シーロ
春休みに入り、ヨミは特に何をするでもなく、だらだらと毎日を過ごしていた。彼の一人暮らしにおける食生活は基本的にコンビニ頼りだ。しかし、春休みに入ってからは毎日理由が夕食を作りに来ている。可愛い女の子の手料理を毎日食べられるとは本当に羨ましい限りだ。今日も理由自慢の特製レタスチャーハンを腹いっぱい食べて、ヨミは満足そうな笑顔を見せていた。
「はぁ~、うまかったぁ。理由の料理はほんと何でもうまいよな」
「流兄、お風呂入る? もう沸いてるよ」
風呂まで沸かしているとは、もはや双葉の言う通い妻そのものだ。
「そだなー。じゃあ、着替えとか持ってくるよ」
自分の部屋へ行こうとヨミはソファーから立ち上がった。そのままリビングを出て階段の前まで来たとき、視界に何かが飛び込んで来た。
ズダァァァアンンン
すごい音とともに、ヨミは床にブッ倒れた。
「いてー。腰打った。背中打った。頭もちょっと打ったぁ」
体の各部位をしたたかに床へ打ち付けて、ヨミは苦悶の表情を浮かべた。それと同時に、自分の掌の中に何か不思議な感触が現れたことに気がつく。それは柔らかくて、なんとなく丸みを帯びているような感じがした。
ポヨォン プニ プニ
今まで体験したことのない感触に彼の頭の中は疑問符で一杯だ。何が起こったのか確認しようと目を開けたヨミは、自分の体の上に誰かが馬乗りになっていることを知った。
「流兄、なんかすごい音がしたけど、だいじょ――って、きゃあぁぁぁああ、何してんの!? てゆーか、その子誰っ!?」
理由はそこで何を見たのか? それは、ヨミの上に馬乗りになっている素っ裸の女の子と、その子のこぶりな胸をデカい手で揉みしだいているヨミという絵面だった。
「おー、理由、なんかいきなり上のほうから落っこちて来た」
「流兄のエッチ! あんたもいつまでそうしてるのよ!! 早く離れなさいっ」
理由の手によって二人の体は分かたれた。問題はこの謎の少女ともう一つ――
「眼鏡、眼鏡、眼鏡どこ? 眼鏡なくなったぞ」
ぶつかったはずみでヨミの眼鏡は吹っ飛び、どこかに行ってしまった。
「あぁ~!? 流兄、これっ」
行方不明になった眼鏡は少女の足元にあった。それはもう見るも無残――眼鏡フレームはテンプル部分が折れ曲がり、レンズにはヒビが入ってしまっているような酷い状態だ。
「はぁ~、これじゃ、使い物になんねーよ」
ヨミが眼鏡破壊のショックで肩を落としている最中、理由は洗面所に急行してバスタオルを調達し、素っ裸の少女に渡した。
「今から家に行って適当な服持ってくるから、わたしが戻って来るまでそれで体隠してなさい。話は服を着てからよ」
理由は急いで外に出て服を取りに自宅へ向かった。ヨミは相変わらず眼鏡が壊れたショックで落ち込んだままだ。
「それ……大切なもの?」
「あぁ、これがないとオレ何もできねーんだ」
「わかった。ちょっと待ってて」
少女はバスタオルを身体に巻きつけておもむろに立ち上がると、おぼつかない足取りで階段を上り二階へ消えていった。
しばらくすると、少女はその手に眼鏡を持ってリビングに戻ってきた。
「これ……使って」
「えっ、でも度を合わせたりしないといけねーから、眼鏡だったら何でもいいってわけじゃ」
「いいから……これ使ってみて」
少女にすすめられるがまま、ヨミはその眼鏡を試着してみた。
「おー、よく見える。これすごく合ってんぞ」
「シーロと契約するなら……それあげる」
「シーロ? なんだそれ」
「名前だよ。シーラ・アクアリア・メロ・ディーヴァ・リラ・シグナール・ミユ・マンデス。長いから……シーロってみんな呼ぶ」
「おめー、シーロってのか? オレはヨミだ。黄金崎流泉、耕也が面倒な名前だって言って、ヨミってあだ名をつけてくれたんだ」
「ヨミ……いい名前」
「シーロ、契約ってやつをすればこの眼鏡くれんのか?」
「うん。あげる」
「契約ってのは金いんのか?」
「お金は……いらない」
「そぉーか、じゃあ契約するぞ。だから、今からこの眼鏡はオレのもんだ」
「うん。シーロ、ヨミと契約した」
「シーロ、おめーの髪の色、綺麗だな」
シーロの髪は綺麗なシルバーブロンドだった。ヨミはそんな綺麗な色をした髪に触ってみたいと思い手を伸ばした。他意はないし、やましい気持ちがあったわけでもない。
「お待たせぇ。服持って来たよ」
このタイミングでちょうど理由が戻ってきた。彼女が玄関の扉を開けて一番最初に見たのは、ヨミがあの少女の頭を撫で撫でしているところだった。
「ちょっ、ちょっと、あんた流兄と何してるのよ! わ、わたしだってしてもらったことないのぃ」
「おー、理由、おかえり。こいつ、シーロってんだ。眼鏡くれたぞ。こいついいやつだぞ」
「はい、さっさとこれ着て! 流兄を物で釣ろうだなんて、わたしが許さないんだから。流兄は着替え終わるまでそっち向いてて」
「おー、わかった」
ヨミは理由に指示されるがままに後ろを向いた。シーロがおぼつかない手つきでのそのそと服を着始める。それはまるで母親に見守られながら慣れない着替えをする幼児のような拙さだった。
「あなた、本当に何者なの? 見た目はわたしと同い年くらいに見えるけど、なんだか幼稚園児みたい」
シーロの着替えがあまりに遅いので、痺れを切らした理由は彼女の着替えを手伝った。シーロの着替えが終わると三人はリビングに移動し、解決しなければいけない問題に向き合った。
「それで、あなたは何? どうしてこの家にいるの?」
「だから、シーロだって」
「流兄はちょっと黙ってて。わたしはこの子に聞いてるんだから」
理由に強い口調で言われ、ヨミはしゅんと肩を落とした。質問を受けた側のシーロは少しの間をおいてから、理由のその問いに答えた。
「シーロはシーロだよ。あっちから来たの」
――と言ってシーロは階段の方角を指差した。
「二階から落ちて来たってのは流兄から聞いたよ。そうじゃなくて――」
理由が喋っている途中でシーロは突然ソファーから立ち上がった。
「シーロ、あっちから来た。付いて来て」
シーロはそう言うと廊下へ出て階段を上って行った。ヨミと理由も後からシーロを追いかけて二階へ上がる。シーロは二階のトイレの前に立って二人を待っていた。二人がそこに着くとシーロはトイレの扉を開けてこう言った。
「シーロはシーロの国からここに来たの」
二人の目撃した光景――その扉の向こうでは眩い光の渦がぐるぐると螺旋を描いて回っていた。




