第三章 ガレキの町 〈2〉
「あら、ぼくどうしたの?」
資料室の奥からまだ若い女の人があらわれた。胸の名札に『風見』と書かれていた。図書館の人らしい。
(あ、おはようございます)
渚はそう云ったつもりだったが、声はでていなかった。カナエとはふつうにコミュニケーションがとれているので意識していなかったが、渚は声がでないのだ。
首をかしげた風見さんへ名前を書いたメモ用紙を見せると、口の前でパッパッと手を開き、両腕を交差させてバツ印をつくった。
「ぼく、耳が聞こえないの?」
風見さんが大きく口を開けてゆっくり云った。渚はかぶりをふると、メモ用紙に書いた。
『きのうから声がでないです』
風見さんの表情がかたくなった。震災のショックで渚の声がでなくなったことに気づいたからだ。
「ご両親は?」
風見さんの問いに渚が書く。話せればすぐにすむことを、いちいち時間をかけて書かねばならないのがもどかしい。
『父はとなり町です。母とはぐれました』
「……大変。お父さんのお名前は? 会社の名前とかわかる?」
渚はメモ用紙の最後の余白に、
『佐藤清志 たつなみ水さん』
と書いた。
「辰波水産の佐藤清志さんか。あ、ちょっと待ってて」
メモを見た風見さんが資料室の奥へ消えた。
「渚。今のうちにお父さんへのメッセージを書いて。風見さんにお母さんをさがしに行くって知られたら、ぜったいとめられちゃうから」
ずっと渚のとなりに立っていたカナエが耳打ちした。渚はうなづくともう1枚メモ用紙をとって書いた。
『宝船小学校4年3組 佐藤渚
お父さんへ。ぼくはぶじです。お母さんをさがしてきます』
「それ貸して」
カナエがセロテープを小さく切り、渚からメモ用紙をうけとると、ふわりとうかんで掲示板の上の壁の小さなすきまに貼りつけた。大人が背のびしても手のとどかないような場所だ。
「よっと!」
カナエが空中で体をひねって下りたひょうしに、緋ばかまのすそがめくれて一瞬だけ白い太ももがあらわになった。渚がドキッとして目をそむけると、カナエがたずねた。
「どったの?」
(え!? いや。なにでもない)
心なし顔が赤らむのを感じながら渚が背をむけると、事務所の奥から風見さんがもどってきた。
風見さんは手帳サイズの小さなノートを手にしていた。『備品チェック』と云う文字がざっくりとぬりつぶされ、ノートのノド(閉じてある方)の上に穴が空けられ、たこ糸が輪になってとおされていた。
「とりあえずこんなものしかなかったけど、これがあれば筆談できるでしょ?」
風見さんがノートを開くと、最初の数ページが切りとられていた。
「ほら、ここに書いて。『ぼくの名前は佐藤渚です。耳は聞こえますが、今は声をだすことができません』って。住所とか年齢を書いておいてもいいかも」
太字のボールペンを手わたされた渚が、開いたノートの固い表紙の裏へ、云われたことを書いた。
「うん。それでよし」
風見さんはテーブルごしにたこ糸のとおされた小さなノートを渚の首へかけると、
「そのボールペンもあげるから、なくさないよう気をつけてね」
と云った。
(ありがとうございます)
渚は口の動きだけでそう云うと、ボールペンをノートにはさんで頭を下げた。
風見さんが体をかがめて渚と目線をあわせると、やさしい声で云った。
「あのね、渚くん。まだここは電話がつうじないから、となり町のお父さんと連絡をとることができないの。でも、電話がつうじるようになったら、となり町の避難所に連絡して、お父さんをさがしてあげる」
渚がこくりとうなづいた。風見さんは背をのばすと、腕を組んで考えこむようにひとりごちた。
「……で、どうしようかな? この子ひとりにしておくわけにもいかないもんね。この避難所で渚くんの知りあいをさがして、その人にあずけておいた方がいいか」
(ねえ、カナエどうしよう? このままじゃお母ちゃんさがしに行けなくなっちゃうよ)
風見さんには姿の見えないカナエにそっとたずねると、
「大丈夫。そのうちチャンスは見つかるって」
なんの確証もないカナエが自信ありげに答えた。
「渚くん。とりあえず、この避難者名簿に名前と住所と年齢を書いてもらえる?」
風見さんが『避難者名簿』を開くと渚にうながした。避難所にいる人たちの人数などを把握しておくためのものだ。
渚が名簿に記入して顔を上げると、風見さんが資料室につまれている飲料水のペットボトルと真空パックされた乾パンをテーブルに置いた。
「はい。渚くんの分」
渚は自分の背負った銀色の防災袋を指さしてかぶりをふった。まだ中に食料も飲料水も入っているから遠慮したのだ。その意をくんだ風見さんがほほ笑んだ。
「渚くんはやさしい子ね。いいからとっておきなさい」
渚はうなづきかえすと、銀色の防災袋にペットボトルと乾パンを入れた。自由に会話できないので、ごちゃごちゃしたやりとりがめんどうだったからだ。
「それじゃ図書館をまわって、渚くんの知りあいがいないかどうかたずねてみようか。……あ、と、だれかに受付かわってもらわないとダメだ。ゴメン渚くん。ちょっと待ってて」
風見さんが資料室の奥へ消えるとカナエが云った。
「渚、 ここでのミッションは完了。今のうちににげよ」
(にげるって……)
渚は親切にしてくれた風見さんに申しわけない気もちをおぼえながら、カナエの言葉にしたがって図書館を出た。早歩きで月見山公園をあとにする。
なだらかな坂道を下りながら図書館が見えなくなったところで歩調をゆるめた。
(なんかあの女の人に悪いことしたなあ)
「じゃあどうする? 図書館へもどる?」
(……いや。決めたんだ。母ちゃんをさがすって)
渚の言葉にカナエが軽く肩をすくめた。
「風見さん、て云うかあの女の人、渚がトイレにでも行ってると思ってるから、もうしばらくはいなくなったことに気づかない」
(そっか)
「あとで掲示板の渚のメッセージに気づいてもらえるようにするから心配しないで」
(そんなことできるの?)
「とんでもない。私ゃ神さまだよ。……ま、たぶん、それくらいならなんとかなるって」
カナエたち〈産土神〉は人間を意のままにあやつることなどできない。カナエたちにできるのはつねに人々によりそい、より正しい道をささやくことだけだ。
神さまのささやきは、純粋な気もちでしずかに深く自分の心と向かいあえば、いろんなかたちで気づくことができると云う。
風見さんが渚のことを気にかけていれば、風見さんによりそうカナエの神さまの力でメッセージに気づいてもらえるそうだ。
(母ちゃんが見つかったら、あの女の人にごめんなさいとありがとうを云いに行こう。そしたらきっと、あの女の人も許してくれる)
いつの間にか渚たちは、潮見神社の石段の下まできていた。神社を右手に見送りながら、ようやく母をさがす旅がスタートするのだと渚は思った。




