摂単宮
「芥、このまま馬を走らせるつもり?」
陸奥に話しかけられて、芥は馬の速度を落とした。
「朝一で乗り込みたいと思ってるけど、なんかまずい?」
「いや、夜に馬で走ってて野盗に襲われないといいなと思って……」
「そのために陸奥がいるんだろう?」
「はーい」
陸奥のやる気のない返事を聞いて、芥は再び馬を駆けさせる。
だがそんな陸奥の心配事は幸いな事に起こらなかった。
「おっきい……」
州庁舎は藩のそれよりもかなり大きかった。塀の中には広場もあり、更にもう一つ塀があって、その中に大きな建物が建っている上に、いくつも建物があるように見えた。一体何がどの建物なのか、陸奥にはさっぱり見当もつかない。
朝早いので庁舎はまだ開いていないが、一番外側は四六時中開放されているようだった。散歩をする老人がちらほらと見受けられる。
爽やかな朝の風が二人の頬を撫ぜる。
「王宮のお膝元に暮らしている者の発言とは思えないねえ」
ぽかんと立ち尽くす陸奥を見て、芥はくすくすと笑った。
「いや、住んでたのは下町も下町だし、王宮って警護も厳しくて近寄りがたかったし……。やっぱり王宮はこれの比じゃないんだよね……?」
「迷路って感じかなあ。まあ藩と違って州庁とか王宮はここに暮らしている者もいるから、居住用の面積も結構占めてると思うよ」
「はー……」
この中で働いたとしても、部屋から部屋、建屋から建屋へ移動するだけで一日が終わってしまいそうだと思った。
「州にもよるけど、ウト州庁大門が南東……ざっくり言えば南に位置しているから、外殿が南、内殿が北だね。神殿は、ウトならば南西にあるよ。これは首都州の方向にあるらしいから。外殿を単閼殿、内殿を摂提格殿とも言うんだけど、頭文字を取ってウト州庁は別名摂単宮とも呼ぶそうだ」
陸奥は芥を真顔で見返した。
「……呪文?」
「陸奥、顔が怖い」
朝餉を宿の食堂で取りながら、芥が州庁――摂単宮の説明をしてくれたのだが、何を言っているのか全く頭に入ってこなかった。
「とりあえず、芥が無駄に博識だって事だけは分かった」
饅頭のようなものを頬張りながら、陸奥はそれ以上は拒否した。拒否と言うよりも拒絶反応に近い。芥が呪文のように訳の分からない単語を並べて、そしてそれで説明出来ていると思っているから質が悪い。
「それで、どうするの? ジュウ藩みたいにはいかないよね。確かこないだの話だと、今の州候は下子夫だったよね。芥よりも階位が上の人に話を聞いて貰えるとはあんまし思えないけど……」
「相手の出方次第だけどね。まずは州相に話を聞きに行こうかと」
「州相……」
先日の芥の講義によると、サラスヴァ時代から各州には王宮から伝令役、監視役として派遣される役人がいて、それが州相だったはずだ。州相は王宮側であるし、州候よりも位が高いので、確かに話をつけるには適任であろう。
「州相はサラスヴァ様が任命して、それから新王が立っていないから罷免もされずにそのまま済し崩しでまだ滞在しているはずだ。まあ六年も経ってるし、徐々に州交は減りつつあるから、正直今どういう立場なのかは不明だけどね」
「じゃあ勝算としては五分五分な感じなのね」
「……そんなにないかも」
芥はぬるくなった茶をすすりながら答えた。
「そもそも監視役の州相がきちんと機能していたら、藩の自治権を取り上げるなんて暴挙は出来ないと思うんだよね。懐柔されたか、既にいないか。なんにせよ望みは薄いけど、他に手がない。今の摂単宮なんて蜂の巣みたいなもんじゃないか? 州相がどうであろうと、つつけばわらわらとなんか出て来そう」
そう言って芥は勘定を払うと同時に部屋を一つ取った。陸奥が首を傾げると、すぐに分かるとだけ言って外に出る。
「本当にわらわら出て来たらどうするの? どうにか出来る予定?」
通りを摂単宮に向かって歩きながら、芥は首を振った。
「そんな予定は一つもないけど、でも出て来て貰わないと困る。いつまでも隠れられてちゃそれこそ打つ手もない」
「……芥はウトを助けたいの?」
「何のために?」
「いや、それこっちの台詞……」
藩主に会いに行ったり、州侯に会いに来たり、その目的が治水の件という事は今の陸奥でも分かる。
だが、芥が何のためにウトの治水に首を突っ込むのかが分からない。「王宮の人」だからなのだろうか。
「陸奥に感化されたのかなあ。出会う人出会う人が困ってたらつい手を差し伸べちゃうところ」
「……絶対嘘。これまで見て来て思ったけど、芥ってお金持ちで色々頓着しないのに、すんごい損得主義な感じするもの。……いや、だからお金持ちになれたのかな」
「傷付くなあ。ああ、もう開いてるね」
話しているうちに大門前まで辿り着いていた。何度見ても大きい。今からここに乗り込むのだと思うと、対する自分がちっぽけ過ぎて不安しかない。
それが顔に出ていたのかどうかは分からないが、芥が背中をぽんと叩いた。
「よろしくね、司馬」
これまでとは違って芥は玉を隠したりしなかった。
そもそもこの区画にいる者の殆どが玉を付けていて、陸奥の場違い感が否めない。
門の所だけでなく所々にいかつい軍人が立っている。それだけで陸奥は及び腰になった。
本来なら門を通る時にあれこれ聞かれるようだが、芥はそこを平然と通り過ぎた。止められているのは玉を持たぬ者か緑色の玉を付けた者。陸奥が思っていた以上に爵夫と大夫の間には大きな大きな隔たりがあるようだ。それ程までに、爵夫の位は高く威光は凄まじい。
芥は知った場所であるかのように迷わずに建物に入って行き、そこで適当に人を捕まえて吏部が何処かを尋ねた。
言われた通りに進んで奥まった部屋へと入ると、数十人もの視線だけが一斉に飛んで来た。
そして殆ど全員がふいと視線を外す。別段本人達は何も思っていないのかもしれないが、入って来るなというような威圧感を感じる。
何人かは二人を見定めるかのようにチラチラと何度も伺ってくる。バレていないと思っているようだが、見られている方は存外分かるものだ。
流石に州庁だけあって、慣れているのか黒玉くらいでは微動だにしない。
やがて一番近くにいた男が寄ってきて、用件を訪ねてきた。
「どうも」
普段の地声よりも二段階くらい大きな声で芥は気安い挨拶を投げた。声の大きさに陸奥はすこし肩がびくついてしまったし、話しかけてきた男もかなり怪訝な顔をした。
大勢の視線が刺さって痛い。
「王宮礼部下男夫青鞣だが、州相への取次ぎを願いたい」
芥の大きな声は部屋中に響き渡り、一番奥にいた者さえもこっちを見ている。
だが、それからは誰も動かず、そして何も発さなかった。
時が止まってしまったのかと思える程に、静寂が部屋を包んだ。
「ここで待つ。ではよろしく頼んだよ」
そう言って固まったままの男に芥は何かを握らせた。芥の動きだけが時が止まっていない事を証明している。芥はそのまま踵を返し部屋を出て行ったので、陸奥は異様な空気が漂う部屋をそのまま後にした。
「芥、いいの?」
「ああ。州相が健在にしろいそうでないにしろ取次ぎには時間がかかる。ウト州にはどう考えても問題があるから数十刻――最悪明日まで時間がかかるだろう。徹夜明けだし寝て待つしかない」
先程芥が宿を取ったのはそう意図があったからなのだと漸く陸奥は理解した。官吏に握らせたのは宿の名前と僅かな心付けであろう。
理解はしたが納得は出来なかった。
「説明してくれてもよかったと思うのだけど……」
「え? ごめんごめん」
どう良心的に解釈しても悪いと思っている様には見えなかった。
だが、夜通し馬を走らせてきた二人は眠気に抗うことは出来なかった。宿に着いて早々気絶するように眠りに落ちた二人に、使者が訪ねてきたのは夕刻であった。




