1 第二王子ユーフラテスとの婚約
この国の第二王子を婚約者に持つ、辺境伯家の長女ネモフィラは、落ちこぼれだとか欠陥令嬢だといった、不名誉な呼ばれ方を得ていた。
主に婚約者のユーフラテスから。
「本当にお前は鈍臭いな!およそキャンベル家の人間とは思えん」
「この俺に相応しくない」
「どうしてそんなに間抜けなんだ」
「この馬鹿」
それがネモフィラに対するユーフラテスの口癖だった。
実際ネモフィラは、地味で目立たず、どちらかというと陰気で頭の回転も遅く、礼儀作法もなかなか身につかずにいる。
運動は苦手で、散歩もダンスも碌にしないのに食欲だけは旺盛で、毎食山ほど美食を楽しむ。そのお陰で貴族令嬢にはなかなか見ない、ふくよかな体つきの少し残念な令嬢だった。
父と同じブルネットの髪は丁寧な手入れによって豊かに波打ち、美しい艶を放っているが、平民によくいる色で、母と同じ淡い水色の瞳は色も薄く、地味でつまらない。
不細工とまでは言わないが、決して美人ではない。
小さく低い鼻、少し離れ気味の小さくつぶらな瞳、丸い顎、小さく薄い唇。
丸い顔をキャンバスに描かれているのは、全てが小作りなパーツ。そしてそのキャンバスは決して小さくはなく、余白が余っている。
貴族令嬢なので、それなりに手入れし整えてはいるが、精一杯頑張った上で、下駄を大いに履かせた世辞の「お可愛らしい」の評価がせいぜい。
地味な外見に加えて、同じ年頃のご令嬢ともうまく会話が続かず内向的で、またダンスに刺繍、レース編み、楽器に礼儀作法といった令嬢としての教養、歴史や地理、読み書きといった学問のいずれも、家庭教師からもっと努力するようにと溜息をつかれる毎日。
落ちこぼれ令嬢ネモフィラだったが、家柄はよかった。逆にそれくらいしかネモフィラの取り柄はないと言ってもいい。
国内最大戦力を有するキャンベル辺境伯家。
純血主義を掲げ、宮内の権力を奪い合い蹴落としあう魑魅魍魎たる王都の大貴族とは、また異なる力を有する。
建国以来、隣国に対する抑制力・防壁として在り続ける旧家。由緒ある武勇の名家。それにも関わらず、これまで王家との血縁関係のなかった家であり、そして婚姻による結びつきを王家より熱心に望まれる家。
それがネモフィラの生家だ。
ネモフィラはその血筋ゆえ、第二王子との婚約が決まった。
ネモフィラが五歳の誕生日を迎えて間もなくのことだった。
◇
艶やかな深紅の薔薇が咲き誇る王城の庭園。
整然と整えられた緑の生垣がぐるりと囲み、蔓薔薇のアーチを抜けたところに唐草模様の繊細な透かし掘りが施されたテーブルセットがある。
ネモフィラは父親であるキャンベル辺境伯に連れられて、共に登城すると、眼鏡をかけた細身の初老の従者に庭園へと案内された。
従者に椅子を引かれ、ネモフィラは腰を下ろす。薔薇の芳香がネモフィラの鼻をくすぐった。
ざっざっ、と、生垣の向こうから幾人かの足音。
それに気が付いた辺境伯が、ネモフィラに立ち上がるよう促した。
礼をして待て、と辺境伯が言うので、ネモフィラはぶるぶると震えながら淑女の礼を保とうとする。
今にもグラリと傾いでしまいそうな娘の姿に、辺境伯は眉を顰めた。
第二王子を出迎えるこの場で、挨拶も交わす前に倒れるような失態を晒すわけにはいかない。
辺境伯は静かにネモフィラの背後へ回ると、一見そうとはわからぬよう、そっとネモフィラの背を支えながら、自らも礼をして第二王子一行の訪れを待つ。
ネモフィラは遠慮なく辺境伯に凭れた。
足音が止まる。黒く光るブーツのつま先が、斜め下へと下げたネモフィラの視界に入ってきた。
「顔を上げろ」
強い口調で命じられ、辺境伯とネモフィラは顔を上げる。辺境伯はネモフィラから半歩斜めに下がり、すっかり凭れ掛かっていたネモフィラの体が揺らぐ。
辺境伯が挨拶をし、ネモフィラも拙い様子でそれに続くと、少年は鷹揚に頷いた。
「第二王子ユーフラテスだ」
顎をつんと反らし、胸を張りながら、目の前の少年が尊大な様子でネモフィラに名乗った。
くすんだ金の髪に、髪と同じ色の太くきりっとした眉、切れ長のアンバーの瞳。細い鼻梁がまっすぐ伸びた先、鼻尖はツンと尖り美しく、シミ一つない白皙の肌に、淡く色づいた薄い唇は固く引き結ばれている。
一つ年上のネモフィラの婚約者。
ネモフィラは王子相手に不敬だという頭もなく、上から下へと視線を往復させ、まじまじと眺めた。
――ハロルドの方が美しいわ。
ネモフィラはまだ生まれたばかりの赤子である弟を思い出し、その美貌を比べていた。
美貌といっても、一歳にも満たぬほんの赤子のハロルド。しかしネモフィラの脳裏には美しく成長したハロルドの美丈夫たる姿が、なぜか自然と思い浮かんだ。それは将来のハロルドの姿に間違いないと確信できた。
対するユーフラテスも王子なのでもちろん整った顔立ちをしているのだが、どこか酷薄そうで、傲慢さを感じた。
好みにもよるだろうが、ネモフィラの脳内で燦然と輝く、成長したハロルドの姿のほうが、よっぽど王子様然として麗しく、ネモフィラの心を惹いた。
ジロジロと王子殿下を矯めつ眇めつ眺める娘に、辺境伯は内心ハラハラしながらも、ユーフラテスは特に気に留めることもなく、婚約者同士の顔合わせは、その後恙無く進んだ。