱点となる。
ユーフラテス自身がわざわざご丁寧に、ヒューバートの前で晒してくれたのだ。
妹として愛情を注ぐだけでなく、ネモフィラには大変な利用価値が出来た。稀にみる予知能力だけでなく、ユーフラテスの致命傷になりうる最大の弱点として。
ネモフィラは王家への大いなる切り札だ。
それならば、ユーフラテスの望む通り、ハロルドのことはユーフラテスに預けてもいい。
ネモフィラからハロルドを引き離すべきだと考えていたし、このまま辺境伯家で世界を狭めているより、王宮や王都で王侯貴族、令息令嬢達に揉まれるのもよし、またユーフラテスはハロルドをそう悪く扱わないだろう。
ネモフィラを留め置くために使いたいのだろうから、おそらく相応に可愛がるはずだ。
「せっかくの殿下からの贈り物だからね。行っておいで」
「はい!」
嬉しそうにドレスを翻し、足早に己の部屋へと向かうネモフィラの後ろ姿をヒューバートは見送る。
――さて、どうなるかな。
少なくとも、ネモフィラが視た未来とは別の道を進むだろう。
ネモフィラが処される未来など、ヒューバートもユーフラテスも、誰も許すはずがないのだから。