第二章 泣き虫の神さま 〈6〉
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……ぽーぽー、っぽっぽー。ぽーぽー、っぽっぽー。
やけに大きくひびくキジバトの鳴き声で目をさました渚は、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
見知らぬ天井は暗く、はばの広い板目がうっすらと目に入った。木とホコリのにおいが鼻腔をくすぐる。
(……そっか。ここはぼくの部屋じゃないんだっけ)
まだぼんやりする頭で渚は思った。明け方まで何回も大きな余震があり、そのたびに目をさましていたので、あまり寝た気がしなかった。
渚が寝ているのは神社の拝殿である。ざぶとんが10枚あったので、たたみの上にざぶとんをならべ、服の上から防災袋に入っていた銀色のサバイバルブランケットにくるまった。
サバイバルブランケットは、ブランケット(毛布)の名に似つかわしくないほどペラペラのアルミ蒸着ポリエステルシートである。
(こんなのホントに使えんのかな?)
懐疑的な渚だったが、くるまってみると、まったく寒さを感じなかった。
はじめのうちは、体を動かすたびにクシャカシャと鳴るアルミ特有の音が耳ざわりだったが、それもやがて気にならなくなった。
息を吸うたびに鼻の奥がスースーした。右手を額へやると、顔が冷たく強ばっているのがわかる。
雨風をしのげる拝殿やサバイバルブランケットのおかげで気づかなかったが、戸外はまだまだ寒いのだろう。
とりあえず起きようとした渚だったが、体が重くて動かなかった。いぶかしみつつ、あたりへ目をやると、渚の左肩に小さな頭があった。
ダウンジャケットを着ていたせいで気づかなかったが、カワイイ女の子が渚の左腕にしがみついて眠っていた。
(……カ、カナエっ!?)
声が出ていれば、思わず大声を上げていたところだ。
渚は恥ずかしさにおどろきあわてた。
昨夜、ふたりは別々のサバイバルブランケットにくるまって寝たはずである。
余震で目がさめた時も、暗がりの中で銀色のエビフライみたいなカナエが半身を起こしている姿をおぼろに見た記憶がある。カナエの神通力で拝殿のゆれをおさえていたのだろう。
ところが今、カナエは渚の左腕に抱きついたまま、1枚のサバイバルブランケットにくるまっていた。
もちろん、渚にカナエを自分のサバイバルブランケットへ引き入れたおぼえもなければ、カナエのサバイバルブランケットへもぐりこんだおぼえもない。カナエが勝手にもぐりこんできたに決まっている。
なにはともあれ、教育上あまりよろしくない状況であった。
(こんなところ、田辺っちや瀬戸川に見られたら、なんて冷やかされるか……)
そんな思いが頭の中をよぎった渚は、ふたつの意味でそれがないことに気づいて、胸にぽそっと穴の空いたようなさびしさをおぼえた。
この状況をだれかに見とがめられる心配もなければ、もう彼をからかったり冷やかしたりする友だちもいない。
まだクラスメイトたちの死を実感することはできなかったが、まわりにだれもいないことだけはたしかだった。
渚は自分のかたわらで眠る小さな神さまの愛くるしい寝顔をながめながら、カナエがそばにいてくれることで、ずいぶん救われているのだと思った。
彼女がついていてくれなければ、渚は孤独と不安と恐怖で眠れぬ夜をすごし、泣きあかしていただろう。
(ありがとう、カナエ)
せめてもの感謝に、カナエが目をさますまでおとなしくしていようと思った渚だったが、事態は急変した。
突然、尿意をもよおしたのである。ひらたく云えば、おしっこがしたい。
渚は左腕にからみついたカナエをしずかにふりほどこうとしたが、カナエは眠ったまま、さらに強く渚へしがみつく。
〈顕現〉した神さまの疲労度や平均睡眠時間など皆目見当もつかないが、おしっこくらいでカナエを起こしてしまうのは悪いし、恥ずかしい気がした。
しかし、事態は急を要する。
そこで渚はひらめいた。ダウンジャケットのファスナーを下ろすと、左腕をダウンジャケットのそでから引きぬいた。ダウンジャケットごと左腕を引きぬくよりは簡単だった。
あとはカナエの腕の中からダウンジャケットのそでを引っぱりだすだけだったが、渚の動きでクシャカシャキシャケシャと大きな音をたてたサバイバルブランケットのせいで、カナエがのっそりと目をさました。
(こんなことならふつうに起こせばよかった)
と渚は後悔した。
「ん~。なにしてんの、渚?」
ダウンジャケットから遠山の金さんさながら左腕をぬいている渚に、カナエがふしぎそうな顔をした。
(あ、いや。ちょっと、おしっこ)
「あんまし遠く行かないでね~」
(わかってる)
あきらかに寝ぼけまなこのカナエは、渚の返事を聞くとサバイバルブランケットの中へ頭からカシャキシャともぐりこんだ。
鮭のホイル包み焼きみたいになったカナエをのこして、渚は拝殿の外へ出た。
夜は明けていたが、太陽はさほど高くない。冷たい外気に渚は小さく身ぶるいした。ますますおしっこが近くなる。
しかし、遠目からかいま見えた町のようすにおどろいた渚は、鳥居のそばへ駆けよった。
おだやかな朝日をあびて白くかがやいていたのは、ガレキでうめつくされた広大なさら地だった。道の痕跡がなければ、そこに町があったことすら想像できなかっただろう。
鉄筋コンクリートの大きな建物がいく棟かかろうじて大地にへばりついているものの、それ以外の家屋は影もかたちもなかった。ところどころの地面に屋根だけが落ちている。
渚がおどろいたのはそれだけではなかった。
海からだいぶはなれた陸地に漁船が何艘も転がっていた。
町の中に漁船が落ちているなんてありえない光景だ。いったいどれほどの力があれば町のまん中まで漁船を押し流すことができるのだろう?
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと云う。
学校の授業で津波のおそろしさはそれなりに学んでいたはずの渚だが、この光景は彼の学んだ〈歴史〉をはるかにこえていた。
(……こんなの勉強したってわかるわけない)
渚のおどろきや恐怖は、経験していない人に話したところで、ぜったいにつたわらないだろうと、渚は思う。
おそらく、自分が逆の立場だったら、どう考えたってピンとこないにちがいない。
渚がどれくらいその光景をながめていたのかさだかではない。顔が冷たくなって、ふたたび小さく身ぶるいすると、渚は自分が外へ出てきた理由を思いだした。
あわてて神社境内の外へ広がるクマ笹のしげみにわけ入ると用を足した。渚の足元に小さく白い湯気がたつ。
境内とクマ笹のしげみとの境界にある1本の樹の根元に、口のしばられた白いポリエチレン袋が置かれていた。昨夜、渚が置いたものである。
(これ、捨てるとこあんのかな?)
渚は少しげんなりした。昨夜はこれで一騒動あったのだ。