第一章 2011年3月11日 〈5〉
5
渚は気を失っていたらしい。
目を開けると、とびこんできたのは鬱蒼としげる黒い樹々(きぎ)のシルエットだった。枝葉のすきまから雪の舞う鈍色の空がのぞく。
渚は大きな樹の太い根のくぼみに体をあずけていた。まるでだれかに押しこめられたかのようなムリな体勢が息苦しい。
渚は根っこへ手をかけて体を起こした。しめり気をおびた土と樹とクマ笹のにおいがする。
「痛ててて……」
ダウンジャケットのおもてにすり痕がたくさんついていた。クマ笹のやぶの中を全力でつっ走ってきたかのようだ。あらためてぐるりを見わたすと、うしろに神社の側面が見えた。
(月見山の潮見神社だ! え? どうして、ぼくはこんなところに……?)
渚がいたのは、潮見神社裏手にある大きな樹のうしろだった。かくれんぼやカンけりでもなければ、こんなところへ自分からくるはずもない。
わけがわからないまま、とりあえず境内へ移動することにした。
神社の拝殿とその奥に位置する本殿は、くすんだ朱色の木の柵でかこまれている。その柵ぞいに拝殿正面へまわりこんだ。
ひらけた拝殿正面では、20名ほどの大人たちが身をよせあうように立ちつくしていた。
大人たちは鳥居から距離をとって、その先をぼう然とながめていた。時おり小さなうめき声がもれる。
渚も手水舎のうしろを通って鳥居へ近づいた。神社は月見山の高台にあるため、鳥居から先は長い石段がつづいているのだが、その下の道路が水に浸かっていた。
渚がおどろいて顔を上げると、町全体が黒い海に呑みこまれていた。
ぞよぞよとうごめく黒い波が、スクラップにした家や車の残骸を押し流している。パニック映画でも見たことのないような禍々(まがまが)しい光景に背すじが凍る。
(……そうだ! 地震があって、みんなで避難してて、津波がくるって云うから走って……、どうして、ぼくはこんなところにいるんだ!?)
渚は困惑した。宝船町公民館から月見山の潮見神社まで、直線距離でも2~3kmはある。
渚がどんなに一生懸命走ったところで、一瞬でこんな遠くまでこられるはずもない。渚は状況を必死に思いかえしてみた。
(……大塚先生が「津波だ、走って!」って云って、みんな走って、そしたらだれかに腕をつかまれた気がして……そうだ! そのまま強い力で、竜巻みたいなスピードで、どっかに引っぱられたんだ)
そこから先の記憶がない。気を失っている間にここまで運ばれたことになる。
(でも一体、だれがどうやって……?)
「……渚!? 渚じゃない!?」
耳なれた声が渚の思考を断ち切った。
ふりかえると、銀色の防災袋を肩にかけた渚の母・恵子が立っていた。
「母ちゃん!」
駆けよる渚を恵子が抱きしめた。
「よかったー、無事で。ほんっと心配だったの。よかったー」
渚こそ母の声とぬくもりに心底ホッとした。
「お父さんも無事だって。地震のすぐあとにケータイから電話があって。そのあとケータイ使えなくなっちゃったんだけど、避難するって云ってたから、大丈夫だと思う。……こう云う時に使えなきゃ、ケータイの意味ないよねえ?」
恵子が使えない携帯電話を片手に笑ってみせた。
渚の父・清志は宝船町のとなり、北へ位置するえびす町の水産加工場に勤めている。この近辺は海沿いの町と云うこともあって、漁業関係者が多い。
清志の祖父も漁師だったが、昭和8(1933)年に起きたマグニチュード8・1の大地震と、それにともなう大津波で漁船を失い、廃業の憂き目にあっている。
清志は幼いころから祖父におそろしい津波の話を聞かされていたので、
「一秒でも早く高台へ避難しろ!」
と電話口で恵子へさけんだ。
恵子はその剣幕に押されて、防災袋だけを手にあわてて月見山の神社まで避難してきたのだ。
父も無事だったと聞いて、渚は胸をなで下ろした。
しかし、今度は小学校のみんなの安否が気になった。宝船町公民館のある方へ顔を向けるが、丘の陰になってようすをうかがうことはできない。
「渚、それあったかそうね。昔の雪ん子みたい」
恵子が渚のかぶっている防災頭巾を指さしてほほ笑んだ。そして、おかしなことに気がついた。
「……渚。あんた学校からひとりでここまできたの?」
防災頭巾をかぶっているのは、学校で地震にあった証拠だ。津波のさいには、小学校からほど近い高台の宝船町公民館へ避難することも知っている。
「それがよくわかんないんだけど、みんな避難してるとちゅうで、なんか引っぱられて、ぐるぐるってなって……、気がついたら神社のうしろにいて……」
渚はうまく説明できなかったが、できるだけ本当のことを話したつもりである。
しかし、恵子に渚の云うことを理解できるはずもない。恵子はひとり合点し、おかしな結論をみちびきだしていた。
「そっかー、お母さんが心配で、避難の列をぬけだしてきちゃったんだ? 今ごろ、大塚先生とか心配してるよ? あとでいっしょに大塚先生にはあやまってあげるけど、ちゃんと集団行動のルールは守んなきゃダメでしょ?」
大人の勝手な決めつけで自分たちの気もちがつたわらないことはままあるが、渚はそれ以上の説明をあきらめた。
自分でもなにが起こったのかわからないのに、恵子にその謎を理路整然と説明できるはずもない。
自分はちっとも悪くないのに、あとで大塚先生に頭を下げねばならない理不尽を思うと、腹立たしさをおぼえないわけではないが、むしろ、そう誤解させておく方がまるくおさまることもわかる。
渚はすねた瞳でだまりこんだ。