昇る月の裏側
師走に入ってまだ間もないその日、地方の名も無い駅で飛び込み自殺があった。すでに暮れかけた日曜の夕方五時頃、平日と違ってホームに人影はまばらだった。飛び込まれた列車は通過する特急だった。一報を受けて駆けつけた警察官と救命士が処置に当たったが、遺体の損傷が激しく、身元の判明すら覚束なかった。ただ、一つだけ手掛かりになるとすれば、それは無傷で見つかった右手の人差し指だった。仮に前科があるなどの人間なら、それはその遺体の履歴書に等しかった。早速、指揮に当たっていた警官の一人が鑑識に回す手配を取った。
遺体の身元はすぐに割れた。しかし、その指が明かしていたのはそれだけではなかった。その指は、深く、暗い、大小二つの川が交叉する地点を真直ぐ差していた──
一
その年の八月、彼はこの町へ越して来た。どこにでもある地方都市の、小さな町だった。建設現場を渡り歩く暮らしが長く続くと、その度に住む場所が変わったが、どの土地もある一定期間の止まり木に過ぎず、似たり寄ったりの風景にも慣れていた。部屋は現場へ歩いて通える一間を借りた。列島に熱波が居座り、酷く暑い夏だった。
現場が始まると、日々は坦々と過ぎた。さすがの残暑もそろそろ背中を見せていた。そんな中、彼は彼女と出遭った。そこは現場への行き帰りに通る公園だった。横切れば数分も掛からない、ひっそりとした地域の中にポツンと置かれた公園だった。回りを囲む背の低い鉄製の柵は錆のかさぶたが目立ち、かなり痛んでいた。園内にはブランコ、滑り台、高中低の鉄棒。それと猫の額ほどの砂場。そして、最後に判で押したように、埃っぽい緑が数ヵ所あった。
この日、彼は仕事の帰りだった。ふだんより現場が早く終わり、まだ陽のたっぷりある内に公園へ差し掛かった。そして、いつも通り、そのまま中を横切って行った──。
彼女は鉄棒の前に立っていた。こちらからは行く方と反対の、右手奥に見えていた。もう長いあいだ自分から人へ目をやることは滅多になかったが、高中低、どれにしようか?迷っているようなのが気になった。しかし、立止まることなど考えていなかった。まして、近寄る気などなかった。それが──、
「身長からいったら、中がいいだろうけど、蹴上がりが出来るんだったら高いのもいいし、そのままグルっと回るだけなら低いのでいいんじゃないかな」
彼は彼女の近くまで来ると、そう話し掛けていた。ハッとしたのは自分の方だった。心が先に歩き出して身体が後追いしたような、こんな気持ちは久し振りだった。と同時に、それをどこかで警戒するもう一つの心がすぐに動くのも分かった。
「──えっ」
彼女はそこへ人が来たことなどまったく気づかなかったように声を上げた。
「ぜんぜん見えなかった・・・」
「中学の体育の授業で、鉄棒ってまだやるの?」彼は構わず続けた。
彼女は中二と名札の入った草色のジャージーを着ていた。背は高くはなかったが、短い髪が好く似合う、活発そうな女の子だった。
「おじさん、誰?」
「ごめん。驚かしたね」
彼はじきに生じた気まずい(下手をすると危ない)空気に、少し慌てて首から垂らしたタオルの両端へ手をやった。
「お嬢さん、変に思わないでね。怖がらないでね」
「お嬢さん?」
彼女は首を傾げて自分を指差すと、彼の心配していた事態とは裏腹に、突然ケラケラと笑った。
「誰が?わたしが?」
「だって、男の子じゃないよね」
彼は内心ホッとしながら、笑うと円い顔がさらに真ん丸になる彼女に、つとめて柔らかく応えた。
「わたし、お嬢さんって柄じゃないでしょ。それに、おじさんだって柄じゃないと思うけど」
「俺が?柄じゃない?」
「どう見たって、『お姉ちゃん』って声掛そうでしょ」
「お姉ちゃん?そうか・・・」間を措かず、彼は自然に笑いが込み上げてきた。「ハハハッ・・・なるほど。たしかにどう見たって、俺の柄じゃない」
「おじさん、この近くで工事してる人?」
「うん。この先に──」
そう言うと、彼は来た方を振り返り、その先を指すように手を伸ばした。
「大きな河があって、土手があるよね。その河川敷の補強工事をしてる」
「この町の・・・人じゃないよね」
「どう見たってね」彼はニコッと返した。「先月の初めに越して来たから、もう一月かな」
「きっと、おじさんなんかみたいな仕事している人は、いろんな場所を知ってるんだろうね・・・」
そう言うと、彼女は意を決したように高い鉄棒へ飛びついた。そして、振り子のように身体の反動を使い、タイミングを計って一気に足を蹴り上げた。けれど、上半身が鉄棒の上に出て、両肘をグッと突っ張り、身体をリフトする段になると、その前に力尽きた。彼女は間を措いて二度三度繰り返したが、結果は同じだった。
「やっぱり、女の子には最後の力業のところがちょっと辛いかな」
彼は優しく声を掛けた。
「今年の六月に鎖骨を折るまでは、三回に一回は上がれたんだよ」
「そうだったんだ・・・」
「ええ」 彼女は頷くと、高い鉄棒をうらめしそうに見上げ、下をくぐった。
「おじさんは遠いむかし・・・、遠い昔なんてごめんね」
「いや。構わないよ」
「たぶん、蹴上がりが出来たでしょ?」
「うん、出来た。本当に遠いむかし・・・」
彼は彼女が(遠い)距離に置き換えてくれた時間(むかし)を一足に駆け戻った。
「たしか、初めて蹴上がりが出来たのは中学二年生だったから、もう四十年以上前になる」
「ちょうど、今のわたしの年だ」
「そうだ」彼は大きく頷いた。「そうなる・・・」
「得意だったんだ?鉄棒」
「夢中になって練習したからね。大車輪まで回れるようになった」
「ほんとに?すごい」
彼女は胸の前で手を叩くと、自分のことのように、人懐こい丸顔を弾ませた。
「四十年も前の話でそんなに喜ばれると、なんだか照れちゃうな」
「それも柄じゃないよ」
「年甲斐もなく?ハハハッ・・・」
「ヘヘヘッ・・・」
しばらくして、話の中、近くの工場から終業を告げるサイレンが鳴った。
「五時だね。わたし、そろそろ帰らなくちゃ」
「そうだ。暗くなる前に──」
気がつくと、陽はすでに彼の現場がある河の方へ向かって、だいぶ傾いていた。
また会える?と言ったのは、彼女の方だった。彼は少し恐かった。
それから、彼の現場が早く終わる日、彼女が帰らなければならない五時までの夕刻、二人はこの公園で会うようになった。
その日、彼女は様子がおかしかった。普通なら彼の姿を見つけると、すぐに鉄棒の向こうからこちらに手を振るのが、顔をそらして俯いた。
九月も半ばを過ぎて、陽の暮れるのがすっかり早くなっていた。彼は自分の影を追い越すように先を急いだ。
「どうしたの?」
彼は前へ来るなり訊いた。
「何かあった?」
「おじさんと、きのう会えれば良かったのに・・・」
彼女は自分の足下に目を落としたまま、呟くように小さく声を上げた。
「ごめん。きのうは仕事が押して──」
彼は自分の現場の終わる時間が何時になるか分からなくても、彼女が毎日ここへ来て、工場のサイレンが鳴るまで待っているのを知っていた。
「本当は、前もって教えられるといいんだけど・・・」
そう言うと、首のタオルに手をやり、赤黒く焼けた額に残る、乾いた汗の上積みを拭った。
「わたし、おじさんと・・・」
少しして、彼女はようやく顔を上げた。
「話したいことが・・・、この高い鉄棒に届くほどあったの」
「そうだったんだ。この高い鉄棒に届くほど・・・」
彼は彼女に釣られて上を見ながら、自分にはこの高い鉄棒を越えられないだろう話が一つある、とふと思った。
「──おじさん」
「ハイよ」
「わたしの名前は岬ちひろ。おじさんの名前は?」
「んっ──」彼は予期しなかった流れに、彼女が向けた強い視線から一瞬目をそらした。「俺の名前?」
「教えて。ちひろに」
「俺の名前ね・・・」
「そう。おじさんの名前」
「いいよ。俺の名前は新木三男」彼は流れに乗る方を選んだ。「あらきのアラは荒れるアラじゃなくて、新しいの、アラ。ミツオは三つの男」
「ありがとー」
もしかして駄目かも・・・、と心配していた様子の彼女は急に顔を緩めた。そして、じきに真ん丸になった。
これで良かった、と彼は思った。一つ嘘を吐くことも、一つ本当のことを言うことも同じだ。どちらも、もう後戻り出来ない・・・・・・
二
ちひろの家は二人が会う公園からそう遠くはなかった。新木が働く一級河川の支流を挟んで二分する、町のあちら側だった。新木は支流の川沿いに一間を借りていたが、ちひろはあちら側の中心部の商店街にある、父親の会社が所有するテナントビルに住んでいるらしかった。兄三人、妹一人の七人家族ということだった。話によれば、最近の父親の不審な行動、以前からの母親のノイローゼ、何かと家庭に問題があるらしかった。しかし、新木をいちばん驚かせたのは、彼が彼女に初めて遇ったあの日、ちひろは初めて学校を無断で休み、それ以来不登校が続いているということだった。向こうにも公園の一つや二つあるだろうに、と思っていたが、それで分かった気がした。そして、どうして自分みたいな素性の知れないよそ者に・・・、という疑問も多少は解けた気がした。二人の関係は静かに進んでいた。
十月初旬、新木の現場を台風が襲った。河川敷は水に浸かった。完全に水が退くまでは仕事にならなかった。二三日休みになるかも知れない。そのことはちひろに伝えてあった。けっきょく休みは四日続いたが、その三日目の昼過ぎ、ちひろが突然アパートを尋ねて来た。
新木は玄関で戸を叩く音がするのにまず驚いた。ここに越して二ヶ月、部屋を尋ねて来る人はいなかったし、誰かが来るはずもなかった。しばらくそのままにしていると、もう一度トントントンと音がし、声がした。──新木のおじさん。わたし、ちひろ。
──ちひろ?新木は思わず声を上げた。そして、大急ぎで敷き放したままの布団を無造作に丸めて壁の角に寄せ、その横の空いた隙間にでっぷり太ったコインランドリー行きの袋を一つ二つ押し込んだ。
「パニくった?」
戸を開けると、ちひろがそう言って微笑んだ。
「これって、イタズラじゃないからね」
「とにかく、上がって」
新木はちひろを中に入れ、戸を閉める前に通路の左右に目をやった。二階から見る限り、アパートの裏手の通りに人影は無かった。川の向こうの景色を塞ぐ、土手のコンクリート壁だけがいつもと変わらなかった。
「怒ってる?」
ちひろは後ろに来た新木を振り返った。
「敷物がないから、そこらに座って」
「怒ってるよね」
新木は先に胡坐をかいた。
「怒っていない。ただ、びっくりしているだけ」
「ほんと?良かった・・・」
そう言うと、ちひろは腰を下ろして両膝を立て、それを胸に抱きかかえた。
「だけど、どうやってここが?」
「そんなの簡単。今は名前さえ分かれば、中学生のわたしにだって、その人のだいたいのことは分かっちゃうの」
「名前だけでだいたいのことが分かるの?」
新木は思わずちひろの言葉を追うと、自分の中でもう一度繰り返した。名前だけでだいたいのことが分かる・・・。
「ええ。どうして?」ちひろは反対に、不思議そうに訊き返した。
「いや。何でもない」
「おじさんは、今の時代に、その人が自由にできる秘密があると思ってた?」
「自由にできる秘密?」新木は頭を切り替え、少し大袈裟に首を傾けた。「ちひろちゃんは、時々おじさんには分からない難しいことを言うな」
「そう?わたし、たいして勉強出来る方じゃないよ」
「いや。そういうことじゃなくて──」
「おじさん。それ、どういう意味?」
「それは秘密」
新木はとぼけて笑うと、膨れるちひろを背中にして玄関脇の炊事場に立ち、少量のお湯を沸かした。
「熱いから気をつけて」
「ありがとー」そう言うと、ちひろは使い捨ての紙コップに入ったコーヒーを受け取った。
「菓子でもあればいいんだけどね。お昼は?」
「家で食べてきた」
「お母さんといっしょ?」
「うんん」ちひろは急に嫌なことを思い出してしまったように、力なく首を振った。「ママはこの時間、薬が効いてるから・・・」
「そうだった。ごめん」
新木は話を聞いて知っていた。彼女の母親は極度の不眠症で、医者から処方された薬の効いてくるのが朝方。それから午後を過ぎて夕方を回らなければ起きだして来ない。母親が台所に立たなくなってからは、家族の食事の支度は父親と彼女が分担した。しかし、このところ家に帰って来るのが遅くなった父親は、彼女の不登校をきっかけに(その理由を訊こうともせず)家事をしなくなった。低学年の妹は別として、三人の兄は自分達の容れ物にさっさと蓋をして、その中に逃げ込んだ感じだった。
「ところで──」
新木は話の矛先を変えた。
「やっぱりここへ来るのは・・・、おじさんは構わない。びっくりしたけど、嬉しかったよ。でも、変に思う人もいるだろうし、心配する人もいると思う」
「分かってる」
ちひろはしっかりした口調に変わると、いったん畳に置いたコーヒーを両手に挟み、フーフーと息を吹き掛けた。
「だから、なるべく人に見られないように来たつもり。それに、おじさんのことは誰にも話してない・・・」
安心して──。言外にそう聞こえてきた(気がした)。
「・・・・・・」新木は次に用意してあったはずの言葉を措いて、思わず黙った。
「おじさん。もうコーヒーいけるよ」
「ああ、そうだった」
新木は胡坐をかいた横の紙コップへ手をやったついでに、灰皿代わりの空き缶を引き寄せた。
「一本いいかな?」
「ちょっとだけ待って」
そう言うと、ちひろはすっくと立ち、布団を積んだ壁側にある曇りガラスの窓を僅かに開けた。
「よし。これでOK」
「すまないね」
新木はとりあえずコーヒーに口をつけて、それから立て続けに煙草を吹かした。けむりはそれまであった空気の流れを映すように、窓の方へ消えて行った。
「おじさん」
「何?ちひろちゃん」
「これ、やめない?」
「これ?」新木は首を捻った。
「だから、わたしがおじさん、おじさんがちひろちゃん」
「わたしがおじさん、おじさんがちひろちゃん?」
「だから呼び名」ちひろはじれったそうに言い足した。「わたし達の」
「あー、呼び名ね。呼び名をやめないってことか。ちひろちゃんがおじさん、俺がちひろちゃんっていう、これね・・・」
「それで、もうわたし決めちゃってるんだけど──」
ちひろは感心している新木を待っていられないように、先にどんどん進んだ。
「わたしがチー。ちひろの、ち、を取って。おじさんがアラキー。どう?」
「チーは可愛いね。良いと思う」
「アラキーはだめ?気に入らない?」
「そんなことない」新木は微笑んだ。「ただ、ちょっと照れ臭い気が・・・」
「OK。今日からチー、アラキーね」
喜び勇んで先を行くちひろに、窓からの西陽がひとすじ当たっていた。
新木はそれをふと目にして、灰の長くなった煙草を慌てて空き缶へ運んだ。
三
新木には家の近くに行きつけの定食屋があった。夜はほとんどその店で済ませた。夕方からは飲み屋を兼ねる『味富』は、七八人も座れればいいカウンターがあるだけの狭い造作で、老夫婦二人が切り盛りしていた。新木は客に馴れ馴れしく話し掛けようとしない彼らの仕事が気に入って、足繁く通うようになった。
この日も現場から帰って銭湯に行き、その足で『味富』へ寄った。先客は決まって二人、常連だった。新木は厨房に軽く目釈をし、ラックからスポーツ紙を一冊抜き取ると、慣れた席に座った。ここからは少し右に顔を上げれば、ちょうど良い距離にテレビがあった。
いつものことだったが、手の空いた老夫婦は二人してNHKのニュースを観ていた。しばらくすると、旦那さんより横に一回り大柄な奥さんが、カウンターを回って水を持って来た。使い込んだ白い割烹着は、いつ来ても洗い立ての懐かしい(と新木は思ってしまう)匂いがした。
新木は注文を済ませ新聞に目を戻した。──が、またじきにちひろのことが気になった。彼女がいきなり家を尋ねて来た、あの日以来一週間、仕事が早く終わった今日もまた彼女の顔を見ることはなかった。「チー、アラキーね」とそれまで目にしたことがないほどの燥ぎ様だっただけに、その後の不在がよけい気になった。何かあったのか?いや、あの時すでに何かあったのか?きっと家庭内のことだろう、と新木は思った。母親の心の病気。最近の父親の不審な行動。兄妹との関係。そして、彼女自身の(不安?)
新木は頼んだビールが来ると、新聞を横へやった。テレビからは全国版のニュースが終わり、それに代わって各々の地方局の番組が流れていた。画面には先日のこの地を襲った台風の爪痕と題して、新木が働く現場の河の氾濫が映し出されていた。ヘリコプターから空撮したその映像に新木の現場は捉えられていなかったが、それを目にした常連の一人がすぐに声を上げた。
「見ろよ、おやじ。大きい方の河が映ってるぜ」
「ああ、そのようだね」
「内の方の小さい川も大変だったんですよ」
愛想の無い旦那を庇うように、横から奥さんが代わりに応えた。
「こっちは河川敷なんか有って無いようなもんだから、まだいいようなものの・・・」
「そうだ。そうだ」年配の常連は満足したように頷くと、またテレビに戻った。
そうか・・・大きい河、小さい川か・・・と、初めて知ったそのことを新木は胸の中で呟きながら、頭の中ではちひろのことが忘れられなかった。チー、いったい何があったんだ?顔を見せて、アラキーに話してくれ・・・。
「おい。今度は臨時ニュースだって」
「また、嫌な事件ですかね」
「女子中学生が飛び込み自殺したって。二つ先の駅だよ」
「えっ──」
新木は咄嗟に大きな声を上げ、テレビを見入った。過剰な反応に驚いたのは、周りにも増して自分だった。ニュースによると、自殺した女子中学生は三日前から行方が分からなくなっていた。少女の物と思われる、駅のホームで見つかった鞄の中には、母親に宛てた遺書が残されていた。身元や動機等については詳らかにしていなかった。
「何があったか知らないけど、まだ若過ぎるよ」
「可哀相にね。親ごさんも」
「自殺するのに若いも年寄りもない」それまで黙って観ていたおやじが、横でポツリと言った。「ただ死にたいやつが死ぬ」
まさか、チーが・・・。いや、そんなこと考えられない、と新木はすぐに否定した。たしかに彼女には複雑な家庭の事情がある。きっと、自身の(不安?)もある。けれど、だからと言って彼女が自殺などする訳ない・・・。しかし、ちょうど一週間前の(あの日、あの時の)彼女の異常な明るさを思い出すと、否定は簡単に裏返り、店主のおやじが言ったことをなぞって、考えられないことを考えていた。自殺するのに訳もへったくれもない。ただ死にたいやつが死ぬ・・・。
新木はのんびり食事をしている気分にはなれず、いつもより早く店を出た。まだ八時を少し回ったばかりだというのに、通りに人影は無かった。間遠な電灯の薄明かりが続く中、ひときわ青白く光る夜空をふと見上げると、右前方に、低く、真ん丸の月が昇っていた。それは小さい川の向こう側、ちひろの住む町の辺りだった。
新木はふと足を止めた。どうしよう?この先の橋を渡れば向こうの町に行ける。商店街はすぐに分かるだろう。もし自殺したのがチーだったら、きっと家の周りは大騒ぎになっているはずだ・・・。新木は動けなくなった。恐くなった。時間を稼ぐように煙草を点けた。辺りはアパートが立並ぶ割には空き部屋が多く、不気味なくらい静かだった。どうしよう?新木は繰り返した。このまま歩いて次の十字路を右に曲がれば人道の橋に出る。真っ直ぐ行き過ぎれば部屋へ帰る・・・。その時、後ろからサッと来た風が煙草の火を紅く熾し、通り越した。新木はそれに圧されるようにゆっくり歩き出した。しかし──、
心はまだ決まっていなかった。揺れていた。恐いのは、自殺したのがちひろかどうか?それを知ることではなかった。今ここで向こうへ橋を渡れば、これまでの自分達の関係が終わる気がして、恐かった。彼女から聞いた話以外、知らなくていい彼女を知ってしまったら、ちひろはもうチーでなくなり、新木(俺)はもうアラキーでなくなる、そう思えた。ちひろはそれを望まないはず・・・。
新木は十字路をそのまま突っ切った。右上空には相変わらず真ん丸の月が煌々と輝いていた。その加減は何か笑っている様にも見えた。
自殺したのはちひろではなかった。新木はそれを事件の翌日の現場で知った。噂では、電車に飛び込んだ女子中学生は母親の再婚相手の新しい父親に性的虐待を受けていた。遺書にはすぐ下の妹のことが何か書かれていた(らしい)。
ちひろが新木の部屋へまたいきなり現れたのは、それから二日後の日曜日のことだった。
新木は朝から部屋の掃除をし、昼は買い置きの弁当を食べ、夕方まだ陽のある内にコインランドリーへ行こうと思っていた。
新木は久し振りの再開にどういう顔をして、どう接していいか、戸惑った。今日まで会えずにいた焦りだけは隠したかった。
「──アラキー」
ちひろは新木の顔を見た瞬間、まるでそのまま抱きつかんばかりの勢いで玄関に飛び込んで来た。
「チー」新木は一二歩後退りしながら、どうにか声を返した。「とにかく、上がって」
「お邪魔します」
新木はちひろを先に行かし、自分はお湯を沸かしてコーヒーを淹れた。
「熱いから」
「ありがとー」
「元気だった?」
そう言って新木は窓を少し開け、腰を下ろすと、さっそく煙草に手をやった。
「アラキーは?」
ちひろはいつもの草色のジャージーを穿いていたが、上は割りと大き目の、ざっくりした白い手編みのセーターを着ていた。
「ああ、元気だった。それより、今、気がついた」
「何を?」
「チーの、そんな格好・・・」
「あっ、これね」ちひろは新木の視線を点々と追うように、急いで自分のセーターへ目をやった。「でも、下はお決まりのジャージーだよ」
「そうすると、ずいぶん違うもんだ」
「女と男の子の間くらいに見える?」
「いやいや、りっぱな女の子だ」
そう言うと、新木は大きな声を出して笑った。もう戸惑いは消えていた。
「分かった。次回は下もチャレンジして来る」
「楽しみだ」
ちひろは手に挟んだコーヒー越しに微笑んで頷くと、しばらく黙った。
「アラキー」
「どうした?」新木はちひろの変化をすぐに察した。「何かあった?」
「・・・・・・」
「いいから、話してごらん」
「うん・・・」
そう言うと、ちひろはまた顔を落とし、下に置いた紙コップの縁を指でコツコツ打った。
「それがね・・・。わたしね・・・。見ちゃったの」
「見ちゃった。何を?」
「パパの浮気現場──」そう言うと、ちひろは勢いよく顔を上げた。「知らない女と腕を組んで楽しそうに歩いてた」
それはちひろが新木の部屋を初めて尋ねて来た、その帰り道のことらしかった。人道の橋を渡った向こう側の土手沿いにラブホテルらしき建物があるのは、ド派手なネオンの先端がこちらの通りからも覗えるので新木は知っていた。──パパの相手は若かった。今風の私服を着ていたけれど、もしかすると援交かも知れない、とちひろは言った。そして、ここ最近のパパの怪しい行動がこれでようやく分かった、と付け足した。
どう返事をしていいものか?新木は困った。慰めが不要なことは分かっていた。話を逆戻りして、「ホテルから出て来たところを見たわけじゃないでしょ?」と訊くのが余計なことも承知していた。けれど、何か言わなければならない・・・。チーが待っていた。
「おじさんはもうチーが半分大人だと思って、今から話すよ」
そう言うと、新木は組んでいた腕をほどき、新しく煙草を点けた。
「たぶん、男には女に上手く説明できないことが二つくらいある、はずだ。一つは母親の懐かしい匂いの記憶。もう一つはおつむの中の性欲」
「おつむ?」
「チーには頭って言った方が良かったね」
「男の人の、頭の中の性欲ってこと?」
新木は大きく頷いた。
「だけど、女にだって性欲はある。ママにだって・・・」
「もちろんそうさ。だから、おじさんは言ったはずだよ。おつむの中の性欲って」
「そんなのズルイ。男の性欲は特別ってことでしょ」
「うん・・・」
新木は返答に詰まった。と同時に、こちらを真剣に見詰めるちひろの視線から、彼女に取って自分が男であることを初めて強く意識した。恐かった。
「たしかにチーの言う通りかも知れない」
少しして、新木は自分に取ってもちひろが(半分大人どころか)もうとっくに女であることを認めながら、無理して口を開いた。
「たぶんズルイかも知れない。でも、おつむの中の性欲っていうのは、良い悪いは抜きにして、豊か、いや、我儘だから、つい好い気になって、何て言うか・・・」
ちひろは黙って聞いていた。
「年甲斐もなく夢を見る。もう一度考えられるんじゃないか・・・」
そこまで言って、新木は話を止めた。
「駄目だね。やっぱり、上手く説明することが出来ない」
「アラキー・・・」ちひろは可笑しくてならないのを我慢するように言った。「言い訳を説明するのは、すごく難しいことだと思うよ」
「やっぱり、そうか・・・」
新木は灰皿の上へいったん載せた煙草に手をやる間もなく、苦し紛れに笑った。
「それに、ほんとのこと言って」ちひろは続けた。「まだ浮気で良かった」
「浮気で良かった?」
「そう。だって、もしパパの問題が他の何か違うことで、それがもっと深刻だったら?そう想うと、まだマシ」
「なるほど・・・」
彼女が想像する深刻なこと。例えば何だったんだろう?新木は訊きたかったが、それを胸に仕舞い、空になったコーヒーのコップを持ち上げた。
「チー。もう一杯どう?」
「ありがとー。でも、まだ大丈夫」
「ごめんね。菓子一つなくて」
そう言うと、新木はお湯を沸かしにその場を立った──。
しばらくは他愛もなく時間が過ぎた。アラキーの部屋にはテレビも音楽も無い、と感心したり、窓にカーテンが無くて恐くないの?と驚いてみたり、どうしてカレンダーが無いの?と不思議がってみたり、そう言えば鏡も無い、写真も無いと、次々気づいたことを並べてみたり。でも、チーにはまだ話したいことが残っている・・・。新木には分かった。
「アラキー」
「ハイよ」
「わたし、今年の六月に鎖骨を折ったの、話したよね」
「ああ、聞いた」
「実は、怪我をするまでは部活でバスケットボールやってて、背は高い方じゃないけど、こう見えてけっこう上手かったんだよ」
「分かるよ。おじさんもそう思う」
「だけど・・・」
そう言うと、ちひろは急に声を落とした。
「怪我で部活に出られないようになって、いきなり何もやることがなくなってしまって、そしたら家にも学校にも自分の居場所が見つからなくなった。気づいたら、それまでなかった偏頭痛や腹痛が朝起きると始まるようになって、だんだんと授業を休むことが多くなった。そして、とうとう、アラキーも知ってる通り、不登校になった」
新木はちひろの話を何度か胸の中で立ち止まって聞きながら、自分が感じていた彼女の(不安?)のようなものがぼんやり形に成った気がした。
「だけど、チーだったら友達が多いんじゃないの?」
「一年生の時は学級委員だった。でも、表面の人気と内容は別」
「また難しいな・・・」
ちひろは新木の首の捻りを真似ると、少し笑った。
「簡単だよ。クラスのかしこい子達は、誰でも構わないから誰か独りにステージを与えるの。そして、自分達はその子の後ろで目立たないように、目立たないように注意して、例えば(例えばだよ)透明人間になろうとする。そうすれば、誰からも傷つけられることはない。反対に自分が傷つける方に回ったとしても、誰からも気づかれる心配はない」
「うん・・・。おじさんにはいよいよ分からなくなってきた」
「もちろん、友達と思える子も何人かいたけど」ちひろは続けた。「やっぱり最後には見えなくなっちゃった」
「チー。一つ訊いていい?」
「いいよ」
「チーは透明人間の方に回ろうと考えなかったの?」
「だって、その前に標的にされたもの。きっと、無防備に映ったのかも・・・」
「そうか・・・」
新木は最後の一本になった煙草を抜くと、その空き箱を潰した。
「でも仕方ない。学校でも家でも、ある意味、優等生やっていたから」
そう言うと、ちひろはそんな自分を思い出したように、遠くへ視線をやった。
二人はしばらく黙った。
開けた窓からは外の日陰を通って来た、微かにひんやりした風が入っていた。
四
十一月になって新木の現場は急に忙しくなった。何回かの台風で遅れた工期の調整をするためだった。夕方五時前に上がることはなくなった。自然と、ちひろは毎週日曜日の午後、新木の部屋へ来るようになった。公園で会う何日か分の時間をまとめて過ごす、そう彼女は言った。
その日、新木はちひろが帰ると、コインランドリーから銭湯へ回って、『味富』に立ち寄った。先客は二人。ラックからスポーツ新聞を取り、決まった席に座った。右上に視線をやると、テレビが定位置に収まった。間を措かず、懐かしい匂いが横にし、いつものようにビールを頼んだ。そして、今日のちひろの真っ赤なスカート姿を改めて思い出しながら、ゆっくり新聞を繰って、不意にその手が止まった。『アメリカでは州によって性犯罪者の個人情報をインターネット上で公開している。その州の何処に彼らが住み、どんな種類の性犯罪で受刑していたのか?住民はそれらの情報を簡単に知ることが出来る。防犯、人権、賛否はさて置き、今後この問題は日本でも議論を巻き起こしそうだ』
新木はビールが来ても、その記事から目を離すことが出来なかった。頭にはちひろが話していた「家にもパパの部屋にインターネットが引いてあって・・・」という言葉がすぐに思い浮かび、さらに「今は名前さえ分かれば、その人のだいたいのことは分かっちゃうの」と言って、いきなりアパートへ尋ねて来た時のことを思い返していた。チーの知っている俺のだいたいのこと?そのことを初めて真剣に考えた。
しばらくして、新木はようやく新聞を横にやり、ビールを注いだ。口を付けると、まだ良く冷えていたが、酷く苦かった。テレビからは歌番組が流れ、新木と同年輩の有名な歌手が持ち唄のサビに掛かっていた。若い頃の懐かしい曲だったが、今は反って鬱陶しかった。そして、新木はまたすぐに考えてしまった。・・・チーはいったい俺の何を知っているというんだ?彼女のアラキーは何者なんだ?俺のよく知るアラキーと同じなのか?いいや、まさかそれはない。それだけはない・・・、と信じたかった。でないと、来週も必ず来ると帰って行ったちひろが何者なのか?まったく分からなくなってしまう、そう思った。
食前のビールは一本で切り上げた。
外はいつの間にか地面が濡れていた。霧雨で、傘は要らないようだったが、少し肌寒かった。新木は洗濯物の詰まった袋を提げて早足になった。相変わらず人影は無く、ただ通り過ぎる電灯の蒼白い明かりが雨の細かい飛礫を晒していた。・・・けっこう降ってるんだな、と思いながら、しばらくして、新木は例の十字路に差し掛かった。もちろん上空に月は無かったが、視線を一つ落すと、向こうの土手下からド派手に点滅する電飾の光が顔を覗かせていた。それはちひろの話に出るまではまったく目に入らなかった、ラブホテルの看板だった。
新木は歩を止めた。厚手のスウェットの上下は僅かずつ雨に滲みてきていた。寒さも増していた。このまま部屋へ帰ること以外、たった今まで考えていないはずだった。ここで立止まっていること事体、すでに予想外のことだった。しかし、新木は自分でも上手い説明がつかないまま歩き出し、十字路を右へ曲がった。・・・いったい俺はどうしようというんだ?
橋を渡ると、足は自然と左に折れ、そのまま土手沿いを進み、ラブホテルの前まで来て止まった。向こう側から覗いていた縦長の看板は、豪華客船の煙突に擬えてあって、白塗りのホテル全体がそれを模していた。舳先の部分に当たる駐車場の入り口には、中を見え難くする巨大な暖簾の幕のようなものがしてあった。新木は思った。・・・チーの父親はここには車で来ず、少女と手に手を取って来たのだろうか?もしかすると今日だって、これから相合傘で現れるかも知れない。いや、もう中にいるかも知れない。いや、じきに中から出で来るかも知れない・・・。
・・・うんッ。新木は後ろから来た車のクラクションでふと我に返って道を空け、駐車場へ消えて行く車を見送った。・・・こんな所に男が独りで突っ立っていたら、さぞかし哀れに映っただろう。霧雨は止む気配がなかった。新木はスウェットにフードがあるのを思い出して被ると、来た道を橋の袂まで戻った──。
川を離れるにつれ電灯の間隔が短くなっていき、町中に近づいているのが分かった。新木はこの土地へ引っ越して来たばかりの頃、町の下見がてら一度こちらにも足を向けたことがあった。ただ、その時は商店街がある中心の方までは行かなかった。新木は見覚えのある通りを思い出しながら、さらに明るい街灯を頼りに歩いた。そして、しばらくすると、人の行き交う姿がチラホラ見え始め、その向かう先に商店街のアーケードが高く掛かっていた。・・・あそこだ。新木は呟くと、通りを一つ渡って駆け出した──。
大きな袋を持った傘の無い人。雨宿りに逃げ込んだアーケード。フードを脱いだ新木に違和感はなかった。周りの目が騒つくこともなかった。それよりも、新木はとうとうここまで来てしまって、もしかすると今ここでちひろに遇うかも知れないのに、まだいっこうに防備しようとしない自分が信じられなかった。・・・いったいお前は何を考えているんだ?
商店街は想像していた以上に大きくもなく、小さくもなかった。この中の何処かにちひろの家族が住んでいるはずだった。新木はロードを入ってすぐ左の、果物屋の時計を覗き込んだ。時間は八時を回ったところだった。人出は普通に思えたが、日曜日のこの時間、これが多いのか、少ないのか?分からなかった。・・・たしか小さなテナントビルの上に住んでいる、と言っていた。新木はちひろの話していたことを一つ一つ丹念に思い起こしながら、左右に目をやって歩いた。そのビルは父親が役員を務める会社が所有していて・・・。右に電気屋が見えた。会社は服飾の卸で・・・。左に魚屋、その並びに乾物屋。それも相当の老舗で・・・。右に時計屋、左に酒屋。一階のテナントはここ数年シャッターが下りたまま・・・。突然、新木の足が止まった。右奥、書店の横の、お惣菜屋兼弁当屋の隣に、シャッターの下りた古いビルがあった。壁の色は渋い茶(と言ってもグリーン茶)色で・・・。あれだ、あれに違いない・・・。
新木は店と店とのちょっとした谷間まで移動して荷物を置き、スウェットのポケットに入れた煙草を探った。
それはたしかに小さなテナントビルだった。店舗の広さは一軒分。上はアーケードの関係でぎりぎり三階までしかなかった。二階、三階に窓が一つずつあり、七人家族ならおそらく両方が住まいだろう、と新木は思った。上り口がどこにあるのか、こちらからは確認出来なかった。
しばらく経った。新木は煙草を消すと、自分がいつまでもここにこうして突っ立っていられないのを感じていた。たまたまピッタリ嵌った《雨宿りの人》というメッキが剥がれるのも時間の問題だった。・・・引き返すしかないか。でも、いったい何を諦めて引き返すのか?ボーっとしたまま荷物に手を掛けた、その時、こちらからは死角になっていたビルの陰からちひろが出て来た。すぐ後ろには小さな女の子がいた。妹だ・・・、と新木は咄嗟に思った。二人はその足で隣のお惣菜屋へ行き、弁当を売っている店先に立った。・・・そういえば、休日の夕食は弁当で済ますことが多い、と言っていた。兄貴達は家にいるんだろうか?父親はどうなんだろう?母親の頭の具合は相変わらずなんだろうか?新木はそれまで話に聞いていた一コマ、一コマが白黒からカラーへ変わっていくようで、二人から目を離せなかった。
十分もすると、待っていた弁当が出来上がった。ちひろが大きい袋を、妹が小さい方を持った。《行くなら今しかない》新木にはそれが誰の声だか分かっていた。すでに足が動いていた。心臓の鼓動が耳鳴りのようにしていた。しかし、ちひろはまだ気づいていなかった。新木は舗道を横切り、二人の少し後ろに着いた。そして、躊躇せず、その隣を一気に追い越して行った──。
擦れ違う間際、新木はほんの一瞬だけ顔をやった。それでちひろはようやく気づいた。すぐに表情が一変し、思わず口元が動きそうになったのを見逃さなかった。さらに、つないでいた妹の手をきつく握り直した気がした。
《そこで止まれ。後ろを振返れ》新木は二三歩先に行った所で、徐に足を止め、後ろをゆっくり振返った。《そうだ。それでいいんだ》
「どうしたんですか?」ちひろが先に動いた。「落し物でもしたんですか?」
「えっ?うん。そんな気が・・・」
新木は急いで他人に成り済ますと、妹へチラッと目をやった。近くで見ると、真ん丸の輪郭が姉にそっくりだった。
「でも、後ろには何もありませんよ」
「そのようだね。親切にありがとう」
「いいえ。どういたしまして」
そう言うと、ちひろは警戒する妹を連れてビルの間にいなくなった。
「・・・・・・」
新木は少しの間、その場を動くことが出来なかった。時間にすればたった数分のことだったが、遠い距離を歩いた気がした。
アーケードを引き返して表に出ると、雨はすっかり止んでいた。新木は何かを思い出したように空を見上げた。
次の日曜日、新木は先週のことがあって、朝から落ち着かなかった。果たして、ちひろはどう思っているだろう?自分はどう説明したらいいのか?それよりも、ちひろは今日来るだろうか?そして、また考えてしまった。・・・ちひろは《新木三男》の何を知っているんだ?
昼を過ぎて、目覚まし時計へ頻繁に気が行くようになった頃、戸を叩く音がした。トントントン、トン。今では合図のようになった、ちひろの調子だった。来たか・・・。新木はとりあえず気持ちを落ち着け、玄関に急いだ──。
ちひろの様子はいつもと何も変わらなかった。靴を脱いでいる内に話し始めるのも同じだった。
「そうそう。アラキーのこと、眞子が恐がってた」
「まこ?」
「手をつないでいたでしょ。わたしの妹」
「ああ・・・」
新木はあの時の一瞬から、ちひろに似た輪郭の中の、たしかに怯えていた小さな目を思い出した。
「わたしだって、そーとー驚いたけどね・・・」
新木は何も言わず、お湯を沸かした。
ちひろは先に窓を僅かに開け、座った。
「チー。寒くない?」
外は良く晴れていたが、午後からは北風が時々窓を強く打っていた。
「大丈夫。厚着して来たから」
炊事場から目をやると、ボタンを外した黒のスタジアムコートの下に、ジーパンのお尻の所までくるピンク色したVネックのセーターが覗いていた。
「煙草を我慢するから、窓を閉めたままで構わないのに」
そう言うと、新木はコーヒーを渡した。
「ありがとー」
いつものように語尾を伸ばすちひろは、やはり何も変わっていないように思えた。
「それはそうと、アラキーはあの時、偶然あそこを通り掛かって、私達に気づいたんだよね」
「最初は分からなかった」新木は迷わず嘘を吐いた。「少し追い越して気づいた」
「そうだったね」
「びっくりしたよ。おじさんも」
「でも、上手かったでしょ?」ちひろは意味深に微笑んだ。「わたしの演技」
「たしかに・・・」
新木は自分より先に動いたちひろを思い出していた。
「だけど、わたしがあの芝居をしなかったら、アラキーはどうしてた?」
「うんっ・・・」
「『チー、今日はこれで二度目だね』なんて言う気でいた?」
「それは・・・、チーが決めると思った」
そう言った瞬間、新木はそれが自分でも想ってもみなかった言葉だったのに驚いた。
「えっ・・・」ちひろの表情が初めて変わった。「だけど、さすがにアラキーとは言わなかったと思うよ」
「それは同じ気がする」
「これでイーブンだね」
「イーブン?」
「そう」ちひろは頷いた。「だって、わたしだけがアラキーのことをよく知っているのは不公平だったから」
「・・・・・・」新木は一瞬黙ると、手にしたまま忘れていたコーヒーに口をつけた。「チー。本当に寒くない?」
「ほんとに大丈夫だから、煙草吸って」
「いや。煙草はいいんだ」
そう言うと、新木は窓に目をやった。
「それより、北風がまた強くなった気がして・・・」
「──わかった」ちひろは思い立ったよう顔の前で手を打った。「これからちょっと冒険しよう」
「冒険?いきなりどうしたの」
「二人して北風に当たりに行くの」
「これから、二人で、外出するの?」
「それも、いちばん風当たりの強い場所がいいから・・・そうだ、大きい河の土手が打ってつけ」
「俺の現場?」新木は思わず声を上げた。
「そう」ちひろは顎の先がVネックの胸元に触れるほど、深く頷いた。「ちょっとした冒険でしょ?」
「だけど、二人で歩いている所を誰かに見られたら、間違いなく不審に思われるよ」
「だから言ったでしょ。冒険って」
新木はどう応えたらいいか、自分では分からなかった。
「でも、チーの決めたことなら・・・」
「やるっきゃない」
「やるっきゃないな」
二人は顔を合わすと、少しチグハグに笑った。
部屋を出て公園に着くまでの間、何人かの人は見掛けたが、幸い近くで行き交うことはなかった。
二人は久し振りに鉄棒の前に並んだ。時より枯葉を伴って土埃が舞う公園に、人影は無かった。
「ここまでは助かった・・・」
新木は安心して一息吐くと、煙草を点けた。
「ラッキーだったね・・・」
ちひろはそれが良かったのか、物足りなかったのか?微妙な言い方だった。
「だけど、この先がまだある」
「そうだよね。分からないよね」
「ああ」
新木は煙草のけむりのほとんどを風に持って行かれながら、頷き、やはりちひろは何か起こることを期待していたんだ、と思った。
「チー。久し振りに高い鉄棒に挑戦してみる?」
「うんん」ちひろは考える間もなく首を振った。「以前の自分に戻るのは、もう諦めた」
「どうして?」
「だって、例えわたしが以前の自分に戻ったとしても、わたしの周りが以前と違っていたら?それを変えることは、わたしには出来ない」
「うん。たしかに・・・」
新木はちひろの言うことが痛いほど胸に沁みた。自分にもそれと同じ経験が過去にあった。
「でも、だからと言って、悲観はしてないよ」
「それは、チーを見てれば分かる」
「でしょ?」
そう言うと、ちひろは顔を真ん丸にした。
「だからアラキーが好き。わたしを何も見ないで、ただ重い言葉で片付けようとする大人とは大違い」
「おいおい。そんな偉そうな者じゃないよ」
新木は照れ笑いした顔の前で手を振ると、長くなった煙草の灰が落ちるのに気づき、近くの灰皿へ捨てた。
「そろそろ行こうか」
「今度はどうかな?人に気づかれないかな・・・」
「どうだろう・・」
二人は再び並んで歩き出した──。
公園を横切ると、めっきり民家が減って寂しくなり、人の気配すらしなくなるのを新木はよく知っていた。特に今日は現場が休みで、小さい川の土手に沿って途中から合流する国道も車の量が少なかった。二人は国道に沿って並ぶ舗道を歩いた。しばらくすると、小さい川の土手がTの字にぶつかる、ひときわ高い堅牢な土手に出た。国道はそのまま左へ大きく急カーブしていた。二人は正面に聳え立つ土手の一角に作られた、急斜面の階段を登り、レンガ色のアスファルトに舗装された遊歩道に出た。見渡すと、北風が全身を激しく打ち、視界が一気に開けた。すぐ右手には小さい川が二人の歩いて来た後方から蛇行して大きな河と交叉し、そこに水門があった。河川敷には数戸のプレハブが建ち、所々に出来た盛り土の近くにはそれと背丈が同じくらいの重機が停まっていた。太く流れる大きい河は白い細波が立ち、対岸の向こうには工場の煙突が等間隔に並んで見えた。人の姿もチラホラあったが、ここからは男女を見分けられないほど遠かった。
「あそこがアラキーの仕事場だ」
大きく息を吐くと、ちひろは眼下の河川敷を指差した。
「少し先だけど、左の方に現場へ下りられる側道があるの、見える?」
「ええ。見える」
「あの通りを車が使う」
「アラキー達は?」
「俺たちはそこらの階段をズーっと下りていけばいい」
国道側と違って緩やかな土手の斜面には、要所々々に河川敷へ下りられる階段が設けてあった。
「そうか。あそこをね」
ちひろは近くの階段を見つけると、それをポンポンポンと目で下に追った。
「それにしても、想った以上に風が強い」
「ふだんの何倍も?」ちひろは嬉しそうに訊いた。
「今日の風は特別だ」
そう言うと、新木はスウェットの上に着たダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだ。
「チーは寒くないの?」
「ぜんぜん。だって、北風に当たりたくてわざわざ来たんだもん」
「さっきは訊かなかったけど、どうしてまた北風に?」
「別に意味なんか無い」ちひろはあっさりと切り捨てた。「気分かな」
「気分?」
「でも、ちょっとだけ嘘を吐いていいなら・・・、わたしの覚えている北風と比べたかった、ってとこかな?」
「ああ、なるほど・・・」それなら少しは分かる、とばかりに新木は頷いた。「それで、チーの覚えている北風と比べてどうなの?」
「嘘でいい?」
「チーにまかせる」
「量は似ている。質は大違い」
「良いの?悪いの?」
「それは秘密」
そう言うと、ちひろは北風のせいで薄っすら紅くなった頬を緩ませた。
「・・・・・・」新木は黙って言葉を呑んだ。
「それより、アラキー」
「ハイよ」
「今度の土曜日、部屋に泊めてくれる?」
「泊める?」新木は思わず声に力が入った。「俺の部屋に?」
「お願い」
ちひろは顔の前で手を合わせると、さっそく事情を説明した。
「それで、チーの一等上の兄貴の、ガールフレンドの両親は『妹のチーがいっしょだったら泊りの旅行を許す』って言ってるわけだ」
新木は話を聞き終わると、その大筋を掻い摘んだ。
「つまり、アリバイ工作に上手く利用されたってことなの」
「だけど、兄貴はチーの行き先を心配しなかったの?」
「一日くらいなんとかなるだろうって、それだけ」
「ずいぶん無責任だな」
「下の兄貴二人も含めて、そういう奴らだから」
「お父さん、お母さんは?」
「わたしがいっしょに行くと思ってる。もともと一人は無関心だし、もう一人は関心することも出来ないから」
新木はしばらく考えた。
「仕方ないな。チーを一人で野宿させるわけにもいかないし」
「ほんと?」
「ああ」
「ありがとー」
そう言うと、ちひろは心が軽くなったようにスタジアムジャンパーの前を羽だけ、その懐に北風を呼び寄せた。
「アラキー。とっても気持ち好い。このまま飛んで行けそう」
新木はその様子を微笑ましく見守りながら、一方でちひろの燥ぎ様が北風の寒さと同じくらい気になっていた。
「チー」
「何?」
「もうちょっとしたら、戻ろうか?」
「分かった」
ちひろは素直に頷くと、背中の羽を畳むようにジャンパーの前を閉めた。
知らぬ間に陽はだいぶ西へ傾き始め、その残光が向こう岸からこちらへ、河を斜めに横断していた。
「チー。見てみな」新木は指差した。「陽の帯がキラキラ光って綺麗だから」
「どれ?」ちひろはすぐに目をやった。「ほんとだ・・・。まるで光の絨毯が出現したみたい」
「そう言われて見れば、あの上を渡って行けそうだ」
「たぶん、その往き先は向こうの世界だよね・・・」
「・・・・・・」
新木はそれに返す言葉を、今、ここで、探さなかった。
五
ちひろが部屋へ泊まりに来るこの日は、師走に入って最初の土曜日だった。この一週間、新木は仕事が手につかなかった。常に尻が落ち着かなかった。頻繁に喉が渇いた。気がつくと、先々週の日曜日から延々と続く疑問・・・いったいチーは《新木三男》の何を知っているんだ?もし本当に《新木三男》のことをよく知っていて部屋に泊まる気なら、チーはヤツが恐くないのか?俺はヤツが恐い・・・。
落ち合う場所はいつもの公園だった。彼女は午後の三時か四時には兄貴といっしょに家を出なければいけない、と言っていた。きっと首を長くして待っているに違いない。新木は先を急ぎながら思った。
公園に着いた頃はすでに陽が暮れ始め、鉄棒の前で「アラキー」と手を振るちひろの姿が薄暗くしか見えなかった。新木はすぐに「チー」と手を振り返した。
「ずいぶん待たしたね」
「だんだん暗くなって行く方が嫌だった」
ちひろは白いジーンズに真新しいスニーカーを履いていた。足下には可愛い小振りのボストンバッグがあった。
「ここ二三日、暗くなるのが急に早くなったから」
「もう十二月だしね」
そう言うと、ちひろはバッグを手にした。
「だけど、アリバイ工作のためには小度具も用意しなければならないから、チーも大変だ」
新木は隣に並んで歩きながら言った。
「えっ。何のこと?」
「いや。そのバッグ。中身は空だろうと思って」
「あっ。これ?」ちひろは少し慌てて手元に目をやった。「うん。まぁ・・・」
二人はそれきり、人目を警戒しながらアパートに着いて部屋に入るまで、ほとんど一言も口を利かなかった。
「なんだか死ぬほど疲れた」
ちひろは床にお尻を下ろすなり言った。
「チーらしくないな」
新木はさっそく湯を沸かし、コーヒーを淹れた。
「それに、ここへ来るまでの間ずっと黙っていたし・・・。何かあったの?」
「ううん。別に」とちひろは首を振ったが、すぐに言い直した。「今じゃなくて、後で話す」
「分かった」
新木はそれ以上訊かず、言葉をそっと退くと、用意しておいた菓子類をコーヒーといっしょに出した。
「ありがとー」
「夕食は風呂の帰りに弁当でも買ってくるから」
「わたしのことは気にしないで、早くお風呂に行ってきて」
「チー。寒かったら、そこに毛布が出してあるから」
そう言いながら、新木はそれを身体に巻く格好をした。
「大丈夫。寒くなったら、そうする」
ちひろは窓の下に畳まれた新品の毛布を確かめると、好きな菓子を選んでその封を開けた。
「それじゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
外は深々と冷え込んでいるようだった。北風がビュっと鳴った。
新木は銭湯へ行く前に『味富』で頼んでおいた弁当を持って、一時間もしない内に部屋へ戻った。
ちひろは毛布に包まって横になっていた。脇にはネイビーのダッフルコートが脱いであった。
新木は大きく一呼吸すると、音が立つように近づいた。
「アラキー。お帰り」ちひろは目を開けると、すぐに身体を起こし、コートを羽織り直した。「早かったね」
「寝てた?」新木はまだ温かい弁当を二人の間に置いた。「チーがお腹空かしてるだろうと思って」
「ううん。寝られなかった。お腹がグーグー鳴って」
「良かった。さあ、飯だ」
「うん」
──食事の後、新木は窓に立つと、煙草を点けた。サッと入って来た肌刺す空気は、食べ物で貰った熱を一気に冷ました。
「すまないね。一服だけ」
「構わない。こうするから」
そう言うと、ちひろはコートを着たまま頭から毛布を被った。
「たしかに今夜は芯から寒いね」
新木は早々に窓を閉め、火を消した。
「アラキーは暖房が嫌いなの?」
「そんなことないよ。暑いのも、寒いのも好きじゃない」
「・・・そうか」ちひろは急に思い出したように言った。「アラキーから前に聞いたような気がする。物が増えるのが嫌だって」
「正確に言うと、物が増えて、その後始末を考えるのが嫌なのかな」
「住む場所が転々とするからだ、って言ってた」
「そうだね」新木は毛布から顔だけ出してこちらを物言いた気に見詰めるちひろへ、優しく頷き返した。
「アラキー」
「どうした?そろそろ話す気になった?」
ちひろは何も言わず毛布を脱いで立ち上がると、脇にあったバッグを手に取った。
「さっき、アラキーはこれを『中身の無い小道具』って言ったよね。ちょっと持ってみて」
「どれどれ」新木はバッグを両手で受け取った。「あれ?これ・・・」
「そう。わたしの大切な物だけを詰め込んできた」
「チー・・・」
「兄貴のアリバイ工作っていう話は、ぜんぶ嘘」
「・・・・・・」
「わたし、家出して来たの」
「えっ・・・。とにかく・・・、座って」
ちひろはバッグを返されると、まるでサナギに戻るように頭から毛布を被り直した。
「そんなに驚いた?」
「驚いたに決まってる・・・」
そう言うと、新木は無性に煙草が吸いたくなった。思わずその架空を指が挟んで、口先へ持って行った。
「きっと今頃、チーの家は大騒ぎだ」
「それはない」
「どうして?」
「アラキーに初めて話すけど、わたし、たびたび外泊してるの。今日も友達のところへ行くって、ウソ言って来た」
「えっ。本当に・・・」新木は自分の知らないちひろに、四辻で出会い頭にぶつかった気がした。「チーが・・・」
「だから、心配しなくていい」ちひろは独り続けた。「たぶん二三日は平気。四日かな」
たびたび外泊している。いったい何処へ?新木は知らないちひろにそう訊き返すことが出来なかった。動揺を隠すことで精一杯だった。
「迷惑だった?」ちひろは声を落とした。「迷惑に決まってるよね」
「いや。迷惑とかそういうことじゃない・・・」
「やっぱり困るよね。いきなり家出娘が転がり込んで来たら・・・」
「──それで、家に帰る気はないんだ?」
「二度と──」
新木はちひろの意を決した強さを感じると、自分も籠に追い詰められた鳥のように逃げ場を奪われた気がした。もしこれが《新木三男》のことをよく知っているというチーの初めからの計画だったら・・・。俺はヤツを止めることが出来るだろうか?でも、チーは何故・・・。
「アラキー」
「どうした?」
「わたし、ほんとはね」ちひろはさらに語気を上げた。「あっちだけじゃなく、こっちにもいたくないの」
「この町を出たいってこと?」
「そうじゃない」
「そうじゃない?」
頷くと、ちひろはフードを脱ぐように頭の毛布を後ろへ下ろした。
「わたし、先週の日曜の、大きい河に現れた光の絨毯、今でもハッキリ覚えてる。とっても綺麗だった」
「光の絨毯?ああ、あれ・・・」
その往き先は向こうの世界だよね、と訊かれたことを新木は同時に思い出していた。そして、あの時は何か嫌な予感がしてそれに返す言葉を探さなかったことも。
「わたし、あの上を渡ってバイバイしたいの。あっちにも、こっちにも」
「あっちにも?こっちにも?チー。冗談は良くない」
「冗談なんかじゃない」
そう言うと、ちひろは身体の周りにあった物を巻き込んで毛布を撥ね除けた。
「本気に決まってる。そうじゃなかったら、ここに来てない」
ここに来てない?新木は胸の中で咄嗟に訊き返したが、声にすることは出来なかった。
「チー。分かったから、落ち着いて」
新木は畳みに散らかったコップや菓子を片付け、立ったついでにコーヒーを淹れた。
二人はしばらく黙って小さな暖を取った。
「見て。もう湯気が消えちゃった」
ちひろは両手に挟んだコップから目を上げた。
「チー。足だけでも温かくしといた方がいい」
「そうだね」
新木は自分でも毛布に手を伸ばすと、胡坐の上に掛けた。
「やっぱり、こうするとだいぶ違うよ」
ちひろは何も言わず、ここからほんの一瞬、何処か遠くを見るように目線を切った。
「チー」
新木はそれが何処か、察しがついた。
「何?アラキー」
「俺も今でもハッキリ覚えてる。たしかに綺麗だった」
「うん。キラキラ宝石のように光ってた」
「俺にはガラスの破片に映った」
「ガラスの破片?」
「そうさ。だから、あの上を渡ろうとすると、怪我をする」
新木はあの時あえて探さなかった言葉を、今一つ一つ手繰り寄せている気がした。
「怪我してもいい」ちひろは微かに声を震わせた。「向こうの世界に往きたい」
「向こうに往ったら、そこに例え居場所が無かったとしても、もう戻っては来れないんだよ」
「分かってる。十月にわたしと仲の良かった子が電車に飛び込んで、先に往ってるから」
『味富』のテレビで観た、あの・・・。新木はすぐに思い当たった。
「ほんとはあの時、わたしも後を追いたかった。でも・・・」
そこまで言うと、ちひろは視線を落とし、胸に顔を沈めた。
「わたしには独りで渡る勇気がなかった」
「あの子はチーの友達だったんだ・・・」新木は胸の中で低く呟いた。「知らなかった・・・」
「お願い。わたしを救って」
「俺に?」
ちひろはキッと顔を上げ、僅かに遅れて視線を据えた。
「アラキーしか、他にいない」
その目は頼りなく哀しげにも見えたが、一方で光を反射した川面のようにキラキラしているようにも見えた。
新木はチーがアラキーに何を求めているか?すべてを見た気がした。しかし、一つだけどうしてもハッキリしておかなければらないこと、確かめておかなければならないことがあった。
「チー。最期に一つだけ訊いていい?」
「何?アラキー」
「チーは俺の何を知っているの?」
「わたしがアラキーについて知っていること?」
そう言うと、ちひろは不思議(そうな)顔をした。
「わたしが知っているのは、アラキーの本名が《新木三男》っていうことだけだよ」
「えっ。それだけ?」
「そうだよ。ほんとにそれだけだよ」
「・・・・・・」
「えっ。何で?」
「いや。何でもない」
そう言うと、新木は今更のようにちひろを数秒見、ゆっくり微笑んだ。
「チー。ごめん」
「何?」
「これが本当に最期。もう一つだけ訊いていい?」
「いいよ」
「家から持って来た、バッグの中の大切な物って、何なの?」
「あっ、それはね・・・」
ちひろはそれを訊かれたことが嬉しそうに、バッグに目を走らせた。
「部活をやってた時のユニホームとか、シューズとか、もろもろ一式。さすがにボールは持って来れなかったけど」
「そりゃそうだ。バスケットのボールは特に大きいもの」
そう言うと、新木は自然に顔を崩しながら、ちひろを救おう(救いたい)と強く願った。願おうとした。
彼女を救うこと、彼女といっしょに光の絨毯を渡ることは、自分を知ること、そしてヤツを知ることでもある、と思った。
「アラキー」
「ハイよ」
「明日は北風が吹くと良いね」
「きっと、夜になったら真ん丸の月が昇るよ」
「そう言えば・・・」ちひろがポツリと言った。「月の裏側って、誰にも見られない(知られない)んだよね・・・」
*
遺体の指紋から男の名前は《新木三男》と、その日の内に判明した。年齢は五十八歳。電車に飛び込んだ駅の隣町に、今年の八月からアパートを借りて住んでいた。二日後、報せを受けて故郷から駆けつけた、彼の長兄の立会いの下、彼の部屋を調べたところ、近所に住む中学二年生、《岬ちひろ》十四歳の遺体が発見された。遺体は布団の上に寝かされ、毛布が掛けてあった。顔には真新しい白いタオルが被せてあった。検死の結果、死因は左胸、心臓部分への最初の一刺しによる失血死。凶器の包丁はまるでそのあと止めを刺すかのように左首、頚動脈の辺りに突き刺さったままになっていた。性的暴行の痕は無く、防御創も見つからなかった。枕元の近くにはメモが残してあった。
『迷惑を掛けてすいません。チー。少しゆっくり歩いてて。じきに追いつくから。アラキー』