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むつのはな  作者: あみか
第三章
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 何処からか、かなかなかな、と寂しそうな虫の声が響いてくる。


――ああ、またこの季節か。


 見上げれば、橙色から紺色へと、空一面が絵画のように塗り潰されている。よく見れば不思議な色だ。緑のようで、黄色のような、紺でも橙でもない色。


――この季節は嫌いだ。


 昼間は煩いくらいに緑が茂る木々が、今は影がそのまま起き上がったように濃淡の空を黒く塗り潰している。


 ちりん。


 一つ、涼を取るための鈴が、風に揺れる音がする。

 何処からかともなく、香の匂いが漂ってきて、理由もなく切ない気持ちになる。


――何も悲しい記憶なんてないのに、どうしてこんなにも胸を締め付けるのだろう。


 嫌いなのに、どこか恋しくなる。


 高く高く、突き抜ける様に澄んだ青に溶け込んでしまいそうになる空も、陽炎で揺らぐ景色も、浮かぶ汗を拭うように吹き抜ける一瞬の風も、忙しなく叫び続ける蝉の声も、白くどこまでも膨らんでいきそうな雲も、鮮やかな太陽の様な花も、キラキラと輝く水面も、全部、嫌いだ。


 長く伸びる影が、自分に突き刺さる。

 刹那的なもの全てが、胸を苦しくさせる。

 命尽きる直前の、一瞬の煌めきがここにはある。


 畦道で誰かが振り返る。暗くて、その顔は分からない。蛙の声に掻き消されぬように、その人は私を呼んだ。

 でも、その名前はもう、思い出せない。




 頬に違和感を感じて、陸奥むつは目が覚めた。ゆっくりと瞬きを繰り返し、徐々に意識がはっきりとしてくる。久しく嗅いでいなかった、雨の匂いがする。

 ぴちょん、と天井から雫が落ちた。濡れた床に弾かれ、雫がばらばらに砕け散った音だ。

 上半身を起こすと、違和感を感じた頬から唇へと、水が伝って行く。天井から落ちた水が、頬を打ったようだ。

――それとも、泣いていたのだろうか。


 辺りを見回すと、石造りの小さな部屋だという事が分かる。窓もなく、カビ臭い。頼りない灯りが一つだけ、壁際でゆらゆらと揺れていた。両手首は背後で縛られていて、ヒリヒリとした痛みが襲って来る。心なしか腹部も痛い気がする。耳を澄ませば、遠くで轟々という音が聞こえる。そこかしこから、水の気配を感じる。


 一体どれくらい意識を手放していたのか、ここはどこなのか。一切の手掛かりもないこの部屋で、とりあえず立ち上がり、扉に後ろ向きで手を掛けるが、案の定ピクリともしなかった。

 小さく溜め息を落とし、ふと思い出す。

タオ?」

 気を失う前は、確か着物の中に入っていたはずだった。大抵大人しく隠れているが、それでもいるかいないかは分かる。だが今は、どこにも道を感じられない。

「道、いるなら出て来て……!」

 捕まって別の場所にいるのだろうか。出来る事なら逃げ出していて欲しい。もしあの子が酷い目に遭ってしまっていたら、それは自分のせいだ。あの子は何もしていない。勾玉だって、何の関係もない。


 だが、あくたがそれを持っているとばれてしまったら、一人では野宿さえ出来なかったあの箱入りが抗えるとは到底思えない。殺されてしまうのだろうか。太知たちを見る限り、妖怪たちは生きるか死ぬかもうぎりぎりで、血眼になって芥を探すだろう。恐らく今、芥が欠けた勾玉を所持しているのを知っているのは自分とぬしだけだ。主は芥に神隠しの依頼をしているし、自分が洩らさなければ妖怪たちにばれることはないだろう。

 だが、自分が勾玉を持っていないことが露呈するのも、もう時間の問題だ。もしかしたら意識がない間に確認されたかもしれない。道も、その時に……。

 陸奥はぶんぶんと冠を振る。そんな事はない。道は無事だ。絶対に。そして芥も、今もこの先も、きっと無事だ。


 ほんの数日前まで行動を共にしていたはずなのに、随分前の事のように思える。のらりくらりとして、調子のいい、風みたいに捉えどころのない人だった。何の手掛かりもない神隠しを、彼はどうやって解決するのだろう。そもそも、どうやって王宮から勾玉をくすねたのだろうか。そして、一体何のために?


 太知らに襲われた皆は無事だろうか。蛍の体調は回復しただろうか。目の不自由な主は……

 ただ数日過ごしただけの者を心配する義理など、本来無いのかもしれない。それでも陸奥は、芥の事も、れつたちの事も考えずにはおれなかった。


 答えも出ない事をうだうだと考えて、どれくらい時間が経った頃だろうか。ピクリとも動かなかった扉が急に音を立てた。れんだろうか。聞きたい事が山程あり、一体どれから尋ねよう。場所か、時間か、道か、これから自分はどうなるのか。弱気でいればいいのか強気でいればいいのか、陸奥は態度もどうすればいいのか分からない。


「手荒な真似をしてすまなかった。気分はどうだろう?」

「……誰?」


 部屋に入ってきたのは、煉ではなく、お面をした謎の人物であった。服装も、この国のものとも、妖怪たちが纏っていたものとも、どこか違う。陸奥は上から下まで舐めるようにその人物を凝視する。人か、妖怪か。

「何か私についているかな、お嬢さん」

「……いえ」

 面を着けているせいで、表情も目線も分からない。ただ、年齢は三十台か、もしかしたら四十台くらいかもしれない。

「さて」

 彼はしゃがみ、座り込んでいる陸奥と視線を合わせる。

「君はこれが何だか分かるかな」

 硝子の容器に入れられた石が、カツンと音を立てた。不思議な色の石の欠片を目の前にかざす。この数色入り混じった色の石を、確かに陸奥は妖怪の里で見た。

 あの時の光景が一瞬で脳内に浮かぶ。中身が散らばった、芥の鞄。女物の巾着に、欠けていても一目で分かる、不思議な色の勾玉。あの時見たあれと、全く同じ色をしている。

「まぁ、どちらでもよいがな」

 その言葉を、陸奥は心の中で繰り返す。どちらでもよいとは、どういう事なのか。

「勾玉を持っていないお前は用無しだが、あの若い狐が面白い事を言って来たのでまだ生かしておいてやる」

 急に、指先に血が通っていないような感覚に襲われた。手首を縛られているからではない事は明らかだ。心臓の音だけが、やたらと陸奥を焦らせる。


――持っていない事が、ばれている。


 陸奥の顔から血の気が引いたのを見て、男は愉快そうに笑った。

「はははっ。そう怯えなくともいいだろう」

 顔が見えなくとも、気に食わない表情をしているであろう事だけは分かる。弱者の上に立つ優越感、支配感が楽しくて堪らないのであろう。

 この男は不快だ。こういう出会い方でなくとも、恐らく仲良くはなれない。人を見下す事でしか、自らを肯定出来ないゲスい奴。クズなどというあざなは、こういう奴にこそ付けるべきだ。

「一度、真名しんめい解放以外に力を覚醒させるその能力、見せて貰おうか」


 そう言うと男は一度部屋の外へ出て、そしてすぐに戻ってきた。が、一人ではなかった。連れて来られた人物は、歩くのもやっとという程に衰弱しておりで、部屋に入るなりお面の男に背中を押され、そのまま前に倒れこんでしまった。

「な、何で……?」

 今にも消え入りそうなその者は、正に陸奥をここへ連行したであろう張本人、煉であった。

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