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むつのはな  作者: あみか
第二章
36/102

椿

 陸奥は夢中で走った。口の中に鉄の味が広がり、呼吸がままならない。何処かの家の影に、ひっそりと蹲る。正直、今来られてはもう逃げ切ることは出来ないだろう。暫くはここで息を潜めて、呼吸を整えるほかなかった。

 恐らく彼らの目的は芥だ。それを言ったところで見逃してくれるのだろうか。芥の身を差し出せと言われても、もう陸奥には手掛かりすらない。かと言ってここの神隠しの件を言ったところで、彼らにも手掛かりはないであろうし、そもそも陸奥の口から言っていいことではない。


 先ほどの戦闘はどうなったのだろうか。陸奥の目から見て、ほぼ互角であった。この里にもまだ人はいるものの、戦えるような者は恐らく残っていないだろう。どうにかして逃げ切るしかない。あんなに人間への憎しみを露わにした妖怪に、容赦など期待できそうもない。いつの間にか何処かで鍬も手放してしまったようだし、手持ちの武器もない。陸奥はだいぶいつもの呼吸を取り戻し、何か武器になるようなものがないか、立ち上がって近くを探す。


 刹那、思い切り背中に悪寒を感じ、反射的に身を翻す。

「おや残念」

 糸目の女が、口だけで笑いながら立っていた。全身の鳥肌が収まらない。冷や汗がじっとりと滲む。心臓が痛いほどに脈打ち、そのことがはっきりと異常事態を告げているようだった。自ずと呼吸が浅くなる。

 椿の名に恥じぬ、綺麗で艶やかな赤い髪。その髪は丁寧に結ってあり、金色の簪が揺れている。その赤い髪は美しいというよりも、毒々しいとしか思えなかった。

「今食べたら流石に怒られそう。……ねえあなた、勾玉持ってない?」

 淑やかそうなこの女の、深紅の唇から出た言葉は、やはり芥を探すものであった。陸奥は何も答えられない。持っていないと答えれば、恐らく「食べられる」のだ。椿は陸奥の返答を待つが、陸奥が口を開く気配はない。

「嗚呼、もう駄目。我慢できない」

 一歩、距離を縮める。

 陸奥はじり、と一歩下がる。

「我慢しなくちゃ駄目? もう十分耐えたのよ。あんな生殺し耐えられない」

 何を言っているのだろうか。この女は、おかしい。

 自分で自分を抱きしめるようにしながら、更に一歩前に出る。

 陸奥も一歩下がる。

「食べたい。ねえ食べたいの。いいでしょう? 勾玉なんて、どうでもいいわ」

 その頬は紅潮している。唇を一舐めし、そしてその視線は陸奥の全身を舐める。

「美味しそう。あなた、美味しそうだわ。きっとすごく甘いんでしょうね。嗚呼、たまらないわ。お願いだからじっとしてて。すぐに終わるわ。痛い事なんてなあんにもない。怖いなんて思う間もなく終わるから。ね。嗚呼。駄目。勾玉を差し出させてから食べなきゃいけないのに。でも無理。無理だわ。だって本当に美味しそうなんだもの」

 苦悶なのか恍惚なのか分からない表情で、じりじりと陸奥の方に近寄ってくる。美味しそうなどと言われて喜ぶ者がいるだろうか。陸奥は視線を外さずに、一歩ずつ下がる。

 ガサ、という音がし、背後の垣根にぶつかった。

 まずい。これ以上下がれない。

 そう思った瞬間、血の気が引いた。


――この垣根は、椿。


 そう思った時には既に遅く、細い枝が物凄い速さで絡みついてきた。陸奥の腕と足を、ギリギリと締め上げる。痛い事なんて何もないんじゃなかったのか。陸奥は堪らず声を漏らした。

 そんな様子を見ながら、嬉しそうにゆっくりと椿が歩み寄ってくる。

「ふふふ。食べるのがもったいないくらい。でも食べたい。嗚呼、でももう少し堪能したいかも」

 楽しみは取っておいた方が、より倍増する。椿は今この時間を存分に楽しんでいるようだった。どんなに力を込めても、枝は折れそうにもない。食べられるの意味が分からないが、このままでは本当に食べられてしまう。椿はその白く細い指で、陸奥の顎をクイと上げる。また一つ、舌なめずりをした。

「可愛いわ、あなた。もったいないけど、ちゃあんと食べてあげる」

 反対の手で、陸奥の腰をぐいと引き寄せ、その顔を近づけて来る。


「あああああああ!!」

 耳のすぐ側で叫び声を上げられ、陸奥は一瞬鼓膜が破れたかと思った。椿はその場に崩れ落ちる。ぶすぶすと嫌な音と匂いが立ち込めた。崩れ落ちたその背中が、真っ赤に爛れている。

「無事かの、娘」

 顔を上げるといつの間にか主と蛍が立っていた。

「心臓に悪いので、もう少し早く来ていただけると助かります……」

「すまぬな」

「いえ、ありがとうございます」

 しゅるしゅると巻き付いていた枝が元に戻って行く。陸奥は倒れている椿の体を跨ぎ、主と蛍の近くまで行く。今のは結構危なかったかもしれない。

 振り返ると、椿が物凄い形相でむくりと起き上がる。背中からは、湯気なのか煙なのかが立ち込めていた。

「邪魔しないでよ。どうして邪魔をするのよ。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい」

 頭を掻き乱しながら、その欲望をひたすらに繰り返し唱える。その様子に蛍はさっと主の後ろへと隠れた。

「もう我慢できない!」

 きれいに結われていた髪はぼさぼさになり、その形相はおぞましいものであった。

 不気味な静寂が辺りを包む。


真名しんめい――椿葉ちんよう


 確かに彼女はそう言った。ひっと蛍が小さく悲鳴をあげ、主にも緊張が走る。

 椿の肌が、割れたように見えた。が、それは割れたのではなく、彼女の肌が木の幹のように変わっていた。

「怖いものなしじゃな」

 主がぽつりと呟いた。

 見る見るうちに、椿の様相が変化していく。袖から出る手も、枝のように変わり、所々に緑の葉が見える。その肌はまだ肌色に近かったが、その質感は木と変わらないように見えた。あっという間に、人と変わらぬ容姿から、すっかり面妖な姿へと変化した。

 それが彼女、椿の本当の姿だった。

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