夜襲
彼女は何かで目が覚めた。それは何かの音だったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。
起きた時にはそれがなんだか分からなかったが、隣で静かに寝息を立てる自分の息子を見て、胸を撫でおろした。瞑った睫毛を下から掬うように撫でると、くすぐったいのか軽く身じろぎしたのを見て笑みが零れる。
二、三年前には雨が酷く、皆子供達の前では毅然としていたつもりだったが、敏感な子供には大人達の機微が伝わってしまうようだった。集落の子供達は雨が降る度に怯えるようになり、勿論彼女の息子も例外ではなかった。割と大人しい子だったのに、雷どころかしとしととした雨でさえやたらぐずるようになった。
不安だった。大人でさえ今後どうなるか分からない中で、子供をどうやったら守っていけるのか分からなかった。
だが、娘が生まれてからは、息子は一切ぐずらなくなった。分かっているのかいないのか、小さな妹を守ろうと必死に自分の中の恐怖と闘っているのを見て、自分もただ怯えているだけでは駄目だと、そう気付かせてくれた。
夫が州都へと出稼ぎに出た後は、女手一つで幼い子供二人を必死で守って来た。
例え他州からは恵まれない土地だと言われても、生まれ故郷を愛する気持ちは変えられなかった。このウトで、家族が幸せでいられるのならば。新王の即位が、治世が、漸く訪れる。
――。
やはり何処からか声が聞こえた。
突然降って湧いた様に不安が胸を占拠した。何か、何か分からないが急に恐ろしくなって、彼女は息子と娘を揺り起こす。
一体今の時刻は。自分はどれくらい眠っていたのだろう。
眼を擦りながら、なあにと起き出した息子と、不機嫌そうにぐずる娘を宥めつつ、彼女は二人の目を覚まさせる。
まだ、真夜中の筈――そう思って漸く外が真っ暗ではない事に気が付いた。息子の睫毛を目視できる程、外が明るかったのだ。
――火事だ。
聞こえる声の意味を理解した時には、自分の呑気さを呪った。
「自分の服、持てるね」
息子はどれがどういう意図なのか分かってはいないようだったが、力強く頷いた。
娘を抱き上げて、大慌てで大事なものをかき集め、外へと飛び出した。
――熱い。
最初に脳裏に浮かんだのはその事だった。
赤にも橙にも揺れる炎が、宵闇を明るく照らし出し、それが今の現状を禍々しく訴えて来る。
パチパチという音が至る所から耳に飛び込んできて、何かが崩れる音がした。
大声で泣き出した娘をあやす余裕もなく、彼女は息子の手を引いて小走りに大通りに向かって走り出す。
何故もっと早く目が覚めなかったのか。悔やんでも悔やみきれない。今は兎に角、二人を早く安全な所に連れて行かなければ。
大通りであれば燃えるものも少なく、広場がある。小さいながら噴水もある。
深く考えた訳ではなく、ただ直感で彼女は広場を目指す。
普段竈で使うような火とは違う。炎とは、こんなにも恐ろしいものだったのか。同じものとは思えぬ程、牙をむいている。
「かあちゃん!」
息子の叫びではっと気が付くと、目の前の道は崩れて燃え盛る何かで完全に塞がれている。
ここは駄目だ。
こういう時入り組んだ小さな集落である事が恨めしい。
ぐしゃん、とも、ガラガラ、とも、色々な擬音で表現できそうに入り混じった大きな物音がして、弾かれるように振り返ると、たった今通って来た道が崩れた木材やら石材やらで封鎖され、端からじわじわと炎が伝ってきている。
何故こんな危ない道を選択してしまったのか。
火の付いた様に泣き出した娘と、口をきゅっと堅く結んだまま、気丈に振舞う息子。どうしたらこの子達だけでも守れるのか。
煌々とした明るく燃え盛る絶望に、心まで食い尽くされる。
「誰かいるのか!」
炎の瓦礫の向こう側から、誰とも分からない声がする。
殆どが顔見知りのようなこの集落で、この声の主が分からない程に錯乱した状態だった。
「助けて!」
物が崩れる音と熱気の中で、息子が大声でそう叫んだ。互いの声が霞むほどに激しく街が燃えている。
「出窓のある方の家の壁側に寄って!」
何も分からずに言われたままに三人は壁に身を寄せる。
反対側の家の壁に煉瓦か何かが投げられた。熱を帯びながらも壁は崩れる事はなく、一体何事かと思った矢先、煉瓦が当たったあたりの壁を蹴りながら、一階の屋根程の高さまで駆け上がる人影が見えた。
「さ、子供を」
自分のすぐ脇にきれいに着地し、手を差し出してくる。見た事もない女だった。そう言われて、泣きながらその人の顔を見る。顔も体も疾うに煤まみれ。皮膚から噴き出した汗で光るように濡れている。
「お願いします。子供達だけでも。お願いします! お願いします!」
必死に縋りつきながら懇願する。その人は煤だらけの顔で頷いた。
「保逵さん! 子供二人と母親が一人!」
炎の壁の向こう側へと大声で叫び、彼女は娘を抱えてまた飛ぶように向こうへと消えた。すぐさま戻って来て、今度は息子を抱える。
「かあちゃん! 嫌だ! おいらも一緒にいる!」
息子はここに来て初めて抵抗を見せた。
「お兄ちゃんだからね、妹の事、ちゃんと守れるね」
「かあちゃん! 何で! 嫌だ! 言う事聞くから! もう我儘も言わないし、好き嫌いもしない! どうして、嫌だ嫌だ!」
その人の腕の中でじたばたと暴れる息子をどうしても抱きしめたくて、近付いて頬と頬を寄せる。
「大好きだよ」
「かあちゃん……やだよぉ……」
「怒りんぼのお母さんでごめんね。この世で一番愛してる。――この子を、あの子も……お願いします」
「承知しました」
「かあちゃん!!!」
彼女は軽やかにまた家を越えて揺れる炎の向こう側へと消えた。
自分の死への恐怖よりも、今はあの子達が助かったと言うほっとした気持ちの方が大きい。短い間だったが、一緒に過ごせて幸せだった。あの子達を自分の元へと使わしてくれた、イーリアス神に感謝を。
「子供はこれで全員か!」
噴水周りに急ごしらえの司令部を仮置きして、情報収集と救護と避難場所としていた。
「多分、あと二人!」
怒号が飛び交う中で、そう答える者があった。
「くそ! どうなってやがる!」
どう考えても火の手が速すぎる。何十もの火矢でも放たれたかのようだった。
「あれだけ水があったっていうのに、こういう時になんで降らねえんだ!」
「孟孝さん!」
慌てて駆け込んできた人物を見て取って、その手には子供が二人いる事に驚いた。
「司馬さん、あんた――」
駆け寄って来た集落の女達に二人の子供を預ける。
「早く、この子達に水を」
泣きじゃくる兄妹に女達が宥めながら解放する。
「孟孝さん、まだ取り残された人達が沢山いる。まだここに来ていない人達の家の場所を一刻も早く纏めて欲しい」
それだけ言って走り出そうとした彼女を、保逵と呼ばれている少年が掴んで止めた。
「水、飲んでおかないとへばるぞ」
「ありがとう」
ぶっきらぼうながらも、彼女の分の水をしっかり用意しているあたりが彼の優しさなのだろう。飲んで余った分を頭から被りながら、二人はまた駆けて行ってしまった。
「村長、あの人達何者なんですかね?」
話しかけられた孟孝はただ唸る。たまたま宿に泊まっていた者にしては、動き方が並大抵の旅人ではない。
助け出された子供のおよそ半数が、あの司馬と呼ばれる変わった字の女によるものだった。
そして青年と言うよりも少年のような彼も――何故かさん付けで呼ばれている、保逵と言う者――集落の構造、炎の広がり方、焼け落ちにくい建物にやたらと詳しく、避難経路の確保に一役買っていた。
「地図あるか、地図!」
今は彼らが何者であるかなどどうでもいい。一人でも多く助けなければ。
だが、彼らが助ける人数と、助けられない人数。果たしてどちらが多いのであろうか――。




