成す力
最初はたまたま今年は雨量が多いという雑談だったような気がする。
なんとなくの季節の移ろいの中で、明確に乾季雨季がある訳でもないが、確かに雨の多い時節というものはあったし、こういう年だってあるだろう。
天候を記録する農部の見解ですらその程度だったように思う。
おかしい。そう気が付き始めたのはいつの頃だったのか、もう定かではない。
天気というものは読みにくく御せないものであったが、それでも培った知見を持ってしても、雨が突然降り出すのを予見する事が出来なくなった。
何か手を打たねばならないと誰しもが思ったが、どういう訳か州候は何も指示を出さなかった。不幸な事に、その時にはもう州相はお姿を見せなくなっていて、州候の暴走――と言うと何かおかしいが、何もしなかった事を暴走と捉えてもよい程州候はおかしかった。
治水の件を進言しようが奏上しようが、聞く耳を持たないのだとの噂が流れた。摂単宮に勤めていたところで、州候は雲の上の存在だったし、事実がどうなのかを確かめる術を持つものはとても少なかった。
州司空は温厚で、割と出来た人物という印象があった。大体上司というものは理不尽な要求を多くしてくるものだが、州司空は部下にも慕われている気のいい親父といった感じの上司だったように思う。
どうにか、危ない河川だけでも堤を。州司空を始め、そんな話で皆持ち切りだった。確かにたまたま雨が多いというだけで工事をするのは、税の無駄遣いにあたるかもしれない。だが、そうも言っていられない状況にまで追い込まれていた気がする。
統計が意味をなさなくなり、特に東側出身の者が――工部だけでなく他の部ですら――焦燥感で州候への苛立ちを募らせていた。
正義感と行動力を兼ね備えた者達が、次々と姿を消した。表立った罷免や更迭はなかった。
工事以外は州候はつつがなく政治を執り行っていたのが不気味だった。
そして州司空ですら、忽然といなくなった。一部の者は自宅で謹慎しているとの話もあったが、そうでない者も多かったので、何となく皆察しはついていた。
それから知らない者が上司としてやってきた。工部だけではない。州候は監視の目となる者を全ての部に置いた。陰で州候の悪口を言う事すら難しくなり、自分と、家族の身の危険を感じるようになった。
――恐怖政治。
言い方はいくらでもある。許されざる行為だと誰しもが理解していたが、反抗する事も許されなかった。
作物が取れなくなって税収が下がっているのは分かるが、それでもなお頑なに治水工事をしない積極的な理由は分からなかった。
州候の蛮行を止められるのは王宮しかいない。
だが、肝心の王はいない。第一王子が即位するまで、この州はもつのだろうか。即位したところで、すぐに一州の件など解決に当たってくれる訳がない。
六年も空位だったのだ。問題は山積みで、そもそも前王のように州交を重く見るとも限らない。
だとすればこの州候は、ウトを滅ぼすまでその席に居座り続けるのだ。
そこに突然現れ治水工事をして欲しいなどと言い放った王宮からの使者を、どうやって見ればいいのか分からない。
神か悪魔か。
そもそも彼の王宮での立ち位置は全く不明である。目的不明な点だけで言えば、州候のそれと変わらない。
だが、彼はウト州に訪れた最初で、そして恐らく最後の希望だ。これを逃せば、かなりの確率でウトは壊滅する。
無礼を承知で震えながら飛び出したあの人の気持ちは痛いほどよく分かる。
誰もが皆、この機会を待ち望んでいたのだ。自分達の力ではもうどうしようも出来ない事は分かり切っていた。そしてこの使者に縋れば、自分の身が破滅する事も。
保逵はもう摂単宮には戻れない。そんな事は彼にとってどうだっていい事だった。だが、同僚に押さえられているとは言え、いずれ保逵は必ず指名手配されて罪を問われるだろう。罪状はなんだっていい。恐らくは死刑か、州候の趣味が悪ければ体の一部を落とされたりするかもしれない。
そして一時あの上司を取り押さえた工部の面々も、少なからず罰を受ける。
――その責任を、覚悟を、この王宮からの使者は理解しているのだろうか。
「州候はどういう人物なんだい?」
烈達のいる宿へと向かう途中、馬を休ませていた時に芥は保逵に尋ねた。
保逵は馬を撫でながら首を傾げた。
「昨日会ったんじゃないんですか?」
「会ったには会ったけれども、なんかなあ。むしろどうやって州候になったのだか」
「本気で言っているのであれば、相当めでたいか、王宮は意外に清らかなんですね」
陸奥はそれを聞いて保逵が何を言いたいのか理解した。
「賄賂……」
「保逵は怖いもの知らずだなあ。僕じゃなければ処されちゃうよ?」
爵夫に向かってめでたい頭だと平然と言い放つ保逵は、肝が据わっているのかただ生意気なのか。
「男夫は処したりしないでしょう。いなくなったら困るのはそっちですし。星明はあれで人を見る目はある」
それは己の事も含まれるだろうが、保逵は自分に自信があるのだろうか。
「藩主を呼び捨てるとは、なかなか見込みがあるなあ。僕の事も呼び捨ててくれて構わないよ」
芥は保逵を気に入ったのか、本物の青鞣へのいたずらなのか分からない提案をする。
「それで保逵はその年で工事の采配が出来る訳だよね」
「……まさか確認もしないで誘ったのか?」
芥が許可したのは名前の呼び方だけで、口調まで変えていいとは言っていないような気がするのだが。
保逵は頭を押さえつつ、呆れた顔を向けて来た。
「大体青鞣は何のために堤を作るんだ。ありがたい話だけど、行き当たりばったり感がすごい」
「大変言いにくいがその通り」
へらへらと笑った芥に、保逵はどう言っていいのか分からないのか、言葉に詰まった。
陸奥にはその気持ちは大変よく分かる。
「まあ、それならそれでいい。やりたいようにやらせて貰うから、可能な限りそのための力は使わせて貰う」
「結構結構。お金ならある」
「欲しいのはどっちかって言うと人手なんだけどな」
そう文句をつけた保逵だったが、その顔は何処か晴れ晴れとしている。何もする事が出来なかった状況から、追われる身とは言えしたいように出来る立場になったのだから当然だろう。
したい事と、それを成す力が備わっている。
陸奥は、そんな保逵を少し羨ましいと思った。




