榧
榧は王宮では針妙と呼ばれる役職についていた。これは所謂お針子仕事を生業とする役職である。位としては下層ではあったが、そんな事は全く意に介さなかった。榧は自分の仕事に誇りを持っている。幼い頃からずっと着飾る事に憧れを持っていたし、王宮に衣装を司る部署があると知ってからは、裕福とは言えない家庭に生まれながら、ずっと努力して手に入れた地位だからだ。
他の部署よりも試験の難易度が低く、むしろ実技試験に重きを置いていると言えども、それでも血の滲む様な日々だった。国民全員が字を読み書きできる訳でもないこの国で、まともな学校にさえ通えず、親には相当な迷惑をかけた。近所の読み書きが出来る人がいれば習いに行き、遠くであっても以前王宮に勤めていた人がいれば試験勉強を手解きしてもらった。王宮の慣習や、衣装の決まり事も聞きかじり、親には借金もさせてしまった。家の仕事を手伝う事も出来ず、寝食を忘れて机にかじりついた。
試験には七度目で合格した。もう諦めてしまおうと、何度も何度も思った。毎年試験が近付く度に、緊張で眠れぬ日々が続き、不合格が分かったときには食事も喉を通らなかった。それでも、親兄弟がずっと支え続けてくれ、榧本人が折れても家族は決して折れなかった。
そうして手に入れた今の仕事だからこそ、榧はやりがいを感じていた。
今針妙たちは、あと半年後と迫った戴冠式及び即位式の衣装作りに追われていた。榧はまだ王族の衣装を手掛けられるような立場ではなかったが、それでも一生に一度しかないかもしれないこの行事に、心血を注いでいた。
教会から冠を戴く戴冠式の後、万民にそれを報せる為の即位式。正直そこに差があるのかどうか分からなかったが、この国では代々そのように分けられている。
そのため、お色直しがあったり、官僚たちの衣服を仕立てる他に、神官たちの特別な衣装を仕立てねばならず、ここ数か月てんやわんやしている。何せ、百年ほどこのような儀礼が執り行われてこなかったため、前回の様子を知っている者は一人としておらず、文献だけの資料で形にしないといけなかったからだ。
しかも、重要でないような部分は街の衣装屋やらなんやらに委託したところ、費用だけ持ち逃げされ、急遽その分まで仕事が回ってきてしまった。その責任が一体どこにあったのかなど、榧には知る由もない。
持ち逃げの被害を被ったのはここの部署に限った話ではなく、最早王宮はこぞって大わらわである。
それでも、榧はこの浮足立った雰囲気がとても楽しいと感じていた。確かに寝る間も惜しんで仕事に当たっているので精神的にも体力的にもきつい日々が続いているが、好きでついたこの職業、しかも稀有な祭典とあれば、生来の気質も手伝って、とてもわくわくしていた。
一体、どんな式になるのだろうか。
サラスヴァ様の一件以来、王族が外に出ることもなく、王不在の日々では、大きな仕事というのは舞い込んで来る事はなかった。サラスヴァ様の時代を知っている先輩たちは、味気のない衣装と言いながら普段仕事を行っていたが、王が即位されれば、式典や、もしかしたら外交の儀があるかもしれない。そうとなれば着飾る機会というのは自ずと増え、華やかな衣装に袖を通す事になるのだろう。
榧は、そんな先輩たちの浮かれ具合を肌で感じ、そして自分もそんな日々を想像してはにやけてしまうのだった。
もし、自分が考案した衣装を、真昼様がお召しになるとしたら……。そんな事を考えるだけで、どうしようもないくらい心が躍る。美しい装飾品を身に纏い、季節を感じる小物、うっとりするような香。美しい発色の紅を点し、イーリアス神が身に着けていたと伝わるタイアーラを戴冠したお姿。夢のような話だが、夢で終わらせたくない。終わらせない地位に、今自分はいるのだ。それでも、そこに至るまではまだまだ勉強不足。精進しなければ。
榧は先輩に言われ、普段足を運ぶ事のない蔵書庫へと古い文献を探しにやってきた。それは普段人の出入りが多い書庫ではなく、基本的に読む事もないが、捨てるに忍びない書物がごまんと積まれた倉庫であった。埃っぽくかびくさい空気が充満しており、榧は思わず袖で口元を覆う。
灯りを灯し、燭台へと置くと、ぎりぎり文字が読み取れるくらいの明るさになる。だが。
「この膨大な本の山からどうやって探せっていうのよ」
整然と並べられた書庫と異なり、無差別に保管されている書物の山々。棚に収められているものから、ただ床に積んであるものまであり、ここから任意の本を探すことなど不可能に思われた。榧が思わず泣き言を口にするのも無理はない。
結局榧は、一日かけて二冊しか見付け出すことが出来なかった。むしろ本人的には、二冊でも見付けられた事が奇跡のようだ。一体今何刻だろうか。すっかり喉がカラカラに乾いてしまっている。ただでさえ空気の悪いこの部屋での作業は苦痛以外の何物でもなく、明日は別の人に変わって探してもらおうと決意した。
かなり沢山油を入れてきたはずなのに、さっきからずっと灯りが弱く、ゆらゆらと揺れている。入り口側に置いた燭台の火はとうに消えており、奥の火ももうじき消えてしまうだろう。そうなれば、窓もないこの部屋は真っ暗になってしまい、出口まで辿り着くことすら難しくなる。榧は慌てて部屋を出ようとするが、積んであった本の山に足を取られて転んでしまった。体中のあちこちに、書物を潰したような感覚があり、そして痛い。恐らく服も埃まみれになってしまっただろう。泣きたい気持ちになりながら身体を起こすが、それと同時に暗闇が広がった。火が消えてしまったのだ。
「もー」
榧は座り込みながら何も見えなくなった空間を見渡す。本当に何の光もなかった。音もないはずなのに、しーんという音がするような気がする。
暗闇から何かが飛び出してきそうな気がして、榧はぶるっと身震いする。
イーリアス神の居城で、悪いものがいる訳がない。早くここから出よう。
一瞬部屋が明るくなった。榧はびっくりして動きが止まった。本棚で隠れて見えないが、誰か入ってきたようだ。同僚が遅くなった榧を見に来てくれたのだろうか。また転んではいけないので、榧は同僚が灯りをつけてくれるのを待った。
しかし、火が灯される事はなく、真っ暗闇の中で、ぼそぼそとした声が聞こえてきた。
「まだ見付からないのか」
男の声には苛立ちがあった。
「は、申し訳ございません。行きそうな場所は探しているのですが……」
恐縮した声は女のものだ。
「自分から行ったのか、手助けがあったのかも分からんのか」
「申し訳ありません」
「あと半年しかないんだぞ。式当日にひょっこり現れては困る」
「はっ」
一体何の話をしているのだろうか。
「見付かっても、その場で始末という訳にも行かぬ。早めに見つけ出し、不審がられないように手筈を整える必要がある」
害獣か何かの話だろうか。物騒な物の言い方である。
「本人が見付かりそうにないなら、弟の方から攻めろ。あれは何か勘づいておる」
「弟ですか?」
女が鼻で笑ったような音がした。
「やる気もなさそうで、へらへらした変わり者としか思えませんでしたが……。そもそも彼はずっと外に出る機会を窺ってたと聞いております」
「素振りに騙されるな。勾玉もあやつが持って行ったに違いない。恐らく側近二人もついておるし、こっちの方が見付けやすかろう。いいか、一日でも早く見つけ出して、真昼も夜半も始末しろ」
「御意」
聞いてはいけないものを聞いてしまった。
榧は、二人が出て行った後も、暫くその場から動く事ができなかった。




