第二章 泣き虫の神さま 〈5〉
きっと、いつもの同じ時間であれば、道路を行きかう車のライトや、夕餉をかこむ家々のあたたかいあかりが町のおちこちにともっているはずである。
しかし、それがなかった。闇の中でしずかにうごめく黒い波の気配だけがつたわる。
眼下の闇は、そのままとぎれることなく海へとつながっていた。海と空の境界がおぼろにうかび、津波をさけて沖へとにげた漁船のあかりが、遠くでポツリポツリとたよりなく見えかくれする。
星のまたたきよりもあえかなその光が、あまりにも無力でちっぽけな自分の存在そのもののように思えて、渚は云いようもない孤独を感じた。
渚の右肩にカナエの左手がふれた。
「大丈夫。カナエがついてるよ」
カナエの右手が渚の左手をとると、指をからめてにぎりしめた。カナエの顔がほおもふれんばかりに近づいてきたので、渚は恥ずかしさにドギマギした。
(な、なにを……)
「見て」
カナエの言葉に、渚の視界が一変した。
さっきまでなにもなかった冥い町に、黒い影の群れが出現していた。
一筆書きで描かれたラクガキのような丸いりんかくのヒトやケモノと思しき巨大な影が、青い光をおぼろに放ちながら、音もなくのっそりとうごめいていた。
小さく穿たれたふたつの黄色い光が、顔らしきところでぐるぐるまわっているのがうす気味悪い。
(あれがカナエの云ってた悪い精霊?)
「そう。〈闇蟲〉。夜の間だけ世界をさまよい、人間の負の感情を喰らって育つ低級精霊。ふだんはネコくらいの大きさで、さほど害もないんだけど、あそこまで大きくなると、ふれただけで人の精気を根こそぎ吸いとってしまうから危険なの」
〈闇蟲〉とよばれた巨大な影の群れは、渚の町のおちこちをさまよっていた。
すれちがいざまに体の一部がふれた〈闇蟲〉同士が、体を大きな口へとかえて共喰いをはじめた。
もやもやとした影がひとつになると、六本足になった影が、なにごともなかったかのように歩きだす。
まわりをうごめく影たちも頓着するようすはない。まるでたがいの姿が見えていないかのようだ。
時おり〈闇蟲〉が黒い波の上に顔を近づけると、そこからケシ粒のように小さな光の玉が舞う。気がつくと、小さな光の玉はい町のいたるところにただよっていた。
〈闇蟲〉の動きにあおられてホコリのように舞いながら、ゆっくり高度を上げていく。カナエがそのようすをつらそうにながめていた。
(カナエ。あの小さな光はなに?)
「……あれはこの世界で生をおえた人々のたましい」
渚は耳をうたがった。
(え!? それじゃ、今、あそこでだれかが……死んじゃったってこと?)
カナエがかたい表情でだまってうなづく。
(そんな……)
渚は絶句した。渚が闇に瞳をこらすと、ほかにも多くの光の玉が見えた。
〈闇蟲〉のいないところからも、ぽつりと小さな光の玉のあらわれることがある。
その意味するところを現実としてうけ入れることができなかった。心臓のまわりがわさわさして、体がほろほろとくずれてしまいそうな気がした。
「わかるでしょ、渚? 仮に津波が引いていたとしても、数日は〈闇蟲〉が這いまわる。〈闇蟲〉の見えない渚が、弁天町へ生きてたどり着くのはムリ」
念押しされるまでもなかった。渚は自分でも説明のつかない感情に支配され、立っているのがやっとだった。それはたましいを奥底からゆさぶる恐怖だった。
「ああ! 見て!」
カナエが渚の体を強くささえながらさけんだ。カナエの声へまじる明るいひびきにおどろいて顔を上げると、天空に大きな光の輪があった。
南北へ長くつらなる沿岸部から、数えきれないほどの光の玉が、その輪へ向かってゆっくりとらせんを描いて舞い上がっていく。
光の玉は光の輪へ近づくにつれて明るさを増し、夜空をいろどる星々よりも煌々(こうこう)とかがやいていた。
光の玉が力強い光となって、輪の中へ吸いこまれていく。それは見ている者を魅了せずにはいられないほど、まばゆく美しい光景だった。
「傷ついたたましいが癒され、よろこびと共に天へ昇っていく。あれが〈おおいなるみなもと〉……! すべてのたましいが生まれ、すべてのたましいが還っていくところなんだ……」
カナエは泣きながら笑っていた。渚もいつの間にか泣いていた。しかし、それは哀しみの涙ではなく、よろこびの涙だった。
ふたりとも意外なくらい気もちは落ちついているのに、熱い涙がとめどなくほおをつたう。こんな気もちになるのは、生まれてはじめてだった。
(あそこには苦しみも哀しみもないんだね)
「もう愛しかないって感じ」
カナエがあえて軽い口調でおどけた。
(……でも、それじゃ〈おおいなるみなもと〉ってなんなんだろう? 生きてるってなんなんだろう?)
渚のつぶやきにカナエがかぶりをふった。
「そんなの、生まれて三日しかたってない私にわかるわけないじゃん。……でも、ちょっとわかった気がする。生きることに意味がある。生きぬくことに意味がある。その意味がなんなのかまではわかんないけど、なにかあるんだ。私は最後まで宝船町の人たちに、あきらめないで生きろってさけびつづける。だれにとどかなくても、ぜったいぜったいあきらめない」
(……大丈夫、カナエ。ぼくにはとどいてる)
「そうだね。ありがと」
ふたりは涙でぐしゃぐしゃになった顔をつきあわせて小さく笑った。
「とりあえず、部屋へもどろ。ここ寒いから」
カナエが渚の左手から指をほどくと、渚の頭上にかがやいていた〈おおいなるみなもと〉の光の輪が消えた。町を這いまわる〈闇蟲〉の姿も見えなくなった。町は泥の底みたいに暗くてしずかだった。
「渚っ!」
カナエがさけぶと同時に余震がおそってきた。渚の足の裏で地面がぐらぐらと横ゆれしていた。
神社のぐるりをとりかこむ森がガサガサと枝をゆらしていたが、境内にあるものは微動だにしなかった。カナエの神さまの力が効いているのだろう。
ドオオォン……! と遠くで爆発音がした。渚が鳥居から顔をだすと、はるか北の大地がオレンジ色にそまっていた。沿岸で大規模な火事が起こったらしい。
地震に津波に火事。この先一体なにが待ちうけているのだろうと、渚は不安になった。
ふわりととんできたカナエが、宙にういたまま渚の肩へ手を置いてやさしく云った。
「もどろ、渚」
渚はだまってうなづくと、ぷかぷかと宙にたゆたうカナエのあとへついていった。
地上の惨禍を照らしだす満月の光は、非情なまでに美しかった。