第二章 泣き虫の神さま 〈7〉
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話は昨日の夜へさかのぼる。渚とカナエが外のようすを確認して拝殿へもどったあとのことだ。
ざぶとんへ腰を下ろすと、カナエが渚に云った。
「もう朝までやれることはないから、なにか食べて寝るしかないね」
(おなか空いてないよ)
「乾パン1枚に氷砂糖1個でも食べておいた方がよいよ。それに水分はとっておかないと、脱水症状になる危険性もある」
渚は答えなかった。
「明日、お母さんをさがしに行くんでしょ? 体力つけておかないと、弁天町まで歩いていけないよ」
(そうか。弁天町まで歩いていかなきゃいけないんだ)
渚にとって弁天町は車やバスで行くところである。徒歩はおろか自転車で行ったこともない。そう思ったら、なにか少しは口にしておかなければいけない気になった。
文机のわきへ置いた銀色の防災袋をとりに行こうとしたら、カナエから銅鏡をざぶとんごと文机の上へ置くよう指示された。
「〈顕現〉のアイテムとして現在進行形で使用中だから、くれぐれも粗略にあつかわないでね」
云っていることはよくわからなかったが、もとより粗略にあつかうつもりはない。
カナエの神さまの力でともっているハダカ電球の黄色いあかりが落とす自分の陰で、見えにくい足元に気をつけながら、渚は銅鏡を文机へ移した。
防災袋をかかえて自分がすわっていたざぶとんに腰を下ろす。防災袋の口を開けて中身をとりだそうとした渚の手がとまった。
(……ねえ、カナエ。この神社ってトイレどこにあったっけ?)
「ないよ」
(ウッソ……)
あっけらかんとしたカナエの答えに渚が絶句した。
「神社の境内は聖域だから、不浄なものは基本NG。境内でおしっこされると結界が弱まるから、境内の外のしげみでしてもらえる?」
(いや、あの、……おっきい方なんだけど)
渚はほおを赤らめた。一応、神さまと認識はしていても、同い年くらいでカワイイ女の子の姿をしたカナエに「うんこしたい」と云うのは、さすがにはばかられる。
「お守りとか入っている段ボール箱の中に白いポリエチレン袋があるでしょ? しょうがないから、おっきい方はアレにして」
カナエがまったく困ったそぶりも見せずに文机の方を指さした。おかげで渚の気恥ずかしさはやわらいだが、
(けっきょく外でするしかないのか)
と思う。
そうしている間にも、渚の生理的欲求はたえがたくおさえがたいものになっていった。とにかく外へ行かなければならない。
渚が文机のわきにある段ボール箱から白いポリエチレン袋をつかんだ。袋はあまり大きくないので、いささか心許ない。
「渚。外は暗いよ」
拝殿のとびらへ向かう渚の背中へ声がかかる。ふたたび防災袋のところへもどると、袋の中からラジオつきの懐中電灯を手にとった。
「ハンカチとチリ紙もった?」
早足で急ぐ渚に、カナエがお母さんみたいな念押しをした。
渚がズボンの尻ポケットをたたいて確認すると、ポケットティッシュのビニール袋がポケットの中でカサッと音をたてた。ハンカチがズボンの左ポケットに入っているのは、学校で使ったから確認するまでもない。
渚は外へ出てクツをはいた。もちろん、あたりはまっ暗である。懐中電灯のあかりをつけて拝殿を右手に裏へとまわる。渚が今日、カナエに運ばれてきた方のしげみである。
懐中電灯に照らしだされたクマ笹のしげみは闇が深くて気味が悪かった。足元を照らすと周囲はまったく見えない。渚はしげみへ足をふみ入れるのをためらった。
「あ、それとあまり遠くへ行かないでね」
(うわあっ!)
突然、耳元で聞こえた声に、渚がとび跳ねた。想像以上のうろたえぶりに、いつの間にか渚のうしろへ音もなくうかんでいたカナエが笑いをかみ殺す。
(なんだよ! ついてくんなよ!)
「私も渚のトイレをのぞく趣味とかないってば。ちょっと云い忘れたことがあって」
ただ単に渚をからかいにきたわけではないらしい。
「〈顕現〉には、アイテムと心をかよわせることのできる人との距離が大事でね」
(……?)
「あんましはなれすぎてしまうと、効力が切れちゃうの」
(……カナエが消えちゃうってこと?)
「うん。って云っても、渚に私の姿が見えなくなったり、声がとどかなくなるだけで、渚のそばからいなくなるわけじゃないんだけどさ」
それでも渚にとってはさびしい。渚はすなおにうなづいた。
(わかった。どのへんまでなら大丈夫なの?)
「あと10mくらいかな?」
(じゃあ大丈夫だよ。そんなに遠くまで行かないって)
正確に云うと、心細くてそんなに遠くまで行く勇気はない。
「あ、その右側の大きな樹の裏ですればよいじゃん。木の根と根の間に大きなくぼみがあるから用が足しやすいと思う。土がぬかるんでるから足元には注意してね。うんちの上に転んだりしても、ズボンの着がえとかないよ」
(カナエの云うとおりだ)
と渚は思った。
着のみ着のまま避難した渚には下着のかえすらない。泥やうんこで汚したりぬらしたりしたら、乾かすだけでも大変だ。
(ありがと。あとは大丈夫だからもどってて)
本当は心細かったのだが「そこで待ってて」とお願いするわけにもいかない。
「わかった」
カナエはそう答えると、ふわりと拝殿へ舞いもどった。
渚は意を決して、暗いクマ笹のしげみへわけ入り、右手にある大きな樹の裏側へとまわりこんだ。足元で木の根がゴツゴツともり上がっていて歩きにくい。
太く張りでた木の根に片足をかけるようにして、中腰になれそうな所を見つけた。木の根と地面のくぼみにポリエチレン袋を広げれば、用を足せそうだ。
ポリエチレン袋を広げて置き、ポケットティッシュをズボンの尻ポケットから、ダウンジャケットのポケットへ忘れないように移す。
懐中電灯をあごの下にはさんで、ズボンとパンツを下ろした。お尻をすさっと冷気がなぶる。〈闇蟲〉にお尻をなめられた気がしてゾッとした。
(こんなトコで、うんこなんかできないよ)
渚は情けなくなった。小さいころのことはおぼえていないが、小学生にもなって野グソなんてしたことはない。立ちションとは、なんと云うか「覚悟」がちがう。
あきらめてもどろうかと思いかけたが、便意の方が勝った。
渚はしげみの奥へ向かって、ひとまず小用だけ足すと、ダウンジャケットをたくし上げ、懐中電灯でうしろと足元を確認しながら、木の根と地面のくぼみへ腰をうかせてしゃがみこんだ。
あらためて懐中電灯で股の間からポリエチレン袋の位置を確認する。ただ用を足すだけなのに、真剣な自分に気づいて渚は苦笑した。
しかし、このミッションに失敗は許されないのだ。
なれないことに対する無意識の抵抗感と緊張感で、なかなか用を足せなかったが、無事ミッションをクリアした時の開放感はちょっと心地よかった。
お尻をふいたティッシュもポリエチレン袋へ捨て、懐中電灯をあごの下へはさむと、ズボンをはきなおした。
必死で気がつかなかったが、長いことしゃがんでいたらしい。立ち上がると足がしびれて軽くよろめいた。
(うっわっ!)
あごにはさんでいた懐中電灯を落としかけ、あやうくキャッチした。最後の最後でコケたりしようものなら目も当てられない。
渚はふりかえると、懐中電灯で用をすませた白いポリエチレン袋を確認した。片手で袋をつまみ上げ、闇の中で袋の口をしばる。
神社の境内へ不浄なものを入れると結界が弱まると云うので、渚は袋をその場へ置いておくことにした。明日、神社を去る時にもって出るしかない。
……渚ひとりのトイレであれば、ちょっと深めの穴を掘って用を足し、埋めてしまえばよかったのではないか? と気づいたのは、手水舎の石桶にたまっていた冷たい水で手を洗いおえたあとの話である。