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カワイイ俺のカワイイ再挑戦

 人の話し声で程よくザワつく店内。平日の午後にしては、客入りは上々だ。

 俺が身に着けているのは、茶色いラインの入ったミントグリーンのメイド服に、フリルたっぷりの真っ白なエプロン。オトコの娘喫茶、『めろでぃ☆』の制服だ。出入り口から繋がるホール内のパントリーで、キッチンスタッフが受け渡し場に乗せた、焼きたてのパンケーキプレートをお盆に乗せる。

 昨今のパンケーキブームを知り『女性客にうけるのでは』と安易な考えで初めたメニューだったが、これが意外にも、男性客にも好評だった。今や上位五位圏内に入る、看板メニューになっている。

 実のところ、男性も甘味が好きなのだろう。"普通"の店では注文するのに、勇気がいるだけで。


(少し、生クリームの甘さ抑えてもいいかもな。あるいは、ソースの酸味を強くするか)


 烏龍茶とオレンジジュースをそれぞれグラスに注ぎ、お盆の上に乗せながら、このパンケーキの改良を思案する。比較対象として頭に浮かんでいるのは、先日"エスコート"をしてもらった、あの店の絶品ワッフルだ。

 もっと客を増やすには、サービスの向上だけでは駄目だろう。フードだって、美味しくなければ。


(……後で店長と要相談だな)


 意識を切り替え"ユウ"の顔をつくり、パントリーから踏み出す。

 狭まった通路を通り、向かうのは隣部屋の半個室席。六つ並ぶそこで、右列奥の一席だけが使用中である。近づき、声をかける前に、カーテンが開かれた。

 ひょこりと現れた顔は、よく知ったる相手だ。


「わーい、ありがとうございますー」

「勝手に開けて……。お客様だったらどうするんだ」

「やだなーユウちゃん先輩。おれが先輩の足音間違えるワケないじゃないですかー」

「……」


 時成は以前より、『"ユウ"マニア』だと宣言している。こいつの言動にいちいちツッコミを入れていたらキリがない。

 ささやかな抗議として双眸を細めて無言を貫いてみるが、時成は気にすることなく「イイにお~い」と俺のお盆からパンケーキプレートを奪っていった。

 気付いていて、あえて反応しないのだ。目を合わせてこないのが、何よりの証拠である。

 そんな自由奔放な時成の前で、ハラハラと視線を彷徨わせているのがお馴染みの俊哉だ。

 先日の手応えは電話で報告済みだが、時成が「おれも『カイさん攻略プロジェクト』の一員ですし、シフト終わった後ひとりでご飯食べるのも寂しいですし、俊さん暇してたら呼んでくださいー」と纏わりついてきたため、こうして妙な相席が出来上がったのである。


「ほら、烏龍茶」

「あ、ありがと」

「せんぱーい、オレンジくださいー」

「ハイハイ、どうぞ」

「もっとちゃんと給仕してくださいよー」


 パンケーキを切り分けながら頬を膨らませる時成を「うっさい」と一瞥して、俊哉へ、


「で? 話しは進んだのか?」

「うん、俺がユウちゃんから聞いた範囲は話したよ」


 小さく肩を竦めてみせるその反応は実に不本意だが、今回は仕方ないだろう。

 間違いなく、先日の対戦は『俺の負け』だった。

 時成は咀嚼しながら、


「でもー、ユウちゃん先輩の"猫かぶり"を一発で見破るなんて、カイさんも中々の目利きですねー」

「猫かぶり言うな。ま、でもこれでカイさんの技量が高いってコトはわかったし。睨んだ通り、いい"教材"になりそうだ」

「わーお、さすが先輩。コワイコワイー」


 口では"コワイ"と表現しつつも、愉しそうに口端を上げていては、説得力など皆無に等しい。

 まあ、俺に負けず劣らず思慮深い時成の事だから、事実この状況を楽しんでいるのだろう。そして現状、特に意見はないようだ。

 時成は俺よりもネットワークが広い。なにか不穏な噂を耳にすれば、"軌道修正"をしてくれる筈だ。


「で、次はいつなんですー?」


 オレンジジュースのグラスを手に、時成が小首を傾げる。


「このシフト後の枠が取れた。三十分だけどな」

「すごい順調じゃないですかー」

「バカ言え、前回から五日も経ってんだぞ。忘れられてたらどうすんだ」

「大丈夫じゃないですかー? 話を聞いてる限りだと、カイさん記憶力良さそうですしー」

「だとは思ってるんだけどな……」


 一応、印象付いてはいたようだし、確かにまだ一週間も経っていない。

 完全に忘れられている可能性は低いが、『お得意様』ではなく『オトモダチ』を狙う身をしては、やはり数で畳み掛けたい。

 とくにまだ初期の内は三日以内にでも、と踏んでいたのだが、なんせやはり人気がある。

 俺にもバイトがあるし、カイさんの休日や予約済みの日程を省くと、今回が一番の直近だったのだ。


(……むっずいなぁ)


 思った通りに進まない。

 何もかもが初めてで、どうにもやり辛い。


「とりあえず、今日は前回の"ご指摘"を踏まえてやってみるつもりだから。報告はまた後でな」

「了解ですー」


 客として滞在している時成と俊哉はいいが、勤務中の俺はいつまでもココで油を売っている訳にはいかない。

 目についた机上のゴミを掴んで、カーテンへと手をかけた。と、


「ユウちゃん」


 不意に響いた弱気な声。俊哉だ。相変わらずデカイ図体して気弱なのは、なんとかならないのか。


「……なんだよ」

「……無理、しないでね」

「……しねーよ」


 下がる眉に「しょうがねぇな」と苦笑を零して、黙って見守る時成に一度だけ視線を送る。

 後は、よろしくな。

 時成が視線で頷いたのを確認して、カーテンをくぐった。振り返る事なく部屋を出て、ホールからも死角になる通路でこっそりと立ち止まる。

 焦りは禁物だ。たとえ、心配症な"親友"を早く安心させたくとも。


(俊哉には、暫くは耐えて貰うしかないな)


 そして俺も。目的の達成までは、あの大型犬らしかぬチワワな目に抗い続けなければ。

 小さく息を吐き出してから、よし、と口角を上げてホールへと踏み込む。

 お客様方には、"俺自身"の戸惑いなど関係ない。お金を払って、この空間を楽しみに来てくださっているのだ。

 一人一人の好意には応えられなくとも、出来るだけ真摯でありたい。

 そう思った刹那、脳裏を過ったのは、遠くを見つめるカイさんの姿。


(……カイさんは)


「お、ユウちゃーん! 会計いいかい?」

「っ、はい! お伺いしまーす」


 手を振って名を呼ぶ常連さんに思考を切り、笑顔を浮かべながら"ワザと"小走りでレジへ向かう。


「いつもありがとうございます」

「いやー、それはコッチのセリフだよ!」

「え?」


 その人はニコニコと晴れやかな笑顔を浮かべ、


「今日はちょっと落ち込むコトがあってな。でもココに来て、ユウちゃんの笑顔見たら元気でたわ!」

「っ」


 いつも通りピッタリの金額をトレーに乗せると、その人は扉へ向かい、


「ごちそうさん! また来るな!」

「はい! またのご帰宅をお待ちしています」


 レジを回って出入り口前で頭を下げる俺に、その人は軽く手を上げ去って行った。


 例えば。

 俺達みたいな世間一般の常識と『異なる存在』は、一部の人間からしたら嫌悪の対象で。それでもこうして"動く"ことで、小さな"何か"を受け取ってくれる人がいる。

 そして俺は。あくまでも"俺は"だが、こうして『返されるモノ』で、拭いきれない"劣等感"を癒やしているのだと思う。


(……カイさんは。あの人は、どうして)


 "カイ"と呼ばれるその奥に潜む"彼女"は、一体、何を思いながら"装って"いるのだろうか。


「ユウ先輩、そろそろ上がりですよ」

「あ、ありがと。奥に俊哉とあいらがいるから、よろしくな」

「はい、お疲れ様でした」


 ペコリと低頭した後輩に見送られ、パントリーからキッチンへ「あがります」と声をかけて控室へと向かった。

 更衣室兼荷物置場にもなっているココは、関係者以外立ち入り禁止だ。中には気にする子もいるからとカーテンで仕切られた更衣スペースも存在するが、俺は使った試しがない。

 一人だけの空間に薄く息を吐き出し、気を緩めながら首を回す。背中でくくったリボンを解いてエプロンを外し、ワンピースタイプのメイド服を脱ぎ捨てた。

 壁にかかる丸時計を見遣る。


(……少し急がないとだな)


 指し示す時刻は、予約している時刻の三十分前だ。

 店から『Good Knight』までは十分少々という所だが、入店時に行う会計を考慮すると、早めに着いておきたい。


 ニーハイソックスとティーシャツも脱ぎ捨て、下着一枚の姿になる。鞄から取り出した制汗シートを取り出し、全身を拭いた。念のため両脇と背中には香料つきのスプレーも振り、元々着用してきた衣服を身につけていく。

 前回はフリルを効かせた可愛い系の服装だったので、今回はレースがポイント使いされたワンピースとカーディガンで清楚系に纏めてみた。

 髪にブラシを通し、毛先に少量のワックスを揉み込んでから、フローラルな香りがほのかに漂うヘアミストを頭上からひと吹き。

 仕事終わりの疲労感を悟られないよう、メイク直しはミストボトルの化粧水をたっぷり肌に浴びせてから、細部まで手早く丁寧に確認する。

 最後にローヒールの靴を履いて、荷物を詰め込んだら完了だ。


「……うっし、完璧」


 壁に備え付けられた全身鏡で前後をくるりと確認して、小ぶりの鞄と手提げを持ち、再び店内へ繋がる通路へと踏み出した。

 いつもならば控室から続く裏口へと向かうのだが、おそらく未だ居座っているであろう俊哉と時成に一声かける為だ。

 思った通り、例の小部屋に近づくにつれて、知った話し声が聞こえてくる。


「で、何がスゴいってユウちゃん先輩すぐに落としちゃった子の横にしゃがんだんですけどー、お皿を拾うのかと思いきやお客様を涙目で見上げて『許して……っ!』って。ユウちゃん先輩の敬語じゃない謝罪とかちょうレアですしー、表情もポーズも抜群だったんですよー。けっきょくお客様は怒るどころかテンション上がっちゃて、店内も暫く妙な熱気でしたねー」

「そ、れは良かったって事でいいのかな?」

「……なんの話ししてんだ」

「あ、お疲れ様ですー。俊さんがユウちゃん先輩のこの店での様子を気にされてたんで、武勇伝をいくつかご報告してましたー」

「すっかりベテランのいい先輩なんだね、ユウちゃん」

「勝手に余計な事をしゃべんな。そんで何でお前もそのエピソード聞いてその感想なんだ……」


 ニコニコと笑顔を浮かべる俊哉と、頬杖を付きながら呑気にストローでジュースを吸い上げる時成に、やっぱりツッコミが追いつかない。

 これ以上は気にしたら負けだと、額を片手で抑えて浮かぶ言葉を振り切ってから、俊哉のお冷を一口奪った。氷はすっかり溶けている。


「ユウちゃん先輩、今日も気合バッチリですねー」

「トーゼン。じゃ、行ってくるから、報告はまた後でな」

「はいー、健闘をお祈りしてますー」

「気をつけてね」


 ニヤリと不敵に口端を上げカーテンをくぐり、再度控室を通って今度こそ裏口へ。

 もう地図は必要ない。向かうは敵の本拠地、『Good Knight』だ。


(……よし、予定通りだな)


 辿り着いた雑居ビルの前で確認した時刻は、予約の七分前。

 我ながら絶妙の塩梅だ。背筋を伸ばして階段を登り、扉へと手をかける。

 開いた先には前回と同じく黒が目につく空間と、低く響く、


「いらっしゃいませ。待ってたよ、"ユウちゃん"」

「え?」


 告げる前に呼ばれた自身の名に、受付に立つその人を凝視する。

 明るい髪色に茶色の目と、片耳に光るピアス。ニコニコと愛想の良い笑顔を浮かべているのは。


「っ、拓さん!」

「お? 覚えててくれたね。良かった良かった!」


 安堵の息をついた拓さんは、「不審がられたらどうしようかと思ったよ」と軽く頭を掻いた。俺は微笑みながら、受付前へと歩を進める。

 カイさんから聞いたのだろうか。前回の丁寧な口調や仕草とは違い、今日はなんだかカジュアルだ。

 おそらくこれが、本来の"拓"さんの"キャラ"なのだろう。


「お久しぶりです。今日も出勤になられたんですね」


 確か俺が予約をとった時点では、休みだった筈だ。

 繋げた会話に拓さんは驚いたように目を丸くして、それからゆるりと悪そうな笑みを作り、綺麗な仕草でカウンターに肘をつく。


「オレのシフトもチェックしてくれてたんだ?」

「はい。前回お会いした時に素敵な方だなーと思ったので、つい」

「へぇ、嬉しいね。てっきりユウちゃんはカイ一本かと思ってたケド、これならまだ可能性アリかな」


 探るように目を細めて小首を傾げる仕草も様になっていて、少しだけ羨ましくなる。

 俺の身長では、そのカウンターに肘をつくだけでも不格好になるだろう。


(やっぱり、カイさんが尊敬してる先輩なだけあるな)


 随分と板についている"キャラ設定"に、相応しい容姿。

 纏うオーラも、ひと味違う。


「……ひとつ、イイコトを教えてあげるよ」


 返答を忘れマジマジと観察してしまっていた俺に、拓さんは色を含んだ声を小さく響かせた。


「ユウちゃんに会いたくて、無理矢理シフト開けたんだ」

「え……?」

「ひと目だけでもって思って。……カイにはナイショね」


 人差し指を口元に添えて、パチリと片目を瞑る。


(……すっげぇな)


 おそらくカイさんを指名して予約しているオレの代金には、拓さんへの特別手当は入っていていない筈だ。

 それでもこれだけ全力で、"サービス"を提供してくれる。

 この人も"プロ"だな、と思わず尊敬の眼差しで頷けば、拓さんは笑みを深め、


「やっぱユウちゃん可愛いね。次はオレとデートしてよ」


 ニコニコとお誘いをかける拓さんの後ろで、黒いカーテンが揺れた。


「……先輩、受付でナンパしないでください」

「っと、カイ」


 現れたカイさんは、それ以上を制するように拓さんの肩を掴んだ。

 眉間には複雑そうな皺。その顔のまま俺に「こんにちはユウちゃん」と一言かけると、大きなため息を零す。


「全然呼ばれないと思ったら……ちゃんと仕事してください」

「ごめんごめん。つい、ね」

「"つい"、で口説かないでくださいよ。オレの"お嬢様"です」

「もー、相変わらずお固いなぁカイは。あ、ユウちゃんお会計四千円ね」

「あ、はい」


(コレは……"そういう"サービスか?)


 財布を取り出し会計を済ませつつ、今の状況を整理する。

 見方によっては、お目当てのギャルソンと、その先輩が"俺"を巡って言い争っているようにも思える。

 あれだ。漫画とかドラマでよく見る、『私の為に争わないで!』という。


「んー? カイ、顔怖いよ?」

「……心配しているんです。唯でさえユウちゃん、先輩のこと気に入ってるんですから」

「え!? そうなの!? じゃあやっぱり一回くらい一緒にデートしよーよー!」

「だから、止めてくださいって」

「選ぶのはユウちゃんの自由だろ?」


 ふむ、成る程。確かにこれは美味しいシチュエーションだ。

 鉄板といったら鉄板ネタだが、リアルに体感すると何とも言えない優越感がある。


(今度、ウチでもやってみっか)


 時成辺りなら、喜んで協力してくれるだろう。

 そんな思惑に浸り沈黙を保つ俺に、気づいた二人が不思議そうに首を傾げた。


「あれ? どうかした?」尋ねる拓さんに、

「あ、いえ。お二人のやり取りを見て、初めて"奪い合い"の良さがわかりました。中々グッときますね、コレ」


 素直に述べた感想。二人は面食らったようにパチクリと瞬く。

 次いで「ブハッ!」と勢い良く吹き出したのは、拓さんの方だった。


「アッハハ! やっぱりいいね、ユウちゃん!」


 お腹を抱えて笑い出した拓さん。今度は俺が首を傾げる番だ。


(……『僕の為に争わないでくださいっ』と割って入った方が良かったんだろうか)


 問いかけようとした矢先、俺と拓さんの間が急に黒に阻まれた。

 カイさんだ。見上げると、辿った先には渋い顔。


「時間とっちゃってごめんね。行こう」

「え? あ、はい」


 俺の記憶しているカイさんの"キャラ"ならば、促す際は『行こうか』と伺うような口調だった筈だ。

 きっぱりと言い切るなんて珍しい。目新しいからか、ちょっとドキリとした。

 開かれた扉へ足早に歩を進めると、


「あーあ取られちゃった」


 笑いを噛み殺す声に振り返れば、お腹を擦りながら中央まで進んだ拓さんが、カツリと床を鳴らした。

 シャンと伸ばされた背。纏う空気が変わる。


「それでは、良い夢を」


 うん、やっぱり格好良い。

 片手を胸に添える姿がいつもよりも近く思えて、俺は頷きながら微笑みを返した。


「今日はどうする?」


 尋ねるカイさんは「足元気をつけてね」と前回同様に注意を促しつつも、まだ不満が残っているらしい。

 お得意の柔い笑みを作っているつもりだろうが、残念ながら、目が笑っていない。


「……またあのカフェに連れて行ってもらってもいいですか? 別のメニューも食べてみたくて」

「うん、いいよ。嬉しいな、ユウちゃんも気に入ってくれて」


(あ、駄目だ)


 甘い言葉を吐いてみせるのに、未だ固さの残る目元を見つけて、堪えきれずに頬が引きつる。


「……どうかした?」


 俺の"技"をも見破るカイさんが、この不自然を見逃す筈がない。

 歩を止めずに覗きこむ眉間に、不可解そうな皺が寄る。

 俺はを意を決して、


「カイさん、まだ怒ってる?」


 当たり障りのない言葉で躱すことも可能だったが、敢えて切り込む事にした。

 先ほどの"奪い合い"で知った俺に執着する姿に、少々浮ついているのかもしれない。


「……どうして、そう思うの?」

「目、笑ってないです」


 悪戯っぽく人差し指を口元に寄せ、


「僕の目は誤魔化せないですよ」


 見つめる双眸を細め両の口角を上げる笑みは、"ユウ"ではなく"俺"のお得意技だ。

 カイさんは虚を突かれたように、目を見開き、


「……さすが、だね」


 綺麗にセットした前髪をクシャリと掻き上げて、諦めたように苦笑を零す。


「拓さんがユウちゃんのことを気に入ってるのは分かってたんだけど、まさかあそこまで露骨に迫ってくるとは思わなくて」


 『分かっていた』ということは、やはり拓さんとの間に俺の話題が上がっていたようだ。

 何を話したのかは定かではないが、拓さんの様子から察するに、今の所は俺に不利益な内容ではないだろう。


 そっと視線だけで隣を歩くカイさんを伺う。

 進行方向だけを見つめる、バツが悪そうな顔。落ち着かなそうに彷徨う手。明らかな動揺に、俺の中の悪戯心が疼く。

 このまま逃してあげるのが、ちょっとだけ惜しくなった。


「……それで、怒ってたんですか?」


 あくまで自然を装った追求に、カイさんの肩がピクリと跳ねた。

 片手を口元に添え、言い難そうに「あー」と間延びした声を零す様も、スマートなカイさんらしくない。

 らしくない、けど。


「……先に、謝っておくね」

「カイさん?」

「その……ユウちゃんも拓さんのこと気にしてたの知ってるし、拓さんにあんなこと言われたら、本当に取られちゃうような気がして……」

「っ」


 頬と耳を真っ赤にして口元を覆うカイさんに、心臓がキュッと締まる感覚。


(……可愛いじゃん)


 自分でも予想外。そうありありと示す恥じるような表情は、雰囲気からして演技などではない。

 反射で感じたのは何とも言えない愛らしさ。それと。


『俺を、取られたくなかった』


 そう揶揄した言葉が、胸中に染みこんでいく。

 そして同時に湧き出る疑問。


(そう、言ってくれたのは)


「……それは」


 "俺"が、カイさんの"客"だから?


「ん?」

「……いえ、何でもありません」


 笑顔で首を振り、喉元まで出てきていたその言葉を飲み込む。


(だって、おかしいだろ)


 俺の目的はカイさんの"オトモダチ"になる事で、"特別"になる事じゃない。

 この質問は、無意味だ。


「大丈夫ですよ」


 自身の心に生まれた僅かな引っ掛かりを意図的に無視して、真っ直ぐにカイさんを見上げた。


「僕は、カイさん以外を選ぶつもりはありません」


 何であれ、この言葉は紛れも無い真実だ。

 たぶん、これからも。"嘘"を積み重ねる俺の、揺るぎない"本当"。


「……そっか。ありがとう」


 俺の隠した邪な計画など露知らず、カイさんは安心したような笑顔を向けてくる。

 チクリ。針を刺したような微かな痛みは、きっとその笑顔を裏切っている事への罪悪感だろう。


(裏切り? いや)


 "オトモダチ"になった後も、この打算的なきかっけを伝える必要はない。

 真実を知るのは、俺と俊哉と、時成だけ。誰も損をしない。誰も、傷つかない。

 そう。ただの、小さな"嘘"だ。


「なんか、重いよね。本当ごめん」

「そんなコトないです。嬉しいですよ、僕としては。カイさんの貴重な照れ顔も見れましたし」


 満足気に頷く俺に、カイさんはしまったというように再び口元を覆った。

 演技ではなく自然と変わる表情。"本当"のカイさんは、感情豊かな人なんだろう。


(また一歩、近づけた)


 その事実が、なんだか嬉しい。


「今日はパフェを頼んでみようと思ってるんで、カイさん手伝ってくださいね」

「……ユウちゃんの頼みなら、喜んで」


 不本意に乱されたペースに、いつもの"カイ"さんを取り戻そうとしていたのだろう。

 返答前にこっそりと繰り返されていた深呼吸は気づかないフリをしてあげて、見覚えのある路地を二人で進んでいく。

 前回よりも少しだけ色が濃く見えるのは、気のせいだろうか。


「はい、お疲れ様」

「そんなに歩いてないですよ」


 以前のように、ドアが開けられる。「ありがとうございます」と通り過ぎ踏み入れた店内は、前回よりも賑やかだ。見れば席は七割ほど埋まっている。

 満席じゃなくてよかった。

 危なかった、と息を付きながら、何と無しに捉えた前回の席。優良すぎるそこは当然埋まっているだろうと思いきや、座る人の姿はない。


(……変だな)


 飲食店で優良席を開けておくのは、イメージダウンにも繋がりかねない。

 他の予約でも入っているのだろうか。


「いらっしゃいませー。あ、お待ちしておりました! また来てくださったんですね」


 明るい笑顔で先を施すのは、前回も世話になった店員さんだ。後頭部で結上げられたブラウンのポニーテールが、印象に残っている。

 案内されるままついていくと、通されたのは。


(っ、なんで)


 衝撃に固まる最中、遠くに「ご注文、お決まりになりましたらお呼びくださいね」という声が届く。


「ユウちゃん、鞄と手提げ貰うよ」

「っ、あ、すみません。あの、もしかして……」


 差し出された手に荷物を受け渡しながら、浮かんだ可能性にカイさんを見上げる。

 綺麗な仕草で促され、ポスリとソファーへと腰掛けると、やはり荷物にハンカチを被せてくれたカイさんはクスリと小さく笑んで、



「もしかしたらと思って、念のためにね」

「っ」


(おいおいマジかよ……)


 つまり、俺がこの店を選ぶ場合を仮定して、先に予約をしておいたということだ。

 サラリと言ってみせるが、俺が『また』と望まなければ、只の手間でしかない。

 それならせめて、リクエストを聞いてからその場で店に連絡を入れたほうが、遥かに効率がいいだろう。

 椅子を引き、カイさんが腰掛ける。ポカンと呆け続ける俺にメニューを広げながら、カイさんは小さく吹き出し、


「さっきの店員、知り合いなんだ。だからちょっとした"ワガママ"なら、融通が利くんだよ」

「! そう、なんですか」


 ドキリと。

 心臓が強く跳ねたのは、示された関係がまさに俺の"目的"そのものだったから。


「今日はパフェだっけ?」

「っ、はい。いちごのパフェがこの間から気になってて……」

「いちご、好きなの?」

「え?」


 見つめる瞳がふわりと緩まる。


「ワッフルもいちごだった。あ、飲み物は?」


 カイさんは通りすがった店員さんを呼び止め、「いちごのパフェを一つ」と注文を告げた。

 店員さんは用紙に書き留めると、促すような視線をくれたので、


「紅茶のホットを。カイさんは?」

「そんな、いいのに」カイさんの眉尻が下がる。

「ダメです。パフェ、手伝ってくれないと困ります」

「水でいけるよ?」

「どうせなら美味しく食べてください」


 譲る気はないと腕を組めば、ペンと用紙を手に見守っていた店員さんが、「ありゃ」と破顔して、


「こりゃカイの負けだね。はい、ご注文は?」

「……コーヒーの、ホットで」

「かしこまりましたっ!」


 なるほど、"知り合い"か。

 彼女はポンッと軽くカイさんの肩を叩くと、「少々お待ちくださいね」と俺に笑顔を向け去って行った。

 明るい人だ。カラリとした笑顔がとても清々しい。


「仲、いいんですね」

「……なんだかんだで付き合いが長いからね」


 グラスを手に取り一口を含んだカイさんは、薄く息を吐き出した。置かれた拍子に、木製の机がコトリと鳴る。

 次いで気を取り直したように、机上に肘をついた。指先を顎前でゆるりと組み、


「それで?」

「へ?」

「いちご、好きなの?」


 お得意の柔らかな笑みで尋ねられたのは、先程の問い。

 ただの言葉遊び程度に捉えていたが、どうやらキチンとした話題の提供だったらしい。


「そんなに気になります?」

「うん。ユウちゃんの好きなモノ、オレも知りたい」


(すっかりいつもの調子だな)


 返された甘い台詞に、つい肩を竦める。

 人は『特別感』に弱い。

 それも、常連ならばともかく、たった一度通っただけの馴染みない『ご新規さん』からすれば、前回の注文を覚えていると言うだけでも、十分に『特別』を感じるだろう。

 なるほど。正しく俺には、相応しい演出だ。


(さて、どうしたもんかな)


 露呈した新たなスキルをきっちりと心のノートに記して、次の選択肢を思案する。

 照れたように頬を染めて視線を流してみようか。それとも、拗ねたように唇を尖らせて上目遣いでもしてみせようか。


(いや、どっちも却下だな)


 今回はそういった"ワザと"は禁止だった。

 思い出した俺は、ただ微笑んで首肯した。


「好きですよ。たまには他のをとも思うんですが、ラインナップにいちごがあったらやっぱり選んじゃいますね」


 因みにこの間ほんの数秒。

 不自然さはなかったのだろう。カイさんは満足そうに双眸を細めて、


「甘いモノは好きだけど、飽きやすいタイプ?」

「いえ。しいて言うのなら誰かと共有したいタイプですね。なのでカイさんにも、一緒に食べてほしいんです」

「そっか。ユウちゃんは優しいね」

「……今の文脈に優しい所なんてありました?」


 不可解な返答に、思わず眉を顰める。

 そんな俺の皺を見つけて、カイさんはクスクスと零し、


「うん。オレに気を使わせないようにって返してくれるから」

「そんなつもりじゃ」

「でも、そう取れる言葉を選んでくれるのは、ユウちゃんの優しさだよ。ありがとうね」

「……」


 周囲に花を撒き散らすような暖かい笑顔に、たまらず視線を落とした。


(くっそ、勝てねー……)


 こうした切り返しが自然と出来るのは、経験値の差なのだろうか。それとも勉強量の違いなのだろうか。

 いや、おそらく"彼女"は、他者の感情に敏感なのだと思う。

 ひざ上でひっそりと拳を握り、悔しさを逃がす。カイさんには、気づかれたくない。


 程なくして、カップと皿を乗せたお盆を手に、店員さんが向かってきた。


「ほい、お待たせしました。いちごパフェと、紅茶とコーヒー」

「ありがとうございます」


 目の前に置かれていく陶器を見つめていると、彼女は最後に俺に向き直り、


「それと、取り皿も。必要でしょ? これで全部かな」


 前回の『お願い』も、しっかり覚えていてくれたらしい。

 彼女はニッと爽やかに笑んで小皿を置くと、机上をざっと確認して、「ごゆっくり」と伝票を伏せた。


「ありがとうございます」会釈した俺に、

「いいえー!」と去って行く。


 俺の目の前には、ガラス製のパフェグラス。カットされた真っ赤ないちご達が、白いクリームと半円のアイスを鮮やかに飾っている。

 今回は専用のパフェスプーンが添えられているため、カトラリーを手渡しされる心配はない。スプーンの先端に巻かれた紙ナプキンを外しながら、綺麗に積み重なる層とにらめっこをして、今更な疑問に頭をひねる。


(……パフェって、どう分ければいいんだ?)


 例えば俊哉や時成が相手なら、スプーンごと渡してしまえるだろう。だがカイさん相手ではそうにもいかない。

 たっぷりと悩んだ末、中央よりやや左側から慎重にスプーンを差し込み、崩さないようにそっとすくい上げて取り皿へと横たえた。その上に、いちごをコロコロと乗せる。


「……見た目悪くてすみません」

「ううん、ありがとう」


 無言のまま楽しげに見守っていたカイさんの前に小皿を置くと、「嬉しいよ」と返してくる。


(なんだかな……)


 出来る限り頑張ったつもりだが、やはり無残な姿だ。

 今度はパフェ以外にしよう、と心中で決意を固める。と、カイさんが伸ばした指先で、カツリとパフェグラスを鳴らした。


「ほら。そんな顔してないで、食べて」

「っ、いただきます」


 片手を口元に添えて笑う、あの仕草。

 ドキリと跳ねた心臓を誤魔化すように、慌てて一口を含む。いちごの酸味と生クリームのまろやかな甘さが、舌上に広がった。

 うん。やっぱり、美味しい。


「どう?」

「おいしいです、スゴく」

「ワッフルとどっちが好き?」

「う~ん……でもやっぱりワッフルの方が好みですかね。って、なんだか今日は質問ばかりですね」

「気になる人の事は知りたくなるから」

「そ、ですか」


(急にダイレクトだな!?)


 サラリと告げられた"告白"に、つい手元が止まる。

 あからさまな動揺。そういう"キャラ設定"なのだと理解していても、体温が上がってしまうのは仕方ないだろう。

 悲しいかな、『アイドル』的な扱いを受けつつも、それだけで決してモテているとは言い難い人生を歩んできた俺は、こうした実直な好意の言葉に慣れていない。

 こんな時、やっぱり俺は食べることに集中するしかなくって、せっせとスプーンを動かしてアイスとクリーム、そして砕かれたスポンジを咀嚼していった。先がガラスをこする度に、鈴のような高音が響く。

 視線だけでこっそりと伺うと、対面で優美にコーヒーカップを傾けるカイさんは、ご機嫌そうな笑みを浮かべていた。スプーンを動かす手もゆったりと、余裕が滲む。


「……お客さん、勘違いしませんか?」


 こういう商売では、"サービス"を本気にした客とのトラブルが後を絶たない。

 恨めしさ半分、興味半分でポソリと尋ねた俺に、カイさんはやはり柔らかな視線を向け、


「嫉妬?」

「違いますよ。純粋な"心配"です」


 茶化してくるカイさんに、緩く首を振る。

 カイさんは数秒俺の表情を観察すると、カップを置き、弱ったというような苦笑を浮かべた。


「相手は選んでるよ」


 きっと、経験があるのだろう。確信をボカした返答に、その意図を汲み取る。

 わかっている。いくらこちら側が気をつけていても、対処しきれないのが現状だ。

 ましてやカイさん程の人気なら、様々な人を相手にしてきているだろう。

 でも、だったから尚更じゃないか。俺は呆れたように息をつき、


「……ホント、気をつけてくださいね」

「……うん」


 困ったような笑みに、微かな違和感。けれども俺はそれ以上の追及をやめた。なんとなく、引き下がった方がいいように思えたのだ。

 それからの会話は、殆どがとりとめもない内容だ。カイさんの返しはやはり所々"らしい"が、俺が反応する度に、楽しそうにしていた。

 程なくして会話を遮った、控えめなバイブ音。二回目である今回からは、終了五分前にかかってくると言っていた。


(もう、か)


 断りを入れて席をたつカイさんの背を見つめながら、紅茶を流し込む。パフェグラスはなんとか空になった。カイさんに渡していた小皿の上も同様だ。

 お試しコースではなく正規の予約となった今回は、三十分のエスコートだ。十分の差が思ったよりも大きい。会話が盛り上がってきた所で、終わってしまう。

 ならば一時間のコースが理想かと思案するが、思い起こされたカイさんの出勤表に、それは難しいかと打ち消した。

 人気なこの人の表は、殆どが『予約済み』で埋まっている。


「ごめんね、お待たせ」

「あと五分ですか?」

「うん、早いね」

「同じこと思ってました。一緒ですね」


 小首を傾げると、カイさんは席につきながら肩を竦め、


「ユウちゃんも気をつけてね」

「何をですか?」

「可愛い子に"勘違い"はつきものだから」

「っ」


 揶揄しているのは、先程のやり取りだろう。思わぬチャンスに俺は脳を駆け巡らせる。

 本音は「カイさんにだけです」と返したい所だが、きっとそれではまた、カイさんの疑念を深めてしまうかもしれない。

 ついでに言うのなら、『手慣れている』と勘ぐられても面倒だ。


「……相手は選んでますよ」


 笑顔で同じ言葉を返し、俺は立ち上がる。カイさんも俺に習って立ち上がると、しゃがみ込んで荷物を取り出してくれた。

 鞄と手提げを手渡してくれるその眉間には、微かな皺。


「それなら良いけど……」

「不満ですか?」

「心配してるだけだよ」


 どうやら珍しく主導権はこちらにあるようだ。

 この好機を逃すほど、俺は馬鹿じゃない。


「心配、しててください」

「え?」

「そうすれば、俺がカイさんの心配をしててもいい理由になるでしょ?」


 ニコリと笑んだ俺に、カイさんは目を見開いて固まった。珍しい。なんだか一本とったようで嬉しくて、俺はクツクツと笑いながら伝票を掲げる。


 「先、外で待っててください」


 そう背を向けると、「あ、うん」と虚をつかれたような声が届く。

 こっそりと吹き出して、背筋を伸ばしレジへ。

 どうやらカイさんは、"言われる方"には慣れていないらしい。

 少しだけ、優越感。何故だろうか。


 レジで伝票を処理してくれるのは、勿論あの店員さんだった。俺の背後を通り過ぎ、店の扉から踏み出したカイさんにポニーテールを揺らして手を振ってから、


「どう? 美味しかった?」


 俺に向き直り訪ねてくるので、笑顔で肯定する。と、


「でしょでしょ~!? もうこの味にたどり着くまで何回試作を重ねたことか……」


 大きく息をつくその人に、納得する。なるほど、やっぱり研究を重ねているのか。

 すると、その人は閉まった扉を確認してから、前のめり気味に上体を傾けた。外からの視界を遮るように口横に掌を立て、


「カイね、本当はブラックよりミルクと砂糖たっぷり派。良かったら参考にして」

「へ?」


 そっと耳打ちされたのは、貴重な本当の"彼女"の情報。

 どうして。

 顔を跳ね上げた俺に、その人はカラリと笑って、


「あんたがあんまりにも健気だからね。おねーさん、ちょっと応援したくなっちゃった」

「え、と」

「あたし、吉野里織よしのさおり。またのお越しをお待ちしてます」

「っ、はい! ごちそうさまでした」


 下げられた頭に反射でペコリと返し、手を振る吉野さんに見送られながら店を出た。

 そこでやっと、俺の脳が仕事する。


(応援って、バレたワケじゃないよな?)


 彼女と言葉を交わしたのはたったの数回。それも、店員と客としての、形式的なものばかりだ。

 俺の実の目的が見抜かれた可能性は極めて低いが、それなら彼女の"応援"とは、何を示していたのだろうか。

 紐解くにはまず。


(ってかあの人、俺の性別どっちだと思ってるんだ?)


「ごちそうさま」

「っ、いえ」


 俺に気づき振り返ったカイさんに、困惑を胸中に押し込める。

 何はともあれ、リークしてもらった情報は、次回にでもありがたく使わせて貰おう。

 脳内でちゃっかり算段を立てながら、


「付き合って頂いてありがとうございました」微笑んだ俺に、

「こちらこそ。こんなこと言ったら怒られるかもだけど、ユウちゃんといるの楽しいからいい息抜きになるよ」

「拓さんには黙っておきます」

「うん、お願い」


 苦笑して頬を掻くカイさんに笑顔で首肯して、「それじゃあ」と両の掌を身体前で重ねた。

 この後も予約が埋まっていた筈だ。早めに帰してあげないと。


「また、次に」

「うん。待ってるね」


 去り際は、あっさりなくらいが丁度いい。

 頭を下げて背を向けようとすると、カイさんが「そうだ」と零す。

 視線を遣ると、


「今日は"この間"みたいなの、やらなかったね」

「!」


(気づいて、たのか)


 特にそれらしい反応は無かった。てっきり、覚えていないのかと。


「またね、ユウちゃん」


 『してやったり』というように、カイさんが笑う。その笑みがあまりにも嬉しそうだから、俺はただ苦笑して、


「はい、また」


 片手を振るカイさんに、俺も手を振り返す。

 今度こそ踵を返して、一人路地へと踏み出した。


(……やっぱり強敵だな)


 でも今日は、収穫が多かった。

 満足感に浸りながら、振り返らずに歩を進めゆく。


 この時の俺は、少しずつ縮まっていく距離が、ただただ嬉しくて。

 俺の辿る"計画"が綻び始めていた事など、知る由もなかった。




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