神様
「そんな訳の分からないものを真に受けていらっしゃるのですか?」
満丈のその言葉を受けて、芥は軽く笑いを零した。
「そういう訳ではないのですが……火のないところに――と申しますように、何かの前兆だと困りますので」
満丈はなるほどと言ったように頷いた。
「邪神の信仰など過去聞いた事もないが、過去なかったからと言って未来永劫そんな事が起こらないという保証はどこにもありませんからな」
「本当に……州候はよくお分かりでいらっしゃる。私の勘は間違っていないようです。満丈様。どうか、未熟な私を先達として導いて下さいませ」
再度恭しく片膝をついた芥に、今度は満丈は恐縮も遠慮も見せなかった。
「そこまで言われるのであれば。何か困り事が出来たら何でも言うといい」
満足そうににんまりと笑った満丈は、芥の肩をぽんと叩いて静かに部屋を出て行った。
――終わった、の?
陸奥には今夜の密会がこれで終わりだと思うと腑に落ちなかった。
何も肝心な情報は得られず、目的も、繋がりも、収穫などなかった。満丈が何のために芥を呼び出したのかもよく分からない。
お互いが探り合う状態だったとしても、何もかもが漠然としていて判然としない。何一つ分からなかったのに……いや、何一つという訳でもない。
――何故満丈が真昼の事を知っているのか。
これだけは陸奥の心の奥にずっしりとのしかかった。
仮定の話ではあるが、今ある情報による推測では全てが繋がっているようで、全く繋がらない。
狐は攫われた雨降りの一族を取り戻したがっている。それを誘拐したのは、双子の話からして清陳であるの可能性がかなり高い。清陳はウトを沈めたがっていて、州候乃至潮の一派が後ろにいる。その州候は真昼がいない事を知っていて、そして帰っては来ないと言う。だが、その真昼を捉えているのは、狐――。
連想ゲームのように繋がっていく情報は、やがて元の所に舞い戻り、ぐるぐると円を描く。
芥も部屋を出て行った気配があったが、陸奥は暫くその場から動く事が出来なかった。
「遅かったね」
もう寝てしまったかと思っていたが、芥は陸奥が戻って来るのを待っていたようだった。
「ああ、うん……」
生返事をしながら、陸奥はぼんやりと寝台へと腰かける。さっきから考えが纏まらない。一体、この件は何処から何処までが関係していて、そして誰が糸を引いているのだろうか。
「芥は……あの密会の内容で満足?」
「陸奥は、不満そうだね」
「……男もいけるくちだとは思わなかった」
陸奥一人ではここまで漕ぎ着けられなかったのは分かってはいるのだが、何の収穫も得られなかった彼に、嫌味の一つでも言わないとやっていられない。
「やめてくれ。僕は生粋の女好きだよ。何なら今から証明してもいい」
「勘弁して」
芥と話すとうっかり話がずれていくから、こういう時は頭が痛い。
この口振りからすると、芥はあの内容で問題がないと思っているのだろうか。
陸奥は思わず溜め息が出た。
どうにかしてくれるような事を言っていたのに、何故もっと踏み込んだ事を聞かなかったのだろう。
「分かった事と言えば、州候には築堤する気がない事と、潮様の一派だっていう事くらいじゃない? 結局、清陳と繋がっているのか、何のために治水しないのか、州相はどうしたのか、分からないままじゃない」
思わず語気が強くなった。芥に当たる様な口調になってしまって、陸奥は言ってしまった後に後悔した。
何もかもが思い通りにならない。歯がゆい思いのまま、時間だけが過ぎて行く。
どうしたらいい。この数ヶ月、何度この自問を繰り返した事だろう。
こうしている間にも、事態は悪い方にしか転がって行っている。どう考えても好転する要素がない。
「陸奥」
勾玉を持って行かなければ梁達の未来はないが、持って行っても危険な事になる。
どうするべきか分からないのに、約束の期日まで一ヶ月しかない。
「陸奥、泣かないでよ」
「――え?」
芥に言われて、初めて陸奥は自分が涙を零している事に気が付いた。言われた通り本当に泣いていて自分でも驚いた。
「いや、ごめん、違う。何で、私」
何故泣いているのか自分でも分からない。いつから涙が出ていたのだろう。気が付かない事など生まれて初めてだった。自分はこんなに情緒不安定な人間だっただろうか。
「陸奥は、焦ってるんだね」
芥の言う通り、陸奥は焦っていた。清陳に捕らえられたままの梁達、何処でどうしているのか分からない雨降りの者達、いつ堤を超えてしまうか分からない川、王不在の即位式、真昼の無事が確約されないまま不穏な話だけが耳に入って来る上に、芥はいつこの同盟を抜けるのか分からない。
その全てが陸奥を焦らせていた。
それでも陸奥は、今の今までその焦燥感に囚われていると分からなかった。
言われて漸く、その呪縛から解き放たれる。盲目的に、どうにかしなければと空回りしていたその枷から解放されたような気がした。
どうにかと思っているだけで、何をするべきか見えていなかったのだろうか。
するりと、腕から力が抜けた。
――頭の中ではそれらしい理由並べて、うまくいかない現実に憤って、人間を傷付けて自分達まで傷付いて。
梁の悲痛な声が頭の中でこだました。
「助けて欲しいって……そう言われたのに。任せてって言ったのに」
あの時の梁は声も、手も震えていた。なのに今は、自分がこんなにも震えている。芥ならどうにかしてくれそうに見えるのは、あの時梁達に自分はそう見えたのだろうか。
「蛍だってあんなに傷付いて……。星明様もあんな覚悟をしていたって、本当はどうにかしたいと願っているはずなのに……。今日盗みを働いたあの子達だって、したくてあんな事してる訳じゃないのに……」
この世は不条理だ。陸奥の目に入る事柄全てが理不尽で、不平等だ。自分は恵まれている。だから手を差し伸べたい。差し伸べたいのに、恵まれてるのに、どうやってもその手は届かない。
「助けたいのに、見て見ぬ振りなんて出来ないのに――自分が非力過ぎて、不安に押しつぶされそうなのを、芥に当たって……本当に自分が嫌になる」
拭っても拭っても、涙が溢れて来る。
「用心棒なんて、芥の言う通りやっぱり向いてなかったんだ。……莫迦みたい」
見てしまって、それを見ぬ振りをした事だってたくさんあった。だが、結局眠りにつくときにいつも後悔した。何日もその事で苛まれた。助けてあげればよかったと、何故手を差し伸べなかったのかと、言い訳を自分の中でいくつもいくつも並べても、心が軽くなる事も納得することも出来なかった。
見ぬ振りをしてもしなくても、どっちになってもこんなにも苦しい。何も成し得ないなら、こんな感情を持ち合わせなければよかったのに。
芥が何も言わずに手巾を差し出したので、それを受け取って顔を埋めた。
「僕は陸奥が怖かったよ」
彼の突然の告白を、陸奥はただ黙って聞いていた。
「陸奥の行動原理が全然分からなかった。何のために、誰のために身を危険に晒すのか、意味が分からなくて怖かった。しかもそれなりに腕もあって、妖怪達を操る力まで持ってて」
操っている訳ではないんだけど、とは思ったが口にはしなかった。
「疑ってる訳じゃなかったけど、信用は出来ないと思ってた」
それは陸奥も一緒だったので、陸奥はうん、と小さく頷いた。
「だから脅したりもしてみたけど、効かないから何がそんなに陸奥を動かしてるんだろうってちょっと不思議だった」
芥はしゃがんで、陸奥の鎖骨の間より少し下を、軽くとんと、指差した。
「陸奥は自分の中に、神様がいるんだね」
「……よく……分かんない」
「僕はさ、前も言った通り割と敬虔なイーリアス教の信者だし、そもそもこの国の者は全員そうだったから陸奥と出会うまで考えた事がなかったんだけど……悪い事をすれば罰が下るし、天網はそれを見逃さない。困っている人は助けるべきだし、自分のために努力をするべき。そんな神様の教えを持たない陸奥が、どうして関係のない人のために必死になるんだろうってちょっと薄気味悪かった。そもそも自分のためにならなければ他人に興味がないのが普通だし、誰かを踏み台にして何かをしても、それはその人の努力として認められるものだから、陸奥みたいに……見返りのない善意をあまり見た事がなかった」
芥が損得勘定で動くのが理解出来ずに訝しんでいた陸奥だが、芥は逆に陸奥の無利益な行動が理解出来なかったのだ。
「陸奥は心の中に神様がいるみたいだ。誰も見ていないところで悪事を働いたとしても、自分だけはそれを知っている。自分の中の神様がそれを見てる。困っている人がいれば救いなさいと神様が心に働きかけるし、何もしなければ神様がチクチクと刺すような――そういう良心に付け込んだ神様がいるね」
陸奥は思わず笑いが漏れた。
「……神様がいるって訳じゃないけど、芥が言いたい事は分かるよ。……うん、多分そういう事だと思う」
「自分の手に余れば、それはイーリアス神が僕に采配している訳じゃないとまだ割り切れるけど、そうじゃない陸奥は苦しいね。全部自分が背負わないといけなくって」
「そうかな? 自分のした事は自分が背負うのは当たり前じゃないの?」
「いいや、陸奥は自分の見たものや聞いたものまで背負うだろう。蛍や煉、ウトの民まで――。そういう事はイーリアス神が俯瞰してるけど、陸奥は自分の中に神様がいるからぜーんぶ陸奥に来て辛いんだよ」
「そうかな……」
「そうだよ」
こんなに自分の感情が見えていなかったのだから、客観的に見て芥がそう言うのであればそうなのかもしれない。
なんだかとても心が穏やかで軽くなっていくのが分かる。
「そんな陸奥と巡り合ったのも、神様の思し召しだろう」
立ち上がった芥は、陸奥に手を差し伸べた。よく分からずその手を握ると、ぐいと力強く引っ張られて立ち上がる。
芥はいたずらを思いついたような、不敵な笑みを見せた。
「いいか、陸奥。ウト州候は引き摺り下ろす。雨降りの一族は奪還して、煉の仲間も助ける。第一王子は即位式に出す。準備が間に合わなくても最悪裸で出て貰えばいい。第二王子にはすっこんでて貰うし、大妖怪やらもそのままおねんねしていて頂こう。泣いてる暇はないぞ」
陸奥は笑いながら握られた手に力を込めた。
「真昼様には衣装を着て欲しいな」
「じゃあより急がないといけないな」
強く握った手は、より力強く握り返された。その手の温かさが、陸奥の震える手を、心を慰めた。




