第二章 泣き虫の神さま 〈4〉
(カナエ、本当にいろいろありがとう。……ぼくはこれから母ちゃんをさがしに行ってくる)
渚の脳裏には、津波をのがれた母・恵子がだれもいない場所でひとり寒さに凍えている姿がうかんでいた。
もちろん渚の思いこみだが、そんな光景が頭の中でぐるぐるとまわる。母がひとりで心細い想いをしているかと考えるとかわいそうで、いても立ってもいられなかった。
「それはダメ!」
渚の胸元で勢いよく上がったカナエの頭が、渚の下あごをしたたかに打った。
予想外のアッパーカットをくらった渚が、またぞろあおむけに倒れた。口が聞けていたら、はずみで舌をかんでいたかもしれない。
「あたた。ごめん、渚……、あ、私はあやまらなくてよいんだっけ?」
カナエが渚の下あごで打った自分の頭をさすりながら云う。
(いや、そこは……)
あやまってくれてもいいと思う。が、それはたいした問題ではない。
(ダメって……?)
渚もあごをさすりながら、ゆっくりと体を起こした。
「今日はもう外へ出るのは危険。まだ余震もつづくし、津波も完全に引いてないから、弁天町まで行くなんて、とてもじゃないけどムリ」
(でも、母ちゃんがかわいそうじゃないか!)
「落ちついて、渚。弁天町にも〈産土神〉はいる。私とのつながりが切れる時、渚のお母さんを弁天町の〈産土神〉がサポートするのを感じたから。渚のお母さんは決してひとりじゃない。渚のとなりに私がいるみたいに、渚のお母さんのとなりには、弁天町の神さまがいるから安心して」
カナエは断言した。弁天町の〈産土神〉がサポートに入るのを感じたのは本当である。
とは云え、多くのカナエがそうであるように、なすすべもなく、よりそうことしかできないのかもしれない。
渚の母の無事を楽観視できないのは、カナエがだれよりも一番よくわかっていた。カナエは今も命のともしびが消えようとしている人々のそばによりそっているからである。
渚の母の現状を確認するすべがない以上、自分たちでいたずらに不安をかきたててもしかたなかった。今、カナエや渚にできるのは無事を祈ることだけである。
(弁天町の神さま。どうぞ、渚のお母さんをお守りください)
神さまが神さまに祈ると云うのもおかしな話ではあるが、カナエは真摯に祈った。弁天町の〈産土神〉がカナエよりも大きな力をもっていれば、カナエの祈りは聞こえるはずだ。
「それに危険なのは、津波や余震だけじゃない。たくさんの人たちのおそれや苦しみや哀しみに惹かれて、低級な思念体、わかりやすく云うと、悪い精霊が集まってきてる」
(悪い精霊?)
「そう。ちょっと外へ出てみようか? たぶん渚にも見せてあげられると思う」
(さっき、外は危険って云ってなかった?)
「神社の境内なら強い結界が張ってあるから大丈夫」
カナエが腰を上げると、拝殿のとびらが勝手に開いた。渚は開いたとびらから流れこむ外気の冷たさに身ぶるいした。
カナエの体がふわりとうき上がり、音もなく宙を移動していく。渚もおくれて立ち上がった。
外はすっかり日が暮れていた。まだ日が落ちてさほど時間はたっていないはずだが、深夜を感じさせる暗さだった。神社の境内にあかりがともっていないためである。
拝殿のひさしが濃い陰をつくっていて足元が見えなかった。渚は拝殿正面の階段をすわるように下りた。
冷たい外気にさらされた階段のふみ板と、クツ下のすきまからしみ入る冷気で、つま先がしびれるように痛かった。
この寒さの中で凍えながら救助を待っている人たちがいるのかと思うと、渚は泣きそうになった。
(……母ちゃん)
どうかだれかに助けられて、あたたかいところへいてほしいと思った。ぬれたままでいたら凍え死んでしまうかもしれない。
(大丈夫。母ちゃんには、弁天町の神さまがついてる)
渚はカナエの言葉を思いだし、考えることを強引にやめてクツをさがした。さい銭箱のわきに置かれたクツの蛍光塗料がぼんやりと闇ににじむ。
渚はそれをたよりにクツを引きよせると、階段のはしっこに腰かけたままはいた。
「渚、こっち」
鳥居の前にカナエが立っていた。渚から少し遠くて表情は読めなかったが、声がわずかにかたかった。
渚が神社の屋根の下から出て天をあおぐと、昼間の曇天がウソのような星空に、満月がさえざえとかがやいていた。
境内が暗いせいか、いつにも増して星が近くでまたたいている気がする。
渚は満天の星空に息を呑んだ。こんな時に満月や星空を美しいと感じている自分がおかしいと思った。
「……やっぱり、渚は見ない方がよいかも」
(なにが?)
カナエの元へ歩みよる渚の顔をゆるやかな風がなぶる。潮のかおりとかすかな異臭が鼻についた。
おちこちからもれ出た油のにおいであろう。少しずつ鼻の奥へこびりつきそうな感じがムズがゆかった。
カナエのとなりに立って町を見下ろした渚の眼前に広がっていたのは、深い闇であった。