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むつのはな  作者: あみか
第二章
35/102

火と風

――嗚呼、もう我慢出来ない。


 椿は、煉と太知が臨戦しているのにも関わらず、ただそれを傍観していた。

 そもそも、椿は戦いに向いている力を有してはいない。


――食べたい。


 このところずっと生殺しだった。食べてはいけないときつく言われていたが、最早我慢の限界だった。


――一人くらい、そろそろ食べても許して貰えるはず。


 人間を食べたい。その、命を。

 もう衝動が抑えられぬ程に欲望が膨れ上がっていた。


 太知が崩した土壁の向こうに、一人の女がいた。その甘美な気配は、人間のものだ。

 仮に咎められたとしてももうどうでもいい。今日、今から、あの人間を、食べる。



「見つけた」

 あれが件の人間か。聞いていた話では男女二人組だったが、そんなことは今はどうだっていい。太知は一目散に陸奥の方へと駆け出す。

「烈、砂、わしよりも陸奥を守れ!」

「……御意!」

 やや不服そうな間があったが、今は押し問答をしている時間はない。烈は勢いよく右手を前に出し、くいっと手首を上に返した。

 走る太知の前に、大きな火の玉が現れた。だが、風を纏う太知の刃に切り裂かれ、その火の玉は霧散してしまった。

 陸奥は距離を取ろうと走り出す。逃げる方向など分からないが、兎に角今は捕まらないことだけしか考えられない。

 砂が陸奥の救助にと走り出した矢先に、こちらもこちらで火の壁に囲まれていた。

「あんたの相手はこっち」

 煉が愉快そうに笑っている。戦いたそうにうずうずする煉とは対照的に、砂はやる気なくため息をついた。

 何故皆こうも血の気が多いのだろうか。

 仕方なく耳に手をかけ、耳環じかんに小指を入れる。これを出すのはいつ振りだろうか。あの鎌鼬は慣れた手つきで剣を出していたが、久方過ぎてやり方が合っているのかさえ定かではない。

 念じれば、耳環が熱くなる。いや、体の熱が伝わっているのか。実際に引きちぎる訳ではないが、指と絡めた環を引くと、その手には無事錫杖が現界した。その錫杖を一振りすると、たちまち風が巻き起こり、火の壁は消えてしまった。

「天狗の……!」

 煉はしまったという顔をした。

 

 物事には相性というものがある。時と場合によるが、基本的に火にとって風との相性はいいとは言えなかった。火は出した傍からかき消される。かき消されなくとも、方向を変えられれば当てることは出来ない。烈と太知、煉と砂。風使いにとっては易々と攻略できる相手ではない。それは本人たちが一番よく分かっていた。


 かつん、と二枚歯の下駄を軽く打ち合わせ、一気に地面を蹴り出すと、一瞬で地面が遠くなる。砂の体は、何の抵抗を受けることなく上空へと舞い上がっていた。飛行というよりは跳躍に近いが、今はそれで十分だった。着地したのは、陸奥と太知の間。烈には太知の相手は荷が重い。正直気は進まないが、この方々には早々にご退場願いたい。錫杖を一振りすると、風の塊が太知の体を押し留めた。


「蛍。陸奥を外へ案内せよ」

「で、出来ません」

 蛍が反駁するのはとても珍しい事だった。いつも従順で、よく言えば素直、悪く言えば意志薄弱な彼女が、面と向かって反抗することなど考えられなかった。

「いい子じゃから」

 主は蛍の頭を撫でる。宥めるような仕草に、蛍は誤魔化されたりしない。

 知らなかった。知らなかったのだ。

――主様の目が、見えないなんて。

 いつからだったのだろう。少し前にお会いしたときにはそんな事はなかった。兆候すらなかった。何故。一体、どうして。

 先程、蛍は主の部屋に呼ばれた。最近は部屋の中まで入ることが許されていなかったが、今日は違った。外にいる、烈と砂のところまで手を引いて案内してほしいと言われて初めて、主の瞳がもう何も映せなくなっていることを知った。殴られたような衝撃に襲われ、それは長く反響した。何も考えられなかったが、それでも勝手に涙が溢れて止まらなかった。慰められ、諭され、そうして漸く泣きながら主の手を引いた。庭に降りたときに知らぬ声と烈の怒鳴り声が聞こえてきて、そして今に至る。

 主の体に変調をきたすのは、人間のように病などではない。明確に力が削がれている証拠だ。つまりそれは、所謂いわゆる「死」が近いことを意味する。

 優しくて、温かくて、自分のような愚図でも分け隔てなく接してくれる、同じ狐族の長。この人がいなくなる世界など、考えられない。

 何ができる訳でもないが、今この状況で主の側を離れるなど、蛍にはできるはずもなかった。


「仕方なし。道がついておるから陸奥の大体の場所は分かるし、わしが行こう。蛍は危ないからもう隠れておれ」

「!」

 それはだめだ。絶対にだめだ。

「蛍、そんなに掴まれては歩けぬ。いい子じゃから」

 蛍はふるふると首を振る。主は困った様に笑いながら、蛍を抱え上げくるりと反転し、そして消えた。

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