10 十二本の白薔薇
ユーフラテスの載った馬車がキャンベル辺境伯家の門の前につくと、門番の騎士が馬車に印された紋章を一瞥し、門を開け敬礼した。
門手前には、キャンベル辺境伯家タウンハウスの家令が、ユーフラテスの到着を礼をしたまま待っている。
ユーフラテスの侍従が先に馬車から降り、待ち構える家令へユーフラテスの到着を告げる。
それらを馬車から降り立ったユーフラテスが見守ると、家令より少し下がったところで控えていた辺境伯、辺境伯婦人、嫡男ヒューバート、長女ネモフィラ、次男ハロルド、執事、家政婦長、以下使用人達が一斉に礼をする。
ユーフラテスは頷き、軽く手を挙げた。
「皆の者、顔をあげよ」
硬質なユーフラテスの声とともに、また一斉に顔があがる。
ネモフィラだけ一拍遅れていたが。ちなみにカーテシーもヨロめいていた。
ユーフラテスは見なかったことにした。
「この度の歓待、心から感謝する」
辺境伯家の者が静まり返ってユーフラテスの言葉に耳を傾ける。
ユーフラテスはそれを軽く見渡して、次の言葉のために口を開いた。――ところだった。
「まあ! 偉そうですわ!」
すっとんきょうなネモフィラの声が、静まり返る中、空気を震わせるように響き渡る。
辺境伯が目を丸くしてネモフィラに向き直り、辺境伯婦人は今にも倒れそうによろめき。ヒューバートは額に手をあて、ハロルドは真っ青な顔をしていた。
ネモフィラはパチパチと目を瞬いている。
ユーフラテスは思わず声を上げて笑い出した。
◇
「元気そうで安心した」
ユーフラテスは紅茶を一口含むと、カップをソーサーの上に音もなく置いた。
婚約者同士の久々の茶会の席として設けられたのは、美しい大理石の敷き詰められたフロアに、同じ大理石のテーブルとチェアが並ぶ中庭だ。
そこに今、ユーフラテスとネモフィラが向かい合うように座り、それからネモフィラのお目付け役としてヒューバートが二人の間に挟まれた形で、テーブルから気持ち離した場所にチェアを引いて腰かけている。
「殿下にはご心配をおかけして、申し訳ないことを致しましたわ」
「心配などしていない」
珍しく殊勝な言葉を口にしたネモフィラだが、言い終えるか終えないかというところで、被せるようにユーフラテスが否定した。
ネモフィラとヒューバートの二人の視線が同時にユーフラテスへと向く。
ユーフラテスはヒューバートの座る緑あふれる田園式ガーデンの見渡せる側とは逆、邸宅側へと顔を向け、プランターに咲き誇る、色とりどりの花を眺めている。
三人のいる大理石のフロアから少し離れたところから螺旋階段が始まり、二階バルコニーへと繋がっている。
その先は応接室に通じていて、大きく取られた窓からは落ち着いた深紅のカーテンに、重厚な調度品が覗く。
螺旋階段の傍には丸く整えられた低木が並び、一階リビングの手前には緻密な彫刻の施された白肌の大理石のプランターが完璧に計算された配置でいくつか置かれている。
そんな辺境伯家タウンハウスを何の感動もない様子で眺めるユーフラテスに、ネモフィラは目を眇めた。
「……それは失礼を致しました」
「そんなことはない」
ユーフラテスがまたもや、即座に、端的に否定を口にする。
「ごほんっ」
ヒューバートが咳払いをした。
「……殿下よりいただいた素晴らしい贈り物の数々、改めてお礼申し上げます」
「礼などいらん」
素っ気なく言い放ちながらも、ユーフラテスの右手がカップのハンドルを掴んだり、また膝の上に戻ったりと優雅な往復を繰り返している。
ヒューバートはしっかり見咎めていた。
ヒューバートはボンヤリと様子を眺めるネモフィラの目を捉え、軽く頷いて見せる。
しかしネモフィラは兄ヒューバートの意味するところがわからず、首を傾げた。
ヒューバートがニッコリと微笑む。
アイコンタクトだけでネモフィラが了解出来るとは、ヒューバートも考えていない。
ユーフラテスが視線を紅茶に落としている隙に、ヒューバートは『お・れ・い・を・言・い・な・さ・い』と唇を動かした。
「ああ!」
合点がいったという具合にネモフィラが両手を叩くと、ユーフラテスが不審そうな目でネモフィラを見る。
ネモフィラは仕舞った、というように口元に手をやり、ヒューバートに視線をやった。
ヒューバートは微笑んだまま頷いている。
ネモフィラは頷き返すと、ユーフラテスに微笑みかけた。
「殿下、わたくしからもお礼申し上げますわ」
「……構わん」
無表情を貫くユーフラテスの手の動きが少し早まる。
「ネモフィラ、殿下のくださった花束をよく見たかい?」
「……? ええ、白薔薇とブルースターの可憐な花束でしたわね。とても素敵ですわ」
ネモフィラが花に興味を寄せないことを知っているはずのヒューバート。
何を言いたいのかわからず、ネモフィラは顔一面に『わかりません』という表情を浮かべている。
「カスミソウもあったが……そうだね。殿下の御心の込もった、素晴らしい花束をいただいたね、ネモフィラ」
「はい」
ヒューバートがちらりとユーフラテスを見ると、ユーフラテスはヒューバートを睨みつけていた。
ヒューバートは見なかったことにする。
「まるでネモフィラの花のように可憐なブーケだったと思わないかい?」
「あら、そう言われてみれば、そうですわね」
ネモフィラは目を丸くしている。少しも思い当たらなかったらしい。
確かにこじつけのようなものだが、ヒューバートにはユーフラテスの心が手に取るようにわかった。
ネモフィラの花は広い花壇に地植えしたりプランターに寄せ植えすれば映える花だが、花束にするには少々難しい。
徒長し茎が伸びたものは、茎の長さは足るが太さが足りない。
おそらくユーフラテスにとっては、ネモフィラの花こそ贈りたい花だっただろう。
ユーフラテスの眉間に寄せた皺が深くなる。
ヒューバートは再度ネモフィラに問いかける。
「白薔薇が何本あったか知っているかい?」
「いえ……申し訳ございません」
ネモフィラは眉を下げ、ユーフラテスに謝罪する。
ユーフラテスはつまらなそうに手を振った。
「そんなもの、数えなくていい」
ユーフラテスが眼光鋭くヒューバートを睨みつけると、ヒューバートはその視線を受け流すようにネモフィラへと向き直る。
「十二本だよ、ネモフィラ。十二本の白薔薇」
ヒューバートは微笑んだ。
ネモフィラはきょとん、とする。
「キャンベル卿!」
ユーフラテスが声を荒げる。
「愛情、情熱、感謝、希望、幸福、永遠、尊敬、努力、栄光、誠実、信頼、真実……」
ヒューバートが十二の言葉を諳んじる。
「赤薔薇ではなく白薔薇とは、殿下の誠実なお人柄そのものですね」
「………………」
ヒューバートが微笑みかけると、ユーフラテスは不機嫌さを隠さず、明らかに視線を逸らした。
ヒューバートから背けられた顔は覗けないものの、くすんだ金髪から赤く染まった耳が見え隠れする。
くすりと笑うと、ヒューバートはさらに言葉を重ねる。
「ブルースターとカスミソウの花言葉を知っているかい?」
「……いいえ」
邸宅側へと上半身を完全に背け切ったユーフラテスを不思議そうに眺めながら、ネモフィラは兄の質問に答えた。
「ネモフィラがあまり花に関心を寄せていないことは私も知っているが、もう少し学んだほうがいいね」
「……はい、お兄様」
またお小言か、とネモフィラはゲンナリする。
――わたくしの前世の世界で、花言葉なんて重要ではなかったわ。花束を贈る男性もあまりいなかったけれど。
つくづく面倒くさい世の中に生まれ落ちたものだ、とネモフィラは思う。
「これはネモフィラへの課題としよう。よろしいでしょうか、殿下」
「好きにしろ」
それまで説教を受けていたネモフィラに代わって、話を振られたユーフラテスは視線を戻すことなく、ぞんざいに応じた。ヒューバートは「では、然様にいたします」とくすりと笑う。
ネモフィラはパチパチと目を瞬いた。