第一章 2011年3月11日 〈4〉
4
やがて雨まじりの雪が降ってきた。子どもたちは防災頭巾をかぶっているので、頭のぬれる心配()はないが、ほおをさす冷気()になんとなく気がめいる。
その間も、たびたび防災無線の「大津波警報」は町中に流れていた。
「避難してください……。一時避難指定場所は……、宝船中学校……、宝船高等学校……、月見台公園……」
(あ、うちの近所だ)
と渚は思った。
渚の家から一番近い避難場所が、月見山とよばれる丘の上の月見台公園である。
その近くには、幼いころから遊び場にしている潮見神社もある。きっと、彼の母親はそちらへ避難しているだろう。
高台へ向かう車の列も増えはじめ、徐々(じょじょ)に渋滞していく。
(……早く!)
坂道をのぼる渚の耳に小さな声が聞こえた気がした。
「瀬戸川、なんか云った?」
となりを歩く瀬戸川有希へたずねた。
さっきの授業中、渚のおかげで朗読をまぬがれた女子である。大橋美代子とは正反対の性格なので(ひらたく云うと、ガサツで男っぽいため)渚も声をかけやすい。
「ううん。なんも。どしたん?」
「いや、なんか聞こえた気がして」
「あ……ひょっとして、渚ちゃん、津波こわいんでしょ?」
瀬戸川が楽しそうに目をほそめた。
渚の名前を「ちゃん」づけでよぶのは、女の子っぽい名前を内心気にしている渚をからかっている証拠だ。
「なに云ってんだよ、バカ! こわくねえよ」
「あ、ムキになってる。やっぱこわいんだ」
「だから、こわくねえって……」
(……早く!)
また渚の耳に声が聞こえた気がした。
「ほら、瀬戸川。なんか聞こえたろ?」
「はにゃ? なに云って……」
避難する列のうしろから古田先生が坂道をゆっくり駆け上がってきた。
「ヒラノのおばあちゃんは!?」
異口同音にたずねる子どもたちへ、
「大丈夫、大丈夫。あちこちぶつけたみたいだけど、骨も折れてないみたいだったし、笑いながら救急車に乗っていったよ」
古田先生が息()をはずませながら答()えた。子どもたちの間から歓声()が起こる。
渚たちを追いぬいた先でも、同じ問答をくりかえしているらしい。小さな歓声が波のように列の前方へとひろがっていった。
「ヒラノのおばあちゃん、無事だったって。よかったねー」
瀬戸川が渚へ水をむける。
「ああ、うん」
駄菓子屋ヒラノのおばあちゃんが無事だったと云う吉報に、渚は自分がなにを気にしていたのか忘れてしまった。
「でも、あのお店、ぺしゃんこだったよね? 建てなおせんのかな? 復活の呪文とかあるといいのにね、ピロリロリン! って」
「……瀬戸川、おまえ、バカじゃねえの?」
テレビゲームの効果音をまねた瀬戸川に渚が冷たく云った。さっき「渚ちゃん」とからかわれたことを根にもっていたのだ。
楽しい会話を期待していた瀬戸川の表情が強ばった。
渚がへそを曲げている理由はわかる。原因をつくったのは自分だが、そんなささいなことをひきずる渚の子どもっぽさに腹がたった。
「冗談にきまってるっしょ? なあに? あんた冗談もわかんないの? ……渚ちゃんは、ほんっと、お子さまでちゅねー」
瀬戸川の口調も友好モードから戦闘モードへ切りかわる。これぞ世に云う「売り言葉に買い言葉」だ。
いつの間にか、はげしさを増した横なぐりの冷たい雪も、気分をささくれだたせていた。
「バカ」
渚の一言にグッとつまりかけた瀬戸川だったが、平気なふりをしてたたみかけた。
「バカって言葉しか知らないんでちゅかー? そっちの方がバカでちゅねー」
「バカ」
「やめろよ、ふたりとも」
ケンアクな雰囲気が急加速する中、渚の前を歩く樋口が顔だけ横へむけて云った。くだらないケンカをはたで聞かされるのもイライラする。
渚と瀬戸川の口ゲンカに気づいた大塚先生もふりかえった。
「コラ! 渚! 有希! 私語はするなって……」
大塚先生の目が見開かれ、大きく息を呑んだ。
大塚先生は渚と瀬戸川ではなく、そのはるかうしろの光景にくぎづけとなっていた。
「みんな走って! 早く! 津波が、津波がきてる!」
大塚先生の悲鳴にも似たさけびに、ギョッとした子どもたちがふりかえると、いつの間にか防波堤をこえた黒い波が、町へひたひたと押しよせていた。
遠目にも家屋の1階部分を呑みこむほどの津波が、意思をもった生物のようにいきおいを増しながら坂道をも這いあがる。
異変に気づいたほかの先生たちも、あわてて子どもたちへ、
「走れ! 走れ(はし)!」
と檄をとばす。
避難場所の宝船町公民館は目と鼻の先で、列の先頭はすでに公民館へ着いていた。最後尾の5年生たちが、4年生を追いこすいきおいで駆けあがる。
渚たちもそのいきおいに押されて無我夢中で走っていた。うっすらとつもりだした雪に足をとられそうになる。
(……そっちはダメ! こっち!)
三()たび渚の耳元で声が聞こえたと思うと、右腕を強い力でひっぱられた。渚は公民館へとむかう子どもたちの列()からはじきとばされて風のように消えた。
渚の姿が消えたことに気づいた者はだれもいなかった。