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むつのはな  作者: あみか
第三章
57/102

小雨の夜に〈一〉

 しとしとと小雨が降っていた。これまで雨が降ればあんなに喜んでいたのに、ここ数年は信じられない程に雨が多く、恵みの雨という言葉も今ではすっかり聞かなくなった。

 ここ数日はどんよりとした雲が垂れ込めるだけで地面が濡れる事はなく、ぎりぎりで保っていた堰も水嵩が徐々に減って落ち着いてきていたのに、小雨でもこれが長引くようであれば、また川の氾濫に怯えて生活せねばならないかもしれない。

 飯桐いいぎりは窓から外を見て溜め息をついた。晴れ間も少なく、洗濯物すら乾かない。以前は容赦なく照り付ける太陽を恨めしく思っていたのに、今では太陽が恋しい。

 夕暮れ時、まだ日は沈んでもいないのに、辺りはもう真っ暗だ。飯桐は夕餉の準備をしようと思って、はたと友人に鍋を貸していた事を思い出す。旦那の帰りは遅く、今から取りに行っても間に合うだろう。

 再び窓の外を睨んでから、飯桐はやっと乾いた傘を開いて小走りに友人宅へと向かった。



 鍋を返して貰ったらすぐに帰ろうと思っていたのに、つい長話をしてしまった。何をそんなに盛り上がったのかは本人たちにも分からないが、女同士の会話などそんなものだろう。鍋を小脇に抱え、家路を急ぐ。家々の明かりもあるとはいえ、暗がりの中をぴちゃぴちゃ泥を跳ねながら進んで行く。雨のせいもあり、それほどに遅い時間ではないというのに外には人ひとりいなかった。

 家の近くの橋に、誰かが佇んでいる。橋といっても本当に小さなもので、川というよりも水路のようなものにかけられているものだったが、そこも既に水で溢れている。小さな水路とはいえ、あんなところに立っていては危ない。橋を渡る方向ではなかったは、飯桐は声をかけるべく近寄っていく。

 その人は、傘もささずに暗がりの中ただ佇んでいる。どれくらいの時間そこにいたのだろうか。着ている物もすっかりと濡れていて、髪の毛も顔にべったりと張り付いている。まるで水の中に落ちた人のようだ。

 しかし本当に今水に落ちてしまえば洒落にならないので、飯桐は不審に思いつつも声をかけた。

 だが、その人は全く返事もせず、振り返りもしなかった。もしかしたら自死を考えているのだろうか。確かに農作物は育たず、畑は水没してしまった。果樹も地盤の緩みで倒れたり、根腐れを起こしてこの先数年実りは見込めないだろう。それでも、前を向いて生きて行かねばならない。

「あの……」

 再び飯桐は声をかけ、袖を引っ張った。その人は少しだけこちらを向いた。


 「それ」は最初後頭部だった。べっとりと張り付くやや長目の髪の毛の隙間に、少し日焼けした肌と毛穴のある後頭部が見えた。何故か衣服が後ろ前なのだ。この人は、向こうを向いている振りをして実はこちら側を向いていた。

 何故?

 視線を襟元まで落として、後頭部なのに顎があるのを見止める。

 飯桐の体は動かなかった。意味が分からない。暗がりで何かを見間違えたのだろうか。顔を上げる勇気がない。

――これでもし、「見間違え」でなかったら?

 冷静に考えればあり得ない。後頭部に顎がついている訳がない。だが、冷静になろうとすればする程、後頭部の肌があんなにも滑らかな訳がないという考えに至ってしまう。衣服を逆に来ているだけだ。

 何のために?

 そのまま視線を下に落としてから、飯桐は激しく後悔した。足が向こう側を向いている。つまりこの人は、衣服を後ろ前に着ている訳ではない。

 目が合わなかった。張り付く髪の毛の隙間から鼻もなかったような気がする。唇の色はなんだっただろうか。

 この人は返事をしなかったのではなく、出来なかったのか?


 顔。

 顔がない。

 自分の浅い呼吸の音だけがひどく大きく聞こえる。相手は呼吸しているのだろうか。

 莫迦ばかな考えだ。そんな事ある訳がない。何十年も生きて来て、そんなものは見た事がない。もう一度確認すれば分かる事だ。

 飯桐は恐る恐る顔を上げたが、その瞬間その人は踵を返して去って行き、やがて暗闇の中に消えた。


 飯桐には、もう追いかける勇気はなかった。



 家に帰ればもう旦那が帰宅していて、帰りが遅い事や食事の支度が出来ていない事を叱られたが、飯桐には全く入って来なかった。うわの空で謝ってなんとなく調理を始めるが、先程の事が頭から離れない。こんな事を話せば旦那には一笑されるだろう。仮に旦那がそんな話をしてきたとすれば、自分は見間違えだと言って相手にもしないだろう。

 そうだ。一瞬しか見ていないし、単純に目を見逃しただけだ。

 本当にそうか?

 こんな暗闇で、しかも雨が降っている中だったから見えにくかったのだ。

 肌の色や毛穴まで見ておいて?

 有り得ないと思う自分と、それを否定する自分がせめぎ合う。


 飯桐はその晩寝付けなかった。錯覚だ錯覚だと自分に言い聞かせるが、目が冴えて眠気が襲って来なかった。雨はもう止んだようだ。旦那のいびきだけが室内に響き渡る。やがてうとうととして来た頃、キーキーとした鼠の声が耳元でしているような気がして、得られた睡眠はとても浅いものだった。

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