握力がおじいちゃん
あまり考えすぎずに直感的に行動を起こし流れに身を任せれば良いのだとどこかで思っている。
そのせいか、ほとんどの場合、それはなんとかなるだろうと言う漠然とした雰囲気に打ち消されるのだが、時々、自分は何をやっても失敗するだろうと言う想像が勝手に働くことがある。
私が最も不安になるのは、自分が全ての人に嫌われているのではないかと言うことである。
この不安は私の根っこの部分から静かに這い上がり、水が染み出すみたいにじわじわと私の心を満たしていく。そして、どう足掻いても、こうして浸み出した不穏な物質から逃れることはできないのである。
それはふとした瞬間に湧き上がり、私がどこへ行って何をしようが、逸れることなく付いてくる。涙ぐましいほどに忠実で健気で、しっかりと自らの責務を果たすが、お陰で私はどこへ行っても不安に付きまとわれ、時には押し潰されそうになる。
きっと嫌われているだろう、嫌な人と思われているだろう、迷惑がられ、煙たがられているだろう、などと考え出すといとまがない。
恋人が出来れば、私の事を嫌いでなければ好きでもないだろう、何かが違うと感じているだろう、私といてもつまらないだろう、特に会いたいとは思われていないだろう、と考えるばかりである。
時々その人が自分を褒めなかったり、繋いだ手を握り返さなかったり、恋人らしい何某かを囁いたりしなかったならば、ああ、いよいよ別れの時かと心構えをする。
そして、どうして私はこんなに好きなのに、彼は同じだけ私を愛してはくれないのかと残念になり、やはり私は嫌われているのだと、彼に対して疑いを濃くする。それどころか、最早決定に近いほど強固なものとなる。
わたしの恋人は握力がなかった。
手を繋いでいても、いつも握り返してくれなかった。
握り返してくれなかったというよりも、その握力のせいで握り返されていることに気づかなかったのかもしれない。
だから、いつもわたしは一方的に彼の手にしがみついているみたいだった。
彼はというと、私が言うまで握り返していないという自覚もなかった。彼は私の手を握っているつもりだったが、実際には握力が弱すぎてそれが出来ていなかったからだ。
握力がないことに加えて、彼は夢中になると周りが見えなくなるタイプだった。私が彼の手をとっても、彼は町の人集りや珍しい商品などに夢中で、気づかない。
何の力も篭められていない彼の手を、私はただ勝手に握っているだけだった。
色白の彼は、その力のない手も同様に真っ白で、その上棒のように痩せて細かった。わたしは本当に彼の手を握っているのだろうかと、しょっちゅう不安になって彼の手を握っている自分の手元を確認した。取って付けたような白く頼りない手が、だらしなく腕にぶら下がっていた。
どうしても握り返して欲しくて、一際強くそれを握ったこともあるが、それは余りにも細く儚かったので、私の握力で容易く潰れてしまうような気がして怖くなった。
時々、人混みに揉まれると、細くて白い彼はシワくちゃになって消えてしまうのではないかと心配になった。
そうやって、心配して彼の手を握っても、相変わらずその手はただぶら下がっているだけで、逸れないように強く手を繋いでいる目の前のカップルをよそに、彼の目は道端にすわるホームレスや奇抜な格好をした若者に向いていた。
かといって、彼らがニヤニヤしながらこっちを見ていても、彼は、目をそらすでもなく無表情で見続けるだけだった。
友人に彼を紹介すると、皆決まって、変わってるね、と言った。
どのへんが、と聞くと、全体的に、なんとなく、などど言って笑って誤魔化した。
友人たちにはあまり評判はよくないらしかった。
確かに、もし私が友人と同じ立場だったら、同じような反応をするだろう。私が知っている穏やかな居心地や優しい沈黙といった彼のよさは、一度や二度会っただけではわかるはずがなかった。
私はもうすぐ彼と別れるだろうと直感した。
彼は本当は手を繋ぎたくないと思っているに違いなかった。
彼の握力については、仕方がないことだと思ったが、彼の方から手を繋いごうとする仕草さえ見たことがなかった。
彼は握力がないことを言い訳にしているにすぎない。
それどころか、食事もろくにせず、会話もほとんど無い。
彼がすることといったら、私の話を黙って聞くことと、予定をキャンセルするか先延ばしすることくらいだ。
どうして私はこんなに彼のことを好きなのに、彼は私と手を繋ぐことすらしてくれないのだろうか。同じだけ愛情を持つことはできないとしても、そういう素振りだけでもしてくれたら少しは心休まるというものだ。彼には全く、気持ちというものがこもっていない。私が泣きながら何かを訴えても、黙って聞いて頷くだけで、何も答えてはくれないのだ。
しかし、実のところ今でも付き合いはある。彼は私の家の前で待つようになった。わたしの想いが伝わったのだろうか。私が外出する時は見送り、帰ってくる時には出迎えてくれる。相変わらず無口だが、予定をキャンセルすることはなくなった。最近はいつもゴミ捨て場のすぐ横で静かに座っている。