地位と力
「海湖が逆流するなんて事があり得るのか?」
言われた通りに受け止めた陸奥に対して、芥はまず疑ってかかった。
「そんなものは聞いた事がないけど」
保逵は一度だけ首を横に振った。
「分からない。あんたら王宮は過去を嫌う。文献は最小限しか残らない。さらりとした事実はあるが、都合の悪い事はまるっきし残らない。そうだろう」
「王宮って言い方は少し心外だけど、まあそれは僕も思った事はある。遺跡は潰され、考古学は忌み嫌われるように仕向けられている。前王こそその点はあまりきつく縛らなかったが、歴代の王によってこの国の歴史は塗りつぶされてきた経緯はある」
「だから、はっきり言えば分からない。だが、分からないからと言って起こらないとも限らない。堰が壊れて川の流れが変わった時、水位の変わらない海湖が逆流する可能性は零ではない、と思う」
全員の目線が地図上の海湖へと集中する。
一番いいのは、清陳を止めてこれ以上ウトに雨が降らないようにする事だ。そうすれば自ずと水位は落ち着き、大地は乾いていくだろう。
それは今イモンへと向かった煉や青鞣に託すとして、次に打てる手と言えば、堤を強化する事だ。だが、これには大掛かりな工事が必要だ。資金は芥がどうにかするにしても、人手まで補う事は出来るのだろうか。
「堤と言うのは、思ったよりも難しい。その土地の性質に合わせて築くのがよいと言われている。粒子と水の関係は一筋縄ではいかない。剪断濃密化が悪い方向に働くと厄介だ」
「ダイ……?」
「まあ今は突貫でいいから、今ある堤を厚く高くして凌ぐしかないかな……」
保逵は返事を求めている訳ではなかったのか、専門用語などを説明する気はさらさらないようだ。
「ざっくりでいい。時間と、必要な物と、どれくらいの人手が必要か分かるか」
芥が保逵へと質問を投げる。
「どれくらいまでのレベルを要求するかにもよるけど」
「一時期を凌げればいい。即位式が終われば雨も終わるはずだ」
「……は?」
保逵は芥を睨むように見詰めた。
「なんだそれ。王には天候を左右する力でもあるのか」
そう言って軽く鼻で笑う。
「前王にはその素質はあったけど、次の王にはないだろうねえ」
「俺、あんたのその回りくどい言い方をいちいち是正して会話する程優しくないんだけど」
「ごめんごめん。生まれつきだから勘弁してよ。保逵はいちいちそう相手を睨んでたら、眉間に皺が刻まれちゃうよ?」
「別に構わないけど」
「結構可愛い顔してるのに勿体ないなあ」
保逵はあからさまに嫌そうな顔をした。童顔なのを気にしているのだろうか。だとしたら、今の髪型も変えればいいのにと陸奥は思った。
「……王宮にとある人物がいた」
芥は壁に背をもたれ、唐突に話を始めた。
「その人物は、第一王子に王になって欲しくなかった。だけどそれを阻止する力など到底持っているはずがない。この国において、第一王子から権利を剥奪できる者などイーリアスしかいない訳だからね」
だが、イーリアスは神で、この世にいる訳ではない。実質、第一王子が王にならないようにするには弑する以外にはあり得ない。
「その一方で、力はあるのに地位のない者がいた。彼らは結託し、故あってウトを水の底に沈める事にした」
「……イーリアスの予言書か何かなのか?」
「いや、今調査して分かっている部分を搔い摘むとこんな感じだ。だから、第一王子が即位してしまえばウトを沈める事に利点はなくなると思うんだが……」
あまりその辺に自信はないので、芥は断言しなかった。
「? 意味が、分からない。第一王子に即位して欲しくない理由も分からないが、それは過去弑逆がなかった訳ではないからまあ置いておいて、その後者はなんなんだ。根本的にウトを沈める意図が全く分からないぞ」
「それは、今調査中。兎に角保逵は即位式まで雨が降っても大丈夫なようにしてよ」
保逵は返事をしなかった。大きく息を吐くと、大きく一歩芥へと近付いた。
「……お前、本当に男夫なのか?」
保逵が歩みを進めた事で、床がギシ、と音を立てた。
「今迄散々放っておいて、王宮が急に州候を訪れるのも、それが礼部の者なのも、付き人がこんなのなのも、どう考えてもおかしいだろう」
こんなの、とは陸奥の事を指しているのだろうか。
「最初からおかしいとは感じてたけど、それでも金を出してくれて、堤をどうにかしてくれるのであればあんたが誰でもいいと思ってた。でも、雨を止めさせる事が出来るのであれば、いたずらに民を動員して築堤する必要はない。あんたは人手をただの人手としかみていなくとも、皆それぞれ生活や仕事があって、わざわざいつ決壊するかも分からない堤の傍で働かせるような、そんな危険な真似をさせていいようなもんじゃない」
芥は黙ってそれをただ聞いていた。
芥の身分証明はただ一つ。腰に揺れるその黒瑪瑙。それを偽造する事は物理的に不可能とされている。芥がいくらちゃらんぽらんだと言っても、彼が下男夫なのは覆しようのない事実であった。
「やめるか?」
「……卑怯者」
保逵はもう州候の下に戻る事は出来ない。内情はどうであれ、彼は州を裏切った犯罪者である。そして彼の意はウトの守護であり、今更築堤をしないという選択肢はない。
毒を吐いた保逵は、卓まで戻って再度地図を見直す。
「とりあえず、川沿いを走って海湖を見に行く。様子を見てから必要な資材と人件については考える」
「保逵のそういう前向きなところ、僕は好きだよ」
「あ、そ」
本当に興味なさそうに、保逵は顔も上げずにそう返した。
「ところでさっきの調査報告みたいなやつ、前者は地位はあって力がない、後者は地位はないが力があるという話だったけど、具体的に力って何だ?」
「お。保逵も漸く興味を持ってくれたのか。やっと紹介出来るな。烈、蛍」
二人の名前が呼ばれたので、保逵は青年と女の子に目をやる。染めているのか二人とも茶色の髪色をしている点以外は、これと言っておかしな点は見当たらない。
「彼らは王宮の、つまり僕の配下ではない。今回の件の依頼主であり協力者だ。出自は狐」
最後の部分が聞き取れず、保逵は一度視線を芥にやるが、彼はにこにこ、いや、にやにやするだけだった。仕方なく本人にでも聞こうと目線を戻した瞬間、保逵は固まった。
「……いや、だから狐だって言っただろう」
笑いをかみ殺しながら芥は固まったままの保逵に話しかけるが、それが本人に届いているかどうかは甚だ怪しい。
彼の瞳に映るのは、紛れもない狐であった。森に入れば、よく見掛ける、あの茶色の獣。
先程まで佇んでいた男女二人の姿は何処にもなく、代わりにそこには二匹の狐が鎮座している。
動かない保逵を心配したのか、まるでおーい、と言うかのように卓の上で道が両手を上にあげてパタパタと振っているが、恐らく逆効果であろう。
「……ほんと、勘弁して……」
あの保逵から、弱々しい声が聞こえるのが少しおかしくて、思わず陸奥も笑みが漏れた。




