第一章 2011年3月11日 〈7〉
ガビー、ザピーと云う雑音にチャンネルのつまみをゆっくり動かしていると、男性アナウンサーの硬直した声が聞こえてきた。
『……午后2時46分ごろ、三陸沖を震源とするマグニチュード8.8の地震が発生しました。沿岸部では津波が発生しており、ところによっては10メートルに達する津波が到達したとの情報も入っています」
(10メートルの津波!?)
渚は耳をうたがった。家屋の1階部分を呑みこんでいた先の津波で、2メートルほどの高さだったろう。それだけでも町はとんでもないことになっている。
パニック映画で描かれる津波は、高層ビルをはるかにこえる高さでせまりくるが、実際は大人のヒザ下数10センチの津波でも足をとられて流されてしまうと、防災の特別授業で習なら)ったことがある。
10メートルがどのくらいの高さなのか具体的なイメージこそできないものの、信じられない大津波であることはわかる。
アナウンスはさらにつづいていた。
「……第2波、第3波がさらに大きくなる危険もあるため、沿岸部の住民はしばらくの間、高台へ避難し、数時間は推移を見守るよう注意をよびかけています……』
渚はラジオのスイッチを切ると、母が心配になって町を見下ろせる鳥居へと駆けだした。
そこで渚が目にしたのは、世界の終わりとも見まごうすさまじい光景だった。
引いたと思われていた黒い波がふたたび牙をむき、町を呑みこんでいた。
家屋が黄土色の煙を上げながらバリバリとかみくだかれて濁流へ消えていく。
どこにこれだけのものがあったのかとおどろくほど大量の材木やガレキが水面をおおいつくし、たくさんの車がプラモデルみたいに軽々(かるがる)と押し流されていった。
渚の家を視界からさえぎっている津波避難指定ビルの3階建てマンションの屋上も水をかぶり、屋上へ避難ひなん()している人々が柵へしがみついて必死に流されまいとしている姿も見えた。
これは渚の家が完全に水没したことも意味していた。最悪の事態が頭の中を駆けめぐり、渚の瞳から涙があふれた。
(母ちゃ……!)
渚はそうさけぼうとしたが、のどの奥でゴムボールがふくらんだかのような圧迫感をおぼえ、息ができなくなった。
胸中にわき上がる不安と恐怖で、一瞬、目の前がまっ暗になり、よろめいた体を鳥居にあずけながら、ずるずるとその場へしゃがみこんだ。
何度もまばたきすると光がもどってきた。しかし、呼吸はあいかわらず苦しかった。
たくさん息をしようとするとかえって苦しくなることに気づいた渚は、体を丸めて息をとめた。
ややあって、少し息を吸うと、冷たい空気が肺へ送りこまれるのがわかった。あわてず細く長く息をする。
なんとか体を起こすと、波立つ黒い水面に向かって泣きながらさけんだ。
(母ちゃーん!)
……否。さけんだつもりだったが、声は出ていなかった。
渚は耳が聞こえなくなったのかと思ってあわてたが、吹きすさぶ風の音や、遠くで鳴っているらしいクラクションの音、津波が町をごうごうと呑みこんでいく音は耳にとどいている。
(あ、あ……、あれ、声がでない!?)
口はまちがいなく動いているのだが、自分の言葉が聞こえなかった。
(声がでなくなるなんて……)
渚はしゃくりあげながらぼう然とした。信じられないできごとが多すぎて、頭の中がまっ白になった。
お昼すぎまでいつもと変わらなかったのどかな町が、小一時間で失われているのだ。
「悪夢」とか「地獄」とか、そんな言葉では云いあらわすことのできないほど深くて暗い絶望の淵にいた。
目に映るすべての景色が色あせたニセモノのように感じられた。ほおをつたう涙だけが妙に熱い。
(……大丈夫。あなたは私が守ってみせる)
渚の耳元で女の子の声がした。渚はおどろいてふりかえったが、まわりにはだれもいない。
(……デンパってやつか? ぼくはおかしくなっちゃったのかな?)
渚は顔の涙をぬぐいながら思った。万が一、女の子に泣いている顔を見られたら恥ずかしいと感じる無意識の動作だった。
(デンパってなに? なんかよくわかんないけど、バカにされた気がする。……あなたはおかしくなったわけじゃない。ずっと私の声が聞こえてたでしょ?)
幻聴ではなかった。声の主は見えないが、たしかに女の子の声がする。