火と風
――嗚呼、もう我慢出来ない。
椿は、煉と太知が臨戦しているのにも関わらず、ただそれを傍観していた。
そもそも、椿は戦いに向いている力を有してはいない。
――食べたい。
このところずっと生殺しだった。食べてはいけないときつく言われていたが、最早我慢の限界だった。
――一人くらい、そろそろ食べても許して貰えるはず。
人間を食べたい。その、命を。
もう衝動が抑えられぬ程に欲望が膨れ上がっていた。
太知が崩した土壁の向こうに、一人の女がいた。その甘美な気配は、人間のものだ。
仮に咎められたとしてももうどうでもいい。今日、今から、あの人間を、食べる。
「見つけた」
あれが件の人間か。聞いていた話では男女二人組だったが、そんなことは今はどうだっていい。太知は一目散に陸奥の方へと駆け出す。
「烈、砂、わしよりも陸奥を守れ!」
「……御意!」
やや不服そうな間があったが、今は押し問答をしている時間はない。烈は勢いよく右手を前に出し、くいっと手首を上に返した。
走る太知の前に、大きな火の玉が現れた。だが、風を纏う太知の刃に切り裂かれ、その火の玉は霧散してしまった。
陸奥は距離を取ろうと走り出す。逃げる方向など分からないが、兎に角今は捕まらないことだけしか考えられない。
砂が陸奥の救助にと走り出した矢先に、こちらもこちらで火の壁に囲まれていた。
「あんたの相手はこっち」
煉が愉快そうに笑っている。戦いたそうにうずうずする煉とは対照的に、砂はやる気なくため息をついた。
何故皆こうも血の気が多いのだろうか。
仕方なく耳に手をかけ、耳環に小指を入れる。これを出すのはいつ振りだろうか。あの鎌鼬は慣れた手つきで剣を出していたが、久方過ぎてやり方が合っているのかさえ定かではない。
念じれば、耳環が熱くなる。いや、体の熱が伝わっているのか。実際に引きちぎる訳ではないが、指と絡めた環を引くと、その手には無事錫杖が現界した。その錫杖を一振りすると、たちまち風が巻き起こり、火の壁は消えてしまった。
「天狗の……!」
煉はしまったという顔をした。
物事には相性というものがある。時と場合によるが、基本的に火にとって風との相性はいいとは言えなかった。火は出した傍からかき消される。かき消されなくとも、方向を変えられれば当てることは出来ない。烈と太知、煉と砂。風使いにとっては易々と攻略できる相手ではない。それは本人たちが一番よく分かっていた。
かつん、と二枚歯の下駄を軽く打ち合わせ、一気に地面を蹴り出すと、一瞬で地面が遠くなる。砂の体は、何の抵抗を受けることなく上空へと舞い上がっていた。飛行というよりは跳躍に近いが、今はそれで十分だった。着地したのは、陸奥と太知の間。烈には太知の相手は荷が重い。正直気は進まないが、この方々には早々にご退場願いたい。錫杖を一振りすると、風の塊が太知の体を押し留めた。
「蛍。陸奥を外へ案内せよ」
「で、出来ません」
蛍が反駁するのはとても珍しい事だった。いつも従順で、よく言えば素直、悪く言えば意志薄弱な彼女が、面と向かって反抗することなど考えられなかった。
「いい子じゃから」
主は蛍の頭を撫でる。宥めるような仕草に、蛍は誤魔化されたりしない。
知らなかった。知らなかったのだ。
――主様の目が、見えないなんて。
いつからだったのだろう。少し前にお会いしたときにはそんな事はなかった。兆候すらなかった。何故。一体、どうして。
先程、蛍は主の部屋に呼ばれた。最近は部屋の中まで入ることが許されていなかったが、今日は違った。外にいる、烈と砂のところまで手を引いて案内してほしいと言われて初めて、主の瞳がもう何も映せなくなっていることを知った。殴られたような衝撃に襲われ、それは長く反響した。何も考えられなかったが、それでも勝手に涙が溢れて止まらなかった。慰められ、諭され、そうして漸く泣きながら主の手を引いた。庭に降りたときに知らぬ声と烈の怒鳴り声が聞こえてきて、そして今に至る。
主の体に変調をきたすのは、人間のように病などではない。明確に力が削がれている証拠だ。つまりそれは、所謂「死」が近いことを意味する。
優しくて、温かくて、自分のような愚図でも分け隔てなく接してくれる、同じ狐族の長。この人がいなくなる世界など、考えられない。
何ができる訳でもないが、今この状況で主の側を離れるなど、蛍にはできるはずもなかった。
「仕方なし。道がついておるから陸奥の大体の場所は分かるし、わしが行こう。蛍は危ないからもう隠れておれ」
「!」
それはだめだ。絶対にだめだ。
「蛍、そんなに掴まれては歩けぬ。いい子じゃから」
蛍はふるふると首を振る。主は困った様に笑いながら、蛍を抱え上げくるりと反転し、そして消えた。




