11 お茶会には甘いお菓子
「そんなことより」
ユーフラテスが紅茶を一口飲む。話題を変える合図だ。
「先日キャンベル卿からは病後食を摂っていると聞いた」
ユーフラテスがヒューバートに視線をやると、ヒューバートは頷いた。
「今もまだ優れないのか?」
眉を顰めてネモフィラの顔色を伺うユーフラテス。
心配などしていない、と口にしてはいたが、茶会が始まる前からユーフラテスは始終ネモフィラの体調を慮っていた。
移動しようというところで、すぐさまネモフィラに肘を差し出し、エスコートする。
常にないほどゆっくりと歩き、ネモフィラの足が問題なくついてこられているかを探り、辛くないかと時折声をかける。
ネモフィラが立ち上がるときにはその手を取り、優しく背に手を当てそっと立ち上がらせる。
ユーフラテスのエスコートは、初めて会った時から紳士的で礼儀正しくはあった。が、これほど気を遣われたことはなかった。
「いえ。もうすっかりよいのです。ですが家の者がまだ養生するよう言うので……」
実際のところ、ネモフィラはベッドから上がってすぐ、通常通りの食事を用意してもらえると思っていた。
一週間も野菜を挽いて潰したスープばかり飲んでいたのだ。
固形物なんて、ちょっとしたフルーツが一つ二つ。それもベリーや葡萄が一粒、林檎が一切れ、といった具合である。
大変物足りない。
しかしベッドに臥せっている手前、もっとガッツリ食事を摂りたい、と要求するのは気が引けて―—気が引けながらもちゃっかり要求したが――病人食のスープと少しのフルーツで我慢したのだ。夕食には白パンを一つ足してもらいながら。
それだから、リビングで家族と食事をとることになって、ネモフィラは美食にありつける喜びに胸を躍らせていた。
るんるんと足取り軽くリビングに向かい、鼻歌交じりに席についたネモフィラの目の前に用意された朝食は……。
「本当に。もうすっかり! すっかり、よいのですわ!」
連日の野菜スープとフルーツにウンザリしているネモフィラは、握った拳をテーブルの上で震わせ、ユーフラテスに訴えた。
「そ、そうか。それはよかった」
ユーフラテスはネモフィラの力説に押された様子を見せたが、何か得心がいったかのように軽く頷く。
「それでは、この場の茶請けでは満足できんだろう」
ユーフラテスは大理石のテーブルに並ぶ、アラベスク模様が彫られたガラスのフルーツスタンドを視線で示す。
色とりどりのカットフルーツが美しく盛られている。
ネモフィラは大きく頷いた。
「まだ体の様子が優れぬのなら、と懸念していたが……どうもそうではないらしい」
ユーフラテスがヒューバートを見る。ヒューバートは首を振った。
「いえ、畏れながら殿下。ネモフィラはまだ床上げして間もないのです。それでなくてもネモフィラは……その……」
ヒューバートが言いにくそうに口ごもる。
ユーフラテスはその先を察し、ヒューバートに向け、そっと手を上げ言葉を制した。
ネモフィラは貴族令嬢としてはふくよかだ。
しかし市井の少女であれば、これくらいの体型のものはたくさんいるし、この一週間、まともな食事をとっていなかったことで痩せたというより窶れて見える。
ユーフラテスの目にはそんなネモフィラが、とても痛々しく映った。
ボンヤリとやる気も生気もあまり感じられないネモフィラが、美味しい菓子を前にすると、途端に目が輝き出す。
ユーフラテスはよく知っている。
ぽわん、とネモフィラらしい気の抜けた笑みを浮かべて、幸せそうに菓子を頬張る。
――美味しい、と綻ぶ顔。あれがまた見たい。
「貴卿の懸念もわからんことではない。だがこの場では、私に免じて許してやってくれないか」
健康を害するほど食べることは、ユーフラテスとて否定する。だが、今日くらい。
久方の婚約者の茶会だ。
茶会がネモフィラにとって、心躍るとまでいかずとも、心地よく楽しいものであってほしい。
ヒューバートが困ったように眉を下げる。
「この日のために王宮の料理人に作らせた菓子がいくつかある。貴卿がどうしても許容できぬと申すなら、負担の少ないフルーツのジェリーにすればよいだろう。多少クリームは載るが、さほど問題にならぬように思う」
ネモフィラの表情がぱっと華やぐ。
フルーツにジェリーはどちらも、正直もう飽き飽きしているが、王宮の料理人の腕は絶品なのである。
辺境伯家の料理人もネモフィラのこだわりに応え続けているため、腕はいいのだが、王宮の料理人はネモフィラが驚くぐらい、ネモフィラ好みの味を作り出す。
なぜか王子であるユーフラテスが好むだろう菓子は茶会で全く出てこないが。
それはいいとして、クリーム!
クリームだ!
クリームなど、どれだけ口にしていないだろうか……。
連日の病人食スープは、沢山の野菜を挽いてすり潰して煮込み、少しの塩と胡椒で味付けしただけの、本当に本当に味気のないものだった。
ベーコンの一切れだって入っていない。
ネモフィラの口腔内にはジュワっと唾液が滲み出てくる。
「焼き菓子の方は多少日持ちがする。だが、私もこれを食してみたい。貴卿が許すなら、貴卿と妹御と共に、これを味わえないだろうか」
ネモフィラは目の前のユーフラテスがまるで神様のように思えた。
王宮の料理人の作る焼き菓子!
ネモフィラの大好物だ。
淡い水色目を輝かせて頬を紅潮させるネモフィラを前に、ヒューバートはため息をついた。
「……殿下の仰せの儘に」
ヒューバートが了承するのを見て、ユーフラテスは後ろに控えていた自身の侍従を呼ぶ。辺境伯家の使用人に、それぞれの菓子の入った箱を知らせ、また手伝うよう言いつけた。
◇
「殿下……! ありがとう……! ありがとうございますぅ……っ!」
生クリームを添えたフルーツのジェリーを綺麗すっかり平らげたネモフィラは、感極まったかのように、上擦った声で礼を述べた。
淡い水色の瞳は涙に濡れ、頬は紅潮し、口元はだらしなく緩み切っている。
ヒューバートは額に手を当て嘆息した。
ユーフラテスが満足そうに頷く。
「焼き菓子も存分に食べるといい……と言いたいところだが、そうはいかんか」
ユーフラテスが苦笑すると、ヒューバートは眉を下げて頷いた。
「殿下のお心は大変ありがたいのですが、しかし……」
「急にこのようなものを多く口にすれば、体に負担もかかるだろう。だが……」
ネモフィラは二人の会話など既に耳に入れず、キラキラと輝く目で熱心に菓子を見つめている。
「おすすめはこれだ、ネモフィラ」
ユーフラテスは立ち上がってネモフィラの横に立つと、テーブルの上に手を伸ばした。
皿の上に並べられた焼き菓子のうち、フィナンシェを手に取る。
「殿下……?」
普段礼儀にうるさく、マナーを違えることのないユーフラテスの振る舞いに、ネモフィラは困惑する。
ネモフィラが見上げると、ユーフラテスはニヤリと笑った。
「この俺が手ずから口に運ぶんだ。ありがたく思えよ」
そう言うと、ユーフラテスはネモフィラへ屈みこむと、ネモフィラの顎をそっと上げ、もう片方の手でフィナンシェをネモフィラの口に押し付けた。
アーモンドの風味豊かなフィナンシェ。
焦がしバターの芳醇なコク、アーモンドの香ばしい香り。外はさっくり、中はしっとり。
ネモフィラが一番好きな焼き菓子。
「あぐ……」
ユーフラテスの思いもよらない行動に目を丸くしながらも、素直に口に含む。
一口サイズのフィナンシェは味わい深く、しかしすぐに口の中で溶けてしまうことが名残惜しく。
久しぶりの甘い魅惑を少しでも味わおうと、ユーフラテスの指先に付着する残りを舐め取った。
「……やると思った」
ユーフラテスは顔を真っ赤にさせながら、しかし怒り出すこともなく親指でそのままネモフィラの唇を拭う。
これまでなら、はしたない! と雷が落ちているところだ。
それ以前にいつもユーフラテスは品よく座っていたし、手掴みで口に菓子を押し付けるなんて品性に欠ける振る舞いは絶対にしなかった。
菓子の残りかすが口についていたら、ハンカチをよこした。
――殿下はどうなされたのかしら? いえ、これはよく考えましたら、ヒロイン相手にこんなスチルがありましたわね……。
なぜ悪役令嬢のわたくしに、とネモフィラは怪訝な目でユーフラテスを見るも、ユーフラテスは機嫌よさそうに口角をあげている。
乙女ゲームでのユーフラテスは十歳の少年ではなく、大人の色気を醸し出す美丈夫で、ヒロインを相手に微笑む姿は落ち着きのある紳士そのものだったし、こんなに意地悪そうな顔はしていなかった。
愛おしげに、慈愛溢れる目をヒロインに向ける乙女ゲームのユーフラテス。
ネモフィラに向ける、高慢な様子で愉悦の色をのせた、目の前のユーフラテスとはまるで違う。
――殿下はわたくしのことをお嫌いなのかと思っておりましたけど、ちょっと違うようですわね。珍獣か何かだと思ってらっしゃるのかしら?
これまで婚約者としてそれなりに扱ってくれていたのは、政略結婚で仕方なく礼節を重んじてくれているのかと思っていたが、ペット扱いされていたというのなら合点がいく。
不出来で不快だろう存在のネモフィラに、いやに優しいな。と思うことが時折あった。
それらはユーフラテスにとって、ネモフィラは滅多に見ない珍しい生物であり、躾けて手懐けようとしていた。ということだったのだろう。
つまり今のは餌付けだ。
ユーフラテスは更に紅茶のスノーボールを手に、ネモフィラの顎をまた引き上げる。
これは間違いない。
ネモフィラはユーフラテスのペットだ。
「ほら、口を開けろ。これは崩れやすい」
「殿下、もうそろそろ……」
ヒューバートが止めに入ろうとするので、ネモフィラは慌てて口を開けた。
ユーフラテスが食べさせようとするのを、ヒューバートが止めることは難しい。
だがここでユーフラテスの餌付けが終わってしまったら、残りの焼き菓子がネモフィラの口に入ることはないだろう。
ぱくん、と口に入れると、ユーフラテスが満足そうに頷いた。
「れんか、おいひいれすわ」
もごもごと口を動かしながら礼を言う。
何やら横で兄ヒューバートが頭を抱えているようだが、知ったことではない。
ネモフィラに小言のうるさいヒューバートだが、これまたいつもマナーにうるさいユーフラテスが寛大に許しているし、許しているというよりむしろ自ら率先してマナーを破っているし、何より第二王子で身分が上だ。
ヒューバートが口を挟めることではない。
そもそも婚約者の茶会に割り入って邪魔しているのはヒューバートなのだ!
ユーフラテスはヒューバートを一瞥すると、フランボワーズのシュトロイゼルクーヘンを手に取った。
「まだ食べるか? キャンベル卿はやめさせたいようだが」
「やめないでくださいましっ!」
必死の形相でユーフラテスに言い募ると、ユーフラテスが可笑しそうに笑う。
「そんなにうまいか。では口に入れるぞ」
「はいっ! いただきますっ! お願いいたしますわっ!」
ネモフィラが勢いよく挙手すると、ユーフラテスは目を丸くした。
「おもしろい動きをするな」
「あ……これは……」
貴族令嬢が勢い余って挙手などまずかっただろうか。
またユーフラテスの機嫌を損ねてしまったのだろうか。と挙上した手を下ろして口元に当てて、どうにか取り繕えないかとネモフィラは狼狽える。
「構わん。元気でいい」
目を細めて笑みを浮かべたユーフラテスは、これまで見たことのないくらい、優しい顔をしていた。
ネモフィラが目を丸くすると、ユーフラテスがまた、顎に手を添える。
ぽろぽろと崩れ落ちるシュトロイゼルクーヘンをネモフィラの口に押しやると、その指先をネモフィラから離した。
「あとで他の箱も開けるといい。菓子はあれで仕舞いだが、お前の気に入るものがあるはずだ」
ユーフラテスは指に残ったフランボワーズのソースを舐めとった。
第二王子とあろう者が、実にお行儀が悪い。
ネモフィラはユーフラテスの滅多に見ない粗野な仕草に、目が奪われた。
なぜか胸の奥が、ぎゅっと痛む気がした。