第一章 2011年3月11日 〈2〉
渚もギイギイときしむ机の足をにぎりしめながら、じっと床の木目を見つめていた。
その木目が犬の顔のように見えることに気がついて、目がはなせなくなった。
(どうしてこんな時に、床の木目が気になるんだろう?)
木目にうかぶ犬の顔だけがホンモノで、狂ったようにゆれている世界はニセモノのような気がしてきた。
本当はすごくこわいはずなのに、一方で妙に冷静な自分がいる。なんだかおかしな気分だった。
パン! パシン! と音をたてて天井から蛍光灯が数本落ちた。渚の机からも細かいガラスの破片がパラパラと降りそそぐ。
大塚先生の押さえているテレビのうしろへ、教室の壁にかかっていた時計が重い音をたてて落ちた。あまりのおそろしさにたまらず数名の女子たちが泣きだした。
よその教室からも、
「あぶない! まだ立つな!」
とパニックにおちいって教室から逃げだそうとした子どもをけん制する先生の声が、子どもたちの悲鳴やガタガタとゆれる音、ものの倒れる音、こわれる音にまじって聞こえてくる。
「じっとしてるの! 大丈夫だから、じっとしてるの!」
大塚先生も子どもたちがパニックを起こさぬよう必死でよびかける。
(大丈夫、10数分もゆれつづける地震なんてない。長く感じているだけで、本当はたいした時間じゃない)
大塚先生は心の中でそう自分に云い聞かせていた。そんな想いがつうじたのか、ようやくあらあらしいゆれはおさまった。
「みんな大丈夫? ケガはない? これから校庭に避難するから、防災頭巾をかぶって廊下へ整列……」
地震でななめにかしいだスピーカーから教頭先生の声がもれた。
「ただいま地震が発生()しました。児童のみなさんは、先生の指示にしたがって、すみやかに校庭へ避難してください。避難のさいの〈おかし〉すなわち、押さない・駆けない・しゃべらな……ブツッ!」
スピーカーの音声がとぎれると、かろうじてついていた蛍光灯のあかりも消えた。どうやら停電したらしい。
見ると、天井のパネルにはところどころヒビが入っていて、はがれかけた部分すらある。
床一面にノートや教科書、割れた蛍光灯や道具箱に入っていたハサミやノリなどが散乱していた。
子どもたちはすさまじいありさまにぼう然とした。そんな中、クラス1ひょうきんな田辺篤史が云った。
「……あんなスゴイ地震だったのに、先生のオッパイ、ちっともゆれんかったなー」
「やかましい」
云いかえす大塚先生の絶妙の間に笑いが起こった。まだ泣いている女子もいるが、少しだけ教室の雰囲気がなごんだ。
(やっぱ田辺っち、スゲエな)
渚はこの状況下で冗談を思いつく田辺に舌をまいた。そんな田辺の一言が口火となって、男子の間で虚勢のはりあいがはじまった。
「……さっきの地震、チョースゲエ!」
「アトラクションみてえ。おもしろかったー」
地震なんてこわくないぜアピール、すなわち強がりである。本当はみんなこわかったのだが、そんなそぶりを見せるのは男子たる者の沽券にかかわる。
大塚先生が手をたたき、うき足だつ子どもたちを注目させると、みんなへ号令した。
「しずかに! はい、それじゃ教室はそのままでいいから、足元に気をつけて廊下へ整列!」
子どもたちが防災頭巾をかぶりながら移動をはじめた。
「渚くん」
うしろから女子に声をかけられた。大橋美代子だ。お人形さんのようにしとやかな少女で、渚はほとんど彼女と話をしたことがない。少し緊張した。
「ちょっと動かないで」
「……?」
意味がわからないまま云われたとおりにしていると、大橋は渚の背中、腰のあたりにひっかかっていた蛍光灯の破片をつまみ上げた。
「そのままだと、あぶないから」
大橋は蛍光灯の破片を小さく指ではじいて、だれもいない教室のうしろへ捨てた。
「あ、ありがとう、大橋」
渚はどきまぎしながらお礼を云った。
「こわかったね、地震。……津波とかくるのかな?」
不安げな表情でたずねる大橋に渚はうなづいた。
「そうだね。くるかも」
廊下へでたふたりに、それ以上の会話をつづけることはできなかった。男女それぞれ別の列へつかねばならなかったからである。
先生たちのはりつめた雰囲気が、子どもたちに私語をかわす暇をあたえなかった。みんな無言でしずしずと校庭へ避難した。
だれもいなくなった4年3組の教室にころがった時計は、2時49分をさしたまま止まっていた。