ユリハラにて〈後〉
摩は倒れている人々を丁寧に担ぎ上げ、ゆっくりとした動作で広場の端へと優しく横たわらせた。のそのそと広場の中央付近にいる相手の前へと歩み寄る。
七や銀、その他の里の者と違い、本当は争いなどしたくない。それでも、主の言うことには逆らうことなどできない。先程の七との手合わせを見る限り、向こうは自分たち程弱体化していないように見受けられた。気は進まないが、手加減などしている余裕もないかもしれない。兎に角今は銀が拘束できるように、隙を作る事に集中するより他なかった。
摩は人並外れて巨漢だったが、対峙して初めて相手も背丈が殆ど変わらないことが分かる。身の太さは摩の方が圧倒的だったが。伸縮自在な相手に、間合いを詰めることは望ましい事ではないかもしれないが、七程の俊敏さを持たぬ摩にとってその距離は関係のない事だった。
「ヒッサより参った、摩と申す」
相手は摩が名乗ったのが意外だったのか、ぴく、と眉を動かした。
「……本来であれば名乗るべきではないのだろうが、礼を欠くな。ウトより参じた遠だ」
甲高い声に似合わぬ、堅苦しい口調であった。
お互いが寡黙で、表情に乏しかった。なんとなく親近感を覚えつつ、一呼吸する。
遠の腕と指が伸びて摩の首を捉える。非力な遠にとってはこの方法が一番手っ取り早い。ギリギリとその気道を締め上げる。徐々に締め上げられ、顔が赤くなっていく摩だったが、ぬん、と一声振り絞ると、その体が更に一回り大きくなった。締め付けていた遠の指の長さでは首を一周出来なくなり、仕方なしに腕を元に戻す。
ある程度の反動がなければ伸ばすことが出来ないのがばれているのは、七との闘いで見抜かれていたのだろうか。少々侮り過ぎたのかもしれない。
「遠!」
駆け寄る仲間の前に、すかさず七が通せんぼをする。
「遊び相手は、あ、た、い、だよ」
「猫又風情が」
「差別はよくないぞ」
七にはその気は全くなかったが、いちいち体位を決めるその仕草が、小莫迦にしているように見えた。
一回り大きくなった摩を見て、遠は面倒だなと思った。大きくなることを見越して腕や指を長くした場合、元の大きさに戻られれば抜け出すことも出来るし、指の関節間の距離が長すぎれば締め上げる力も弱くなる。遠はちらと銀の方を見る。あの戦闘で相性までも見抜かれる程だったとは思えないが、これまでの戦い方では目的は達成できないだろう。
「糊!」
でんぷん質の接着剤として使用される糊とは違う、「の」にアクセントがある呼び方で、遠は相方を呼んだ。呼ばれた方は頷き、背筋を伸ばす。
「真名――」
「まずい!」
七は慌てて糊の真名解放を阻止しようと爪を立てる。だが、飛び掛かった七の体は、腕を一振りされただけでいとも簡単に吹き飛ばされる。空中でくるりと重心をずらし、綺麗に着地を決め、もう一度止めにかかる。ここで真名解放されてしまったら、三人がかりでも相手にならないだろう。銀も慌てて遠くから糸で絡めようとするが、それは遠が腕を伸ばして妨害される。真名解放にはある程度集中が必要だ。どうにかして気を逸らす事が出来ればと七は掴みかかるが、どうやっても吹き飛ばされる。七が四度目に飛び掛かろうとした時、糊の中でカチリと何かが噛み合う。
「真名――模糊」
霧が、立ち込める。夕暮れ時から夜へと変わりつつあり、ただでさえ暗くて視界不良だったが、どこからともなく現れた靄で糊の体が見えなくなる。
否、糊の体は実際に向こうの景色がうっすらと見えるほど薄くなっていた。その糊の姿は、大きな車輪のついた輿のようになっている。そこに、大きな糊の顔が張り付いており、やや突き出し気味の目が左右を見渡す度に、大きな大きな黒目がぎょろりぎょろりと動き回る。間近で見ていた七の顔に、冷や汗が浮かぶ。
――朧車。
その車輪が動き出せば、それを止めるのは至難の業だ。この石畳が削れ砕けているのをよく見ると、轍だと言うことが分かる。朧車である糊は、力任せにこの広場を走り回り、次々に人々を跳ね飛ばしたのだろう。そしてあまりの勢いに地面は抉れて現在のように歩くのも困難なほどに隆起したのだ。体の軽い七では、真名解放がなかったところで吹き飛ばされるのは詮無い事だ。
糊は、砕けた地面を更に粉砕するかのように、勢いよく摩へ向かって飛び出した。その速度、その質量、まともに喰らえば体の大きな摩とて吹き飛ばされるだろう。だがあの速さで迫られては、完全に躱すことはできないと、直感的に摩は理解した。どうにか直撃は免れなければ。
その瞬間、遠は両手を広げてぐるぐると回転し出す。あっという間にその腕は伸びに伸び、広場周りの建物を次々と破壊していく。数階建ての建物が倒壊し、かなり大きな破片から砕けて土砂のようになった破片まで、勢いよく落下してくる。
それは勿論、銀や摩だけではなく、夜半たちの真上にも降り注いだ。
「殿下!」
司馬は落下してくる石塊から夜半を守るように覆いかぶさる。青鞣も自らの頭を抱えるようにして蹲る。ガラガラと大きな音が広場中に響き渡る。粉塵が辺りに舞い上がり、誰にとっても視界が不自由になる。
目が利かなくても、家屋の倒壊音の中、人の声がしたのを糊は聞き逃さなかった。ぎょろりとした両目を夜半のいる方へと向け、土煙の中、石畳を粉砕する嫌な音を立てながら全速力で走り出す。
その車輪の爆音が自分たちの方へ一直線にむかっている事に気付いた時には最早手遅れで、青鞣は早々に立ち去らなかった事を後悔した。
夜半が厄介事を好んで抱える性分なのは百歩譲って仕方がないとしても、その危険から守るために自分――と司馬は仕えているのだ。
主よ。イーリアス神よ。自分の命はこの場で果てても構いません。殿下だけは、どうか。
この上なく瞼をきつくきつく閉じて、強く心の中で叫ぶ。
目を閉じた青鞣の前で、嫌な音が破裂した。
「……?」
痛みは感じなかった。感じる間もなく自分が絶命したのだと、一瞬青鞣は本気で思った。
だが、感じる匂い、音、掌から感じる感触が先程と何も変わっていないことに違和感を感じる。
そっと薄目を開けるが、土煙がひどく、よく分からない。
「司馬、無事ですか!」
自分の前にいた司馬と殿下はどうなっているのだろうか。先程眼前で鳴り響いた音は、一体何がどうなった音だったのか。嫌な想像が青鞣の脳内を駆け巡る。
「司馬! ゲホ」
土煙を吸い込んでしまい、思わず咳込む。片方の袖で口を覆いながら、もう片方で仰いで視界を確保する。早く、二人の無事を確認しなければ。
「青鞣さま」
「司馬!」
安堵感が胸に広がる。漸く視界に捉えたその眼前の光景。車輪妖怪から守るようにあちらに背を向け、四つん這いに近い形で、しっかりと殿下を守護していた。その後ろ、司馬の背中の向こうには、先程落下してきた家屋の大きな破片があり、妖怪はその巨大な破片に乗り上げたようだった。
なんという強運。否、イーリアス神の血筋というのは、こういう時に桁外れの運を引き寄せるものか。
青鞣は司馬の下に這い蹲っている夜半に手を伸ばし、そこから立たせる。煙が完全に晴れる前に、逃げ出さなければ。二人が嫌がっても、絶対に離脱する。
「司馬、早く……」
司馬の背中には、上から破片が落下したときなのか、それともその破片に妖怪が乗り上げ破壊したときなのかは分からぬが、鋭利な石が深く突き刺さっている。
痛みに耐えているのか、四つん這いのまま司馬は一言も発しない。
「立てるか」
夜半が話しかけるが、青鞣は夜半の腕を掴んで引っ張った。司馬には悪いが、長居は無用だ。この緊急事態に、これ以上この場にはいられない。
「殿下、血が……」
「気にするな。爆風で跳ねてきたやつだ」
「……血?」
二人が振り返る。今、聞こえたのは間違いなく司馬の声であった。
司馬は腰の剣を四つん這いのまま抜いた。それは常人が使用する者よりも二回り以上大きな剣であった。その大剣を杖代わりに、司馬は立ち上がり、夜半の顔を見詰める。その、切れて血が滲んだ顔を。
大きく、ひとつ大きく呼吸をした。司馬はくるりと向きを変えると、歩き出す。夜半と青鞣は顔を見合わせる。止めるべきが、それとも。
煙もそこそこに晴れて、視界が確保されてきた。念のため夜半たちは物陰に隠れる。司馬は、乗り上げて傾いている車体の妖怪の真横に立つ。
七、銀はそこでやっと人間がこの場にいる事に気が付いた。何故糊があの方向に向かって走り出したのかも漸く理解した。そして、あの人間が、今から轢き殺されてしまうであろう事も。この距離ではどうやっても間に合わない。また、あの人間が逃げることも能わない。朧車の速度からは、何人たりとも逃れることはできない。ましてや真名解放の朧車では――。
「お前が、あの人に傷を付けたのか」
司馬は柄を強く握りしめる。あの人の盾になるとそう誓ったはずなのに、結局こうやって血を流させてしまった。湧き上がる怒りが、この妖怪に向けられたものなのか、それとも自分の不甲斐なさに向けられたものなのか、己でも分からない。それでも、傷付けたこの者だけは許してはならない。
糊は乗り上げた状態から、嵌った車輪をどうにか外して後退する。ぎょろりとしたその目を、一回転させてから司馬の方を見る。
「お前が……」
「こんな事を死に行くお前に言ったところで詮無いが、最初に我々を虐げたのは主ら人間だ」
「そんな理由で」
罪のない無関係の人々を轢き殺し、夜半にまで血を流させたというのか。人間と一括りにして、武力に訴えたというのか。
「主よ」
イーリアス神より、自分が忠誠を誓ったのはあの人だ。
その祖先がたまたま国祖だったというだけ。身も心も捧げたのは夜半たった一人。彼の剣となり盾になると決めた。
大剣を構える。細い線のような月が、雲間から顔を出したその瞬間が、その刃に映る。
しかし、それは無駄な事であった。石畳さえ破壊し、半壊した家屋に乗り上げようとも、糊自体には何の傷も付いていない。いくら叩き上げた名刀であっても、糊の身体に立ち向かえる筈がなかった。
全ての怒りを込めて、何も知らない司馬は思い切り車輪目掛けて大剣を薙ぎ払う。
月は、もう雲の中だった。真っ暗で星が瞬くだけの夜空を見上げながら、夜半は呟く。
「いい時間だ」
「何故……」
司馬の大剣は、粉々に砕け散る。
「なんと、まあ」
砕け散ると、糊も、遠も、七も銀も摩も、そう知っていた。だが砕けたのは、剣ではなく糊の車輪の方だった。糊の大きな目が、更に見開かれる。
「何故っ」
遠の腕が、一瞬で司馬に伸びてくるが、その前に銀の見えぬ糸が手首を括って方向転換させる。そのまま勢いあまって伸びた腕が遠自らの体に巻き付いて行く。
「伸び縮みがアンタの専売特許だと思わないでおくれよ」
「蜘蛛の糸……」
腕だけではなく体中が糸でぐるぐるまきにされ、遠は身動きが出来なくなってしまった。
「一丁上がり」
銀は前髪を掻き上げた。
真名解放で力を使い果たし、足を折られた――車輪は足だったようだ――糊は、簀巻き状態の遠の横に並べられ、息も絶え絶えにぐったりとしていた。
その横たえられた二人を上から覗くのは、三人の妖怪と、三人の人間。
「さてさて、聞きたい事がいっぱいあるなあ」
「それはアタイたちもだよ、人間!」
七が挙手して主張する。
「いや、僕の方は君たちにはないかな」
「なー!」
にこにこしながら夜半は七をあしらう。
「若様、揶揄うのは、適当に」
青鞣が一応諫める。初対面の者の前では、最初に諫める姿勢だけでも見せておく事が重要だと、青鞣は思っている。
「はいはい」
青鞣にひらひらと手を振って、やれやれとした表情で、夜半は七たちのほうへと顔を向ける。
「君たちは、狐の主人の治めているあの州境の妖怪だろう。僕は先日までそこに拉致されてた訳でね」
そこまで聞いて、三人はああ、と合点がいった。妖怪の魔法使いならざる能力を目の当たりにしても、臆さずにこうやって相対す姿勢は、そもそも今回の人間の街への派遣の発端だったからなのだ。
実際にいたのは夜半だけ、司馬と青鞣は正直なところ初めて見る妖怪の力に臆すところがあったというのは、出来れば隠しておきたいところだ。
「そこのおっきいの」
七は司馬に向けてそう言ったが、それ以上に大きい摩を横にしている七にそう言われるのはなんだか複雑であった。
「あんた魔法使いなのね? その剣、どうなってんの?」
「いや、これは、!?」
青鞣が司馬の脛に一撃を入れる。声も上げずに悶絶する司馬の隣で、青鞣が適当に嘘を並べて剣の説明を代行する。
わちゃわちゃする人と妖怪の会話を、黙って聞いていた遠が、空を見詰めながらポツリと呟いた。
「殺さぬのか」
はた、と全員の動きが止まる。皆が横になったままの遠に視線を落とす。遠は相変わらず何処を見ているのか分からなかったが、その表情からは死を覚悟していることが窺えた。
「何故」
言ったのは、夜半だった。
「理由があるとはいえ、酷い事をした自覚はある。罪は償わなければならない」
「死にたくないやつを殺すのは罰だけど、そんなに死んでも仕方ないみたいな言い方されると、罰にならないじゃないか」
夜半は遠の隣にどかっと胡坐をかいて座る。
「もう数百年もないから僕は本でしか知らないけど、大きく言えばこれは戦争だ。人間と妖怪の戦争。命令されてやった一兵卒を罰するのは、気が進まない。君が殺人鬼であれば話は別だけど」
「……殺人鬼ではないが、妖怪だ」
「こうやって対峙すれば、妖怪にも人間と同じようにいろいろな個性や考え方、生き方があるのが分かる。それをざっくりと一括りに妖怪だから排除するみたいなのも、嫌いだ」
それは、遠も今感じていた。これまでは、人間は自分たちを害する者だと思っていた。平和に共存するなど、夢物語なのだと。人間も妖怪と同じように、個があって、主張があって、縄張りがあって、喜びも悲しみもある。容姿が違えど、そう変わらないのではないか。
「この糸、切ってやってよ」
「若様」
青鞣に向かって手を上げて制す。
「いいの?」
七が首を傾げる。
「構わないよ。生け捕りもどうしたらいいか分かんないし、殺せもしない」
「甘いな。また襲うかもしれんぞ」
「その時は司馬が牙をむく」
にっと笑って遠に白い歯を見せる。遠はふっと笑って目を閉じる。
――共存も、悪くないかもしれん。
なんとなく、遠は人間と共存する世界を思い描き始めていた。そして、それがいかに難しい事であるかも。




